やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーセイバー カリバー編,SOL再結成編 感想メモ

約束、後に残る
神獣生物物語 メギド、ハルマゲドンの地
男根の象徴なので女性ライダーは……?
紅白、白黒 ホロウ ディアブロ
赤き龍(サタン)と白馬に乗った救世主 666、アスタリスク
ペンは剣よりも強し
ライダーデザインには本要素なし
快刀乱麻 単純明快
3冊、3ライダー 1→2→3→4ページ
四聖獣 玄武、亀甲模様も6
ジャックと豆の木 ヤコブ
セイバーのXは4(アスタリスク)、ブレイズのVは3、エスパーダのO
道具の剣に魂が宿る ゼロワン
本 無機物に投影する
セイバー/聖刃 救世主
ロゴス(論理)とミュトス(物語)
カリバーとブレイズ似てる エスパーダは天使の輪っか
タッセルは栞
シャボン玉、儚い ワンダーワールド
「MAEGAKI EIEN GAHONN IYORIUMI DASARERU」
3冊コンボ、ビルドトライアル
バンクED尺稼ぎ
シミー紙魚 アリかキリギリス
3冊セットししないと本来の力を出せないのはセキュリティ
言葉は線状 頭の中では同時に存在しているのをピューっとマヨビームにしないといけない
XPでキリスト、セイバーと水勢剣
世界の勢力均衡、イギリス カリバーは必要悪?
大いなる本→世界→本 アルターライドブックは再翻訳
本と剣、どっちが先か 循環構造は宗教的な自己言及
アカシックレコード 十字架は去勢
始まりと同じ文字で終わる アルファとオメガが同一
虚構が助けてくれる 宗教と仮面ライダー
剣に文字 ワカタケル シンケンジャー
ウロボロス 聖体
カリバーOP、ゼロワン
契り パン キリスト
メギドの丘ハルマゲドン ヨハネの黙示録
ページプッシュ 激土のリード 無理矢理感
フェンリル、ハンミョウ、歌う骨 キマイラメギド
2ページ目が開く
クロスファイア シンケン
almighty アルマゲドン
King of Author 主従逆転
ファンタスティックライオン ヴェネツィアの獅子
15年前は響鬼 父親と師匠
光あれ、指示の順が逆転 ひか"あり"

 

 7話
尾上はリベラシオンでの修練に耐えられないから抜かれた? メドゥーサ 
前回の剣斬からそうだけど、本来バンクシーンの方が使いまわし前提の手抜きなのに、それがなくて従来と同じ現実の景色を背景に変身エフェクトがかかる方式の方がむしろ"手抜き"に見えるの、あの演出が大成功してる証だな。
月光、暗黒、斬撃 空耳翻訳
魔王

 8話
賢人闇落ちフラグ、いつか気持ちが分かる ED、生み出せなくなる 代々受け継ぐ、子孫と弟子 king of author 

 9話
力を制御する輪っか ヘンゼルはヨハネ、グレーテルはゲーテ
スラッシュがエグゼイドっぽいってのはもう聞き飽きたけどマイティアクションXがお菓子を食べてパワーアップするゲームだったってのは今初めて思い出したな。

 10話

 11話
誰かと話すタッセル 忘れたままでいい 倫太郎の私情

 12話
三人での約束に意味がある? 少女ルナ 15年前に同じ光景を見た 扉に吸い込まれたルナ 賢人は飛羽真の言うことしか聞かない 市民を助けて扉を開く ずっと一緒、永遠 絶対助ける バイクで約束の場所の場所へ向かう

 13話
カリバーの柱 ルナの力、真理の扉から持ってきた

 14話

 

 16話

 18話
なるへそ。今回のエピソードは見ようによってはむしろ飛羽真の方が"人の話を聞いてない"んだな。新米ひよっこ剣士の癖に「自分だけがメギドの真実を知って正確に対処しようとしている」と傲慢になって、一方的にユーリやみんなを止めた。
こりゃ倫太郎たちばっかり責めてられないわ。
 ユーリの口ぶりから、最光じゃなくても聖剣で切れば万事解決な可能性すらあって、きちんとSOLで学んでいる剣士たちにとっては自明のことだから切りかかっていただけで、本当に飛羽真が早合点して暴走してたのかもしれない。
それをユーリのキャラ性を利用してただのギャグに消化し見易くしてるのか。
 ユーリから見ると
「(アヴァロンでカリバーを止めようとしてた)セイバーに戦いを挑む倫太郎たち→メギド側に寝返ったのか?」
「その直後あたりからメギドを倒すことに疑念を抱き始める飛羽真→寝返った倫太郎達のほうが正しいのではと感じてるのか?」

「今の剣士は俺とは相容れない」なのかな。

 23話

小説家は嘘つき、方法は必ずある
マスターの偉さを、禁書のやばさをよく分かってない 無知は罪
かっこいいDK
はじまりの人 憑依、閉じる終わらせる力 DKH
未知なるものに飲み込まれるとき 闇を切り裂くのは光か魂さ
忘却の果てには悲しみが破滅の手
イカは何がしたい? 煙に巻く
飛電製作所、ショッカーから抜けて新たな組織を作る 残る倫太郎
悲哀の魂、理解されないが故に力を求める

 26話
飛羽真「倫太郎、俺はやっぱりルナに言われた男の子を救いたい。あの子は一体誰なんだろう……え、裏切者は神代さんでカリバーが賢人?」
今週はこの訳の分からなさをとりあえず楽しむみたいなバランスにギリギリ収まってた印象だけど、これを綺麗に線で繋げる自信があるのかと思うと次回が楽しみ。
結局誰の話をしたいのかって考えると、まぁみんな"孤独"ってキーワードでくくれるとは思うんだけど、それをどうドラマで見せるのか。

 27話
・ドラゴンが力を恐れた人間たちに襲われたってのはみんなに「力を求めてて危険だから聖剣回収する」って狙われてたのとまんま通じるから飛羽真があそこまで体張るほど彼に感情移入してたのは割と分かる……というか、あれはもはや感情移入とかそういう次元じゃなくて飛羽真自身な気がする。
・友達がみんな死んじゃったのも、彼に新たな友達をつくるだけの心の余裕がないこともどうしようもない事実で、そうなってしまった……というか多分そうなってなくても、"魂を救える"のは結局宗教や思想なんだろうな。
丁度アギトの感想に書いたけど、死んだ昔の友達は土に還ったり千の風になったりして、どこにもいないからこそどこにでもいる。そういうある種の綺麗っぽい嘘,つくりばなしが救いになるというのは、作家らしくもあり、実に救世主(セイバー)らしい。
・勝手に新たなストーリーを継ぎ足す禁忌を犯したら「もう助からない」らしいので、飛羽真もゆくゆくは真司みたいに死ぬんだろうか。セイバーでやったらまごうことなきキリストの贖罪だな。
あぁ、死の悲しみを受け入れ乗り越えることは死を肯定することにも繋がるので、レジエル殺害もアリになるのか。
・飛電製作所も若干そうだけど、令和は白倉さんがどちらかと言えば否定的に言ってた「裏切り者の仮面ライダーがショッカーから離反して、同族を仲間にしてって新たな組織をつくる話」を肯定的に捉えてやってく感じなのが、なんか知らんけど結構好み。

 29話
・物語の不幸なキャラを助けたいと思うこと、思うだけならあるよね。行動するのは無理があるけど。
・賢人はエクレア好きじゃないのかな。3話じゃ真っ先に食べてたけど。
・マスターの目的は本と剣を全部揃えること……のはずだけど、エレメンタルドラゴン誕生も計画のうちってのはどういうことなんだ? 単に、揃えたいけどプリミティブは扱いが面倒だから大人しくさせたかったってだけかな。怪物的な怪物の本的な。
・剣士は必要ない……もしユーリが剣のままだったら、例え剣士が全員殺されて剣だけ集められたとしても、ユーリは光剛剣として無闇に倒されない立場で戦うことができることになるけど、そういう意図もあったのかな。
・今更だけど、元々SOLにいた剣士達って"人間"だったのか。ソフィアやタッセルみたいにあっちの人かと思ってた。
・全知全能の書って2000年前から失われてるの? ユーリたちが戦ってたのは1000年前だけど、この辺どういう設定だっけ。最初の反逆者は4人組だったから確かに今の(そして1000年前の)3幹部じゃ数が合わないけども。……4人?
・4賢人、複数人が話し合って意思決定をする"均衡"の象徴
・この青き鬣が新たに記す気高き王者の戦いの歴史。
この群青に沈んだ命が今をも紡ぐ刻まれた歴史。
・くすんだ赤と青、EPドラゴンと神代兄妹
・倫太郎の中にある過去の正しかった組織vs今の歪んだ組織
・秘すトリー開示 逆さにする関係からかエンブレムが唯一ライダーの顔と違う? そういや最光もエンブレムなかったような。
あの能力は飛羽真達を見てる感じ、任意の範囲内にいる人間を対象に(途中からは自分だけを対象してる)、少し先の未来を先取りして現在に持ってくるって感じなのかな。倫太郎は戦闘中で右往左往してたから分かりにくいけど、明確な目的地のある飛羽真が混乱少なく先へ進んでたので、本来A地点から3分後にB地点へ移動するとして、能力を発動すると今すぐB地点にワープするのか? 凌牙本人は先取りする未来の時間にどこへ行くかは自分で決めとけばいい訳なので混乱しない。もし凌牙が明確な意志でもって倫太郎や飛羽真達をもワープさせてるなら、飛羽真に対して「(予想があたって)やはり来たか」とは言わないだろう。予想も何も自分で誘導したんだから。
・能力が未来先取り(ただし現時点で予想される未来)なら、飛羽真と倫太郎の会話は確かに待たなくちゃいけない。話をする前の飛羽真に剣と本を渡す気がなかったのなら、そこから未来を先取りしても手には入らない。もし本人の意志とか関係なくただただ本当に確定した未来を先取るだけなら、発動した結果デュランダルが劣勢になってる可能性も有り得るのであまり意味がない。
・倫太郎のためなら、きちんと話をして分かりあったあとなら、あれだけ嫌がってた本と剣を差し出してもいい?

  30話
・飛羽真は謝らんのか。カリバーの言葉を信じて組織を疑って、それが正しかったのは結果論でしかない。まぁみんな的には「倫太郎が謝る道理なんてない」って感じだから、飛羽真も謝らなくていいんだろうけど、なんかちょっとモヤるな。
・「ワンダーワールドが見える」ってのは、文明が発達する前は多分当たり前のことだったんだよな。自然の偉大さに神を感じたり、夜空の星を見て動物やストーリーを見出したり、突飛な物語は日常の中に当然とあった。世界最古の彫刻に、ライオンの頭を持つ人間を象ったライオンマンというのがある。芸術はすべて模倣から始まると言うが、とするなら彼らの目にはもしかするとライオンマンが見えていたのかもしれない。麻薬等による幻覚かもしれないけれど、その区別が付かなければ実在しているも同然。
・人とメギドの分離……剣士から剣になってキングアーサーに使われたり(キングオブアーサー)、逆に今度はドラゴンモチーフのない純粋な剣士となってドラゴンを使役したり(ドラゴニックナイト)、ユーリからもらった2つのアヴァロンの力……曰く"試練"を乗り越えた飛羽真だからこそできることでもあるのかね。
・セリフでも言ってたけど、「組織は僕にとって家族なんです」って言うならじゃあ今の自分たちは違うんだ? それより大事じゃないんだ? みたいな気持ちになってしまうのはよく分かる。芽依と倫太郎は出会ってそんなに経ってないとはいえ、非戦闘員にも関わらず戦場に赴き倫太郎のそばにいた芽依の気持ちは結構強い、なんでかはよく分からんけど。甘い物好きのよしみ……というか、(自分の見る限り)飛羽真に初めてできた対等な友達として好き?
・さっきの理屈で言うと、倫太郎も剣にこそなったことはないけれど、キングライオン大戦記でずっと使役される側だったライオンへの変形を身に着けてるので、分離能力に覚醒する条件は満たしてるかもしれない。
・蓮のことは正直興味なかったけど、片方だけ封印されたってことは、それを補う闇落ち変身アイテム(ダークセイザブラスター的な)がプレバンで発売する可能性があるかもしれないな、そんなら楽しみだ。スーツはあんまり怪人寄りにならずかっこいい感じ……シルバラくらいのバランスに収まると嬉しい。
・チェシャ猫気取り?のメギド、アリス見たことないんだよな……
・つらいよな……倫太郎には罪の意識があるから、罪のない芽依が自分より犠牲になることを許せない

 

31話

・北の守護者……というのは流れからしてソフィアだろうけど、好都合というのはどういうことだろう。彼女が結界を張ったことでノーザンベースは安全になり組織としての求心力も戻ったので人が集まりやすく、裏を返せばノーザンベースさえ落としてしまえばこっちのもの、みたいなこと? 或いは本から生まれたというソフィアの生い立ちに関係があるのだろうか。
……っていうか、そうか。"本と剣を一箇所に集める"ことが目的なら、マスターロゴスが自分の持ってる分をノーザンベースに持っていけば達成できてしまうのか。
・飛羽真には選択肢があったけど、倫太郎にはそれがないので芽依ではなく飛羽真を守るしかない。試合で勝ったら分離できる可能性のある火炎剣烈火を倫太郎が使って(仮にも剣士としては先輩だし)自分が救う……ってことか?
・烈火が自らの炎で自らを鍛えられるように、相手の剣も鍛えられる……理屈としては分かるな。不完全だった飛羽真の分離能力の方もおそらく研ぎ澄まされてるんだろうから、倫太郎がワガママ言って余計な寄り道させてる訳でもない。
・死なずにワンダーワールドの一部になる……飛羽真が言ってた死後の世界(死んだ魂は自然に還る)と全く同じ話じゃん。
沈まぬ太陽なくす世界で問われるのは、何を信じるのかだろう〜♪
北風と太陽作戦ってのは、イマイチ分からんけど、アクセサリーが邪魔なら本人に外させてしまえってことなんだろうから、ネコメギドがブレイズの攻撃に対する盾として使う……のを見越して威力弱めの峰打ちにしといて、その隙に飛羽真がってことなのかな。あの分離防御自体初めて見た気がするから(違ったらごめん)、前に一度見せてたらもっと自然だったけど。
・……今回は結構演出も冴えてて盛り上がったんだけど、以前そこまで重要でもない流れで「本が完成した瞬間に斬って分離する」ってのを飛羽真がやってのけてたので、一応ユーリにリスキーだと咎められてはいたものの、最悪それでいいんじゃねってのが頭の片隅にあって本気では芽依を心配になれなかった。まぁだから、助かったときのギャグ演出がむしろしっくり来たくらい。緊迫感こんなもんだったよねって。

 

 32話
・マスターとストリウス、こないだのプリミティブドラゴンのときに知り合ったのか、それとも最初からグルなのか。アナザーブックを書く方法とか、彼から横流しされたSOLの禁書とかで学んだのかもしれない。あるいは逆で、ストリウスが現マスターをSOLに送り込んだのか。
・マスターは弓使い……なのかな? これはあくまでFGOの話だけど、弓は剣に強くて、そして槍に弱い。デュランダルに一矢報いられる展開来るか?
・新しい玩具が出る前に、きちんとキングライオンにも見せ場を用意した前回、かなり良かったよな。
・飛羽真がいち早くデュランダルの能力に気付くの、理に適ってはいるんだよな。初登場回に僕が彼の能力についてなんとなく理解できたのも、何より飛羽真の動き(さほど混乱せず前進し続ける)が最大のヒントになってたし、今回も気付く直前に、倒れてる状態で抹消に巻き込まれて再び同じところに現れている……つまり、やっぱりワープじゃない。彼の能力は謂わば"未来の先取り"なので、飛羽真は本来あのまま何秒間か地面に這いつくばっていたであろうから、移動しない。対してユーリはデュランダルに向かって走ってたので、少し先の地点に出現する。
抹消から再界時までのタイミングさえ分かれば、凌牙本人と同じく数秒後に何しとくか決めておけば混乱はしない。後ろを取られるのは分かりきってるので攻撃もできる。
・"全知全能の書の一部"って、全部のライドブックがそうだよね? 別にタテガミだけが特別な訳じゃ全然ないと思うんだけど。量の問題なのかな、同じ一部でも端書き数行とまるまる1章じゃ重みが違う。
本に先代剣士たちの思いが詰まってたように、今の飛羽真たちの戦いも全知全能の書を構成する1ページであることに変わりはないと思われる。ワンダーワールド物語ライドブックもそうだけど、セイバーの最終フォームはそういう自己言及的な本になるのかな。
・ソフィア様からの問いかけ、流れが読めない。なんであの人はあの場面でそんなことを気にしたんだ? 「ブレイズ、あなたの戦う理由はなんですか?(私を守るためではなく世界を守る為でしょう、早く逃げなさい)」ってことだろうか。からの、世界じゃなくて自分の家族であるSOL(勿論ソフィアも)を守る、だから逃げません! って流れなのか。
タテガミ氷獣戦記の胸でなく頭にあるライオンの意匠が、世界を守るために仲間を裏切るという主客転倒から脱却し、剣士(主)とライオン(客)が本当の意味でひとつになったことをよく表している。胸にあったときは「ライオンの力を使う剣士」って感じだけど、顔にあると「倫太郎自身がライオン」って感じ。

 

 33話
・鍵なんて預かってたっけ。セイバーはちょいちょいこういうことがある。なんでだろうな、僕が真面目に見てないからなのか、描写の仕方が下手なのか。
玩具っぽくないアイテムは重要じゃないって勝手に判断してスルーしがちってのは根本的にあるとして、単純に要素が多過ぎるのもあるとは思う。
・凌牙が鍛錬してるのは、サウザンベースにある精神と時の部屋だろうか。これも名前忘れたわ。
・なるべくなら暗黒剣に触れていたくないんだな、賢人。どんな境遇だろうと生きてる限りお腹は空く……ゴーストからの文脈もあるし平成(以降)ライダーっぽくていい感じなんだけど、蓮のラーメンといい、なんかファンへの目配せ的な風に見えちゃってる面もある。
・ルナを模倣して作られたソフィア……なんかアルターブックみたいね。でも飛羽真が驚く意味は分からないぞ。だったらどうだっていうのよ。割とどうでもいいでしょ、正直あの人。
・「これで話は終わりだ」の話ってstoryのことでもあったのね。
飛羽真が自分を犠牲に世界を救う未来……それを本人に伝えたくないって気持ちは、ヒロアカのナイトアイみたいだ。多分賢人は代わりに自分が死ぬつもりなんだろうし、それを飛羽真に気取られたら絶対未来は変えられないから言えないのだろう。
・風と煙じゃ相性最悪だろと思ったけど、風のエンブレムは封印されてるから今は猿飛の力だけで戦ってるんだっけ。
・争いの絶えない楽しい世界……マスターロゴスはどうやら"こっち側"の感覚を持った人間らしい。作中人物からすれば正気の沙汰じゃないけども、メタ的に見ればライダー達が命がけで戦う様を楽しんでる我々と言ってることは同じ。
元シンケンゴールドの人だけど、彼は光のモヂカラを使ってたからってのもあって最初に雷鳴剣を使ってたのかな。ユーリとも何か因縁があるのかもしれない。
・「俺と……ルナと飛羽真はバラバラになったんだ」の言い方がいい。仲の良い"ルナと飛羽真"を一歩引いたところから見てる賢人の立ち位置がよく分かる。自分を勘定に入れてなくて、2人さえ助かればいいと思ってるのが伝わってくる。
・"世界の結び目"と言う表現があんまりピンときてなかったんだけど、世界(物語)を一本の紐として見たとき、結び目というのは始まりと終わりを繋いでウロボロスのような円環をつくることになる。靴紐とかを思い浮かべてもらうと分かりやすい。
だから何だって言われるとまだよく分かんないけど、でもなんとなくイメージできた気がする。
キリがないので少し触れるだけにしておくけど、世界史の用語として実在する、アレクサンドリアを指す言葉でもあるらしい。ゴルディアスの結び目って話とも関連がありそう。
・強くなった倫太郎に助けられることで自分の弱さを痛感してメギド落ちする流れ……うまいな。今は剣の力が封じられてるとはいえ、そんなものは弱さの言い訳にはならない。蓮のストイックさがどんどん逆効果にハマっていく感じ、思ったよりはいいぞ。
ただ前も言ったけど、どうせ仲間入りした賢人くんに助けてもらうんだろうなって見え見えなのがね。逆にこれで違ったらそりゃびっくりだけど。

 

 34話
・ルナを犠牲にはできないからソフィアを、分かる
・争いの絶えない世界に創り変えたいマスターロゴスと、争いをなくすために世界ごと消そうとしていたバハト。
・体の痛みも剣のままでは味わえなかったものだから最高……ってのはエックスソードマンになったときにも言ってたことだけど、このままだと本気で死ぬのかもね。割と無条件にいるだけで好きなキャラなんだけどな。
死なないバハトと死ぬユーリで対比にするんだろうけど……そもそもバハトはどうやって不死身の体を手に入れたんだ? メギドと同じく禁術ってことで説明がつくもんなんだろうか。
・金と銀、2つの力で……って言ってるのに1本じゃんとずっと思ってたけど、そういや暗黒剣も使ってたって設定あったな。でも暗黒剣も金色よね。飛羽真(ドラゴニックナイト)に使われてた時は、ちょうど金と銀の2本だったけど。
・人間がいるから争いがなくならない……という友人の主張を踏まえると、ユーリが剣になったのもなんか分かる気がするな。それを振るう人間が何を考えてるのか、剣の側からしか分からないものがあるのかも。
・こうして見るとファルシオンってめっちゃゴーストカラーね
・光と闇の力で封印……そういえば映画でも、エモーショナルドラゴンの白黒2匹の龍が再封印してたっけ。あいつらも元々破滅の本から出てきた存在だったから、なんとなくそういうこともできるんだろうなと思ってたけど。

 

 35話
・あー、うーん? 1話ではルナが消えて、先代が火炎剣烈火を地面に突き刺す(封印する)ことで事態を収束させた。この2つに何か因果関係があるなら、反対に火炎剣烈火を引き抜いて本来の力を引き出していくことで、閉じ込められていたルナも解放される……のかなと思った。
なんか一瞬「わかった!」って気になったけど、やっぱりよく分かんないかも。「カリバー(隼人)が飛羽真とルナを引き裂いた」ように見えてたけど、実は先代の方が、全知全能の書に到達できないようにルナをあの本に閉じ込めてた……ってのは、ありそうな話ではある。先代はカリバーになった訳だから、カリバーが、でも強ち間違いって訳じゃないし。
・「止めても……無駄ですね」
ソフィアさんはルナの代わりに自分が犠牲になることをずっと前から覚悟してるからこそ、ここで強く止めないのかな。確かに最初に見たときから、なんとなく憂いというか諦めみたいな空気はまとってた(からカリバーと内通してるんじゃないかとか思ってた)。
・地獄兄弟もだけど、外でカップラーメンってどうやってお湯調達してるんだ? こないだ家出したときは安売りしてたからカップラーメン買ったものの、結局お湯をタダで注げそうな場所がなくて、最悪水で食べればいいかって感じだったのよね。近所のスーパーはイートインコーナーにお湯があったはずだけど、そんなにどこにでもはないよね。携帯コンロとか鍋も買ってて、普通にお湯沸かしてるんだろうか。
しかし蓮は……最初から闇落ちする前提だったからあんまりいいカッコさせてもらえてなかったのかな。わざわざここで見せ場つくんなくてもいずれイベントあるから、みたいな。
・神代兄はいい加減背後に回るワンパターン戦法をどうにかしなよ……と思うけど、ここまで頑ななのには訳でもあるのかね。剣と同じで代々伝わってきた由緒正しき戦法だから(卑怯だけど)、それをきちんと受け継いだ上で勝たないと神代家の名が廃る……とか。
・賢人はわざわざ全部の聖剣封印しなくても、一本だけでいいんじゃない? って言ってる人を結構見たけど、公式HPにもある通り1クール目のラストでは6本でも扉開いてたんだから、別に11本と19冊揃わなくても(不完全な状態で良ければ)儀式自体はできるのだろう。だから賢人はなるべく多くの聖剣を封印しなくちゃいけない。しかも、剣の数が減って不完全な儀式になればなるほど、それを補うためにソフィアで代用せずルナ本人を犠牲にする必要性が増すかもしれない。
その可能性まで考えたら、賢人的にはもう全部封印してどっかに隠してしまう以外の選択肢がない。
・蓮にとってはもう世界を守るため……なんておためごかしはどうでもいいんだろうからいいとして、飛羽真はなんで約束の場所に来たのか。どこかに身を潜めていた方が良かったのではないか。「約束の場所に来ない」と言うと飛羽真のキャラ的には有り得ない行為だけど、描かれてる範囲では別に約束したの飛羽真じゃないからな。
ただ、例え来なかったとしても、いつかはサーベラやデュランダル、バハトに見つかって、戦いに負ければ剣と本は奪われてしまうのだから、早いか遅いかの違いでどちらにしても結果は同じことではある。戦って、勝つしかない。
こういう「結局こうなるんだからその過程はすっ飛ばす」みたいなのって、結構作劇のテクニックみたいなものなんじゃないかと最近は思うのよね。例えば最強フォームを使っても勝てない相手と戦わせるんだったら、(販促的に弱いイメージを付けないためにも)基本フォームで負けさせとく、とか。今のはナメプだったんじゃないかとか口挟むのって、そんなに多数派じゃないと思うし。
そういう訳で、結果が同じならこそこそ隠れるより正面から堂々と来たほうがカッコがつくのでそうするというのは、それなりに筋が通ってると思う。
考えてみれば、変身できない尾上や倫太郎たちが人質にされる可能性もあるしな。というか、扉開くためにルナが利用されることも分かりきってるんだから飛羽真が来なかった場合それは約束破ったことになるわ。何言ってんだ。
・飛羽真が黙って変身したから、エモーショナルドラゴン出したかっただけかよって思ったけども、普通に考えたらそれで1回ファルシオンを封印できた訳で、今回もそれができれば(あとは破滅の本さえマスターから奪えれば)とりあえず1本剣が減るから、暗黒剣の使い手じゃなくて基本は封印できない飛羽真的には、割と最善手だったかも。
・聖剣が形作ってた紋様、明らかにセフィロトの樹だけどあれは10個だから似てるだけかなと思って危うくスルーしかけた。一応調べといてよかった、ダアト(知識)っていう隠された11個目のセフィラがあるらしい。そこには虚無が配置されてる。
・あの架け橋は明らかルナから生えてるけど、これも世界を繋ぐ力の一旦だろうか。飛羽真と手を繋ぐことすらできないで世界を繋げるなんて、できなそうだもんな。
・あっさり復活したユーリ。そういえばカリバーも、ドラゴニックナイトにやられたのに聖剣から復活してたっけな。光と闇の剣にはそういう力が備わってるんだろう。
・賢人が雷鳴剣を拾わなかったのは、暗黒剣の力を背負う責任から逃げないため、かな。もう1本あるって思ってたら、心のどこかで「暗黒剣じゃなくても世界を救えるかも」って思ってしまうから。

 

仮面ライダーセイバー ソロモン編(36話〜) 感想メモ

僕のヒーローアカデミア メモ

※アニメしか見てません

 1期
"僕だけが" ヒーローの孤独性 ↔きっと誰かが

麗日お茶子って確かに語呂はいいけど何でお茶なのかって考えたら、強いて言えば緑だからかな。

デクVSかっちゃん1で"借り物の力"を強調してたところから、「君の力じゃないか」を経て2なのか。なるほどね。


 2期
オールマイトのウサミミ、ピースサイン
体育祭、自他の境界
デクを助けた過去の面々
オールマイトじゃないし、轟もエンデヴァーじゃない
君に傷ひとつつけられちゃいないぞ 君の力じゃないか
オールマイトの真似は破滅的過ぎる
行き過ぎたオールマイトへの憧れ、ステイン
俺だけが吹っ切れてよしにはできない
本名のショート、あだ名(変身)のデク 自己定義
爆豪のヒーロー名は本人の意志と関係なく自然定着する形で"かっちゃん"になりそうな気がするけど、どうなるんだろ。

血を舐めると動きが止まる 吸血鬼
足など,腕など捨て置け 今は足が,拳があれば 相互補完
無個性の弟に力をストックする個性を与えた
正義は悪から生まれる


 3期
自己犠牲賛美への否定、洸汰 個性そのものを憎む
マスキュラー、AKIRA
できもしねぇことやりたがった 悪いのお前だろ
水を指す
常闇の暴走

顔なしのAFO
爆豪とエンデヴァー
心配する母親 家を出る
二次性徴
オリジナリティ,自己の確立、シュートスタイル
エンデヴァーと同じ目 何かを排斥する冷たい目
「勝つ」じゃなく「負けるか」
選ばれた者と選ばれなかった者
無個性だから助けられ、強いから助けてもらえなかった
ドラえもんだらけ 自己の拡散
病気は治さなきゃ、ペストマスク

 

 4期
個性を奪う/増強する リアリティとファンタジーのバランス
理性と感情のせめぎあい 迷わない狂気
完璧にやらなきゃ、期待に応えたいのはヤクザも同じ
強気を挫き弱きを助く侠客、ヒーローは強き者
武器ではなく持てる力だけで 環の個性は武器扱い
後先考えず飛び出せる勇気、狂気 やり遂げる実力
弱いから強さを騙る入仲、ヒーローが笑うのと同じ
何でも治せるご都合主義の塊、治崎
心のない外道、ヒーローと同じ狂気
自分の個性が本当は何かなんて、神じゃないので分からない
未来を見るのではなく決定する個性かもしれない
自分のせいで他人が傷付くより自分が傷つく方が楽、ヒーローと同じ
助からなきゃ
薬には手を出すな 人の道を外れる外的要因
マッチポンプ 本人の意志を無視した余計なお世話
理を壊し未来を変える
マクロとミクロ、要素還元主義と創発
ナイトアイの死 リアリティの方
4期は特に、ヒーローとヴィランの境界線を曖昧にしている

需要と供給の接続効率 クソガキも使いよう
近くの優しさ、オールマイトの救えなかった者
壊理とは真逆(でもないが)の幼児的万能感
"何でもできる"と"何にもできない"は裏表、自意識過剰
「自分が抱え込めば解決する」もまた万能感
個性特異点 個性の起源は元々人体改造?
見下したままじゃ、自分の弱さに気付けない
体と合ってない個性 無理やり
サプライズ、自分の殻に閉じこもらない他者との交流
混沌と自由、義賊
跳ね返すだけのジェントル 中身
(見た目だけだが)"小さい女の子"のために戦う2人
「まだ負けてないぞ」4期のデク、もはや怖いんだよな
笑い方を知らない女の子の笑顔とから、あまりにも丁寧なまでに、全部が全部ブーメラン
"自分の幸せ"という甘い禁断の果実を齧る
シリアスとギャグのバランス
ゆるいけどかっこいいホークス
力だけで思想のない脳無でも、No.1就任直後のエンデヴァーを襲わせることでセンセーショナルな事件に
半冷半燃のショートより、ただの炎の方がシンボリック
弔を追い詰めた、頼れる象徴オールマイトが生んだ「誰かが助けるだろう」という空気に逆らったエンデヴァー
逆に、自分じゃ1位にはなれないと諦め他人に託すホークスの力も合わせたフェニックス、そして勝利


 5期
自分がトップに立てないってのは、そういう汚れ役を請け負ってることもあっての発言だったのか
コミックの通り、続き 夢は現実に
あるはずのない意思、特異点というのは力を溜め過ぎってことだろうけど 初代がそうだったようデクにも本来なら顕在化するはずのない、個性を最大限引き出す個性的な何かが備わっていた? 心操も、操った人間の個性を最大限引き出す練習はしていておかしくない
心操の個性を初見殺しに留めない案として変声機ってのは想像できたけど、本当にそれだけなら聞こえてくる方向とかでバレそう 今回は宍田が個性の関係でバカになってたから効いたんだろうけど、その辺も機械でいじくればなんとかなるもん?立体音響的な某で

男女問題についてまた考える(1/2) 五輪森会長の女性蔑視発言編

一時期は積極的にフェミニストの方をフォローして話を読み、自分なりの考えをツイートするなどしていたことがあったけれど、こうして単発の記事にするのはそれなりに久しぶりのこととなる。
これを書いている現在僕は精神科へ入院しており、コロナとの兼ね合いもあって面会や外出が全面的に禁止され、インターネットを含め外界との接触機会がほぼなくなっているのだが、唯一あるのは病棟ラウンジのテレビ。一人になりたい訳でない場合は大抵ラウンジでそれを眺めているのだけれど、丁度僕が入院した頃から連日に渡り、オリンピックの森会長についてのあれこれが取り沙汰されていることが非常に多い。正直「ウンザリ」という言葉が最もしっくりくる。僕の精神衛生上、非常によくない話題だったので、その鬱憤を晴らすためもありこうして筆を執っている。
もうひとつ、たまたま患者仲間から借りて読んだ小説『82年生まれ、キム・ジヨン』もまた似たような話題だったのだけれど、こちらは結構面白かったのでその感想という側面もある。
この2つを混ぜ合わせて、全体として男女平等について改めて考えていきたい。
普段ならある程度するであろう下調べや裏取りができないので、投稿前に一通りチェックはするものの、この記事に正しさのようなものは期待しない方が良い。


森さんの会見後、僕の記憶が確かならば当初論点はそこになく、「コロナ禍においてオリンピック開催を断言したこと」に対しての批判が飛び交っていた。僕は先述の理由から彼の発言を、気まぐれに流れるテレビから断片的に読み取るしかない訳なので、そこのもどかしさはありつつも、概ね「聞く限り具体的な方法については言及されていないし、開催できる道を模索することはいわゆる"新しい様式"の文脈に沿っているし、ニュースタンダードをこの機会にうまく提示できれば、滅多にない日本開催のチャンスを印象的なものにできるという意味で理に適っている」と感じたので、まず"森さんを批判的に取り上げるメディア"に対して悪感情を抱いていた。もし僕が知らないだけで彼が方法について述べていたのなら、「開催宣言なんてありえない」「これに問題を感じないのが問題」なんていう表面的で同調圧力だけやたら出すようなやり口じゃなく、何故駄目なのかきちんとその方法の是非を問うべきだとイライラした。


そしてそのうち、話題は"女性蔑視と取れる発言"へと移った。本題である開催するのかどうかを知ることができないままだったこともあり、「そんなのどうでもいいよ」という気持ちが正直あった。露悪的にそのままにしておいてもいいが一応書いておくと、女性が差別されることがどうでもいいのではなく(じゃあ非常に心を痛めたかと問われるとそんなこともないけども)、差別がいけないなんて当たり前のことをわざわざ今言わなくてもいいから開催の是非を教えてくれ、みたいな気持ち。まぁ五輪も興味ないっちゃ興味ないが、新しい様式になるならそれはちょっと気になる。
普段も割とそうだけどこの記事においてはより一層、理性で濾したものだけをアウトプットするのではなく、敢えて"思ってしまったこと"も含めて素直に書こうと思う。傷付いた方がいたら申し訳ない。


男女を問わず"フェミニスト=女性主義者"を名乗る方のお話には納得のいかないことも多い僕だけれど、おそらくこの件もその界隈で大きく賑わっている、のだろう。
何が気に食わないかと言えば、主には平等主義(男女平等と書くと順序が問題になったりするし、別に性別の問題に限定する必要もないのでこう書く)ではなく"女性主義"という表現を選び、実際そういう言動が見られること。
ニチアサ界隈を超えて「男がプリキュアになったっていい(観てもいい)」というエピソードが話題になった際、「結局救われるのは男の子であって女性じゃない」とか不満を言っていた人がいたけれど、あれは傍目に見ていてもとても腹が立った。抑圧されていた人が救われることは喜びこそすれ、僻むものではない。フェミニストの方が言う不当な逆差別認定と同じ種類のものだろうに。そういった気持ちが湧いてきてしまうこと自体は仕方ないにしても、理性のフィルターを通してなおその感情に正当性めいたものを感じているように見受けられた人については理解に苦しまざる得ない。もし僕の勘違いで身に覚えのある人がこの世に一人もいなかったなら良いと思う。
まったく言わなくていいことだが、僕自身は「プリキュア(や、女の子がいっぱい出てきてそれを楽しむ種類の作品)を見ている大人の男性」に対して言い知れぬ気持ち悪さを覚えてしまう方の人間だったりする。性嫌悪にも近い感情だが、加えて「男性がたくさん出てくる作品を見ている女性」にはそこまで強い拒否反応がないことを鑑みるに、男性嫌悪的な感情であるとすることもできると思う。トクサツガガガに出てくる任侠さんとか、そんな目では見ていないのかなと頭では理解できるけど、やっぱりちょっと嫌だと思う。フィギュアとかポスターとか部屋に置いてあると特に。僕も化物語とか好きだけどね、けいおんも面白かったし。
誰が悪いかと言えばたぶん僕の心が狭いのが悪い、ごめんなさい。これはプリキュア好き男性の件に限らず、同調圧力だけやたら出す人やフェミニストの方など、このテキスト内に出てくるものに限らず、僕の嫌なこと全般に言えるけども。


話を森さん問題へのイライラに戻そう。あの発言は僕の中では「本当に女性が嫌いで抑圧したいというよりは、主には会議の進行を妨げる行為に対して鬱憤が溜まっていた(それに誘発されて女性嫌悪的な感情が漏れ出た)」と認識している。彼があの場で「女性は話が長い」のようなかたちで自分の鬱憤を表現してしまったことは、起こらないに越したことはないと思うし、そういう表現をしてしまったのは意識的にか無意識的にかは問わず事実として彼の中に多少なりとも女性嫌悪的な感情があったからであると理解することができるのも分かる。
だが表現が不適切だからといって、不適切なことをやり返すことに正当性は感じない。多くの番組では"女性蔑視発言"という表現が使われていたけれども、口頭では「女性蔑視"と取れる"発言」とされていることも多かった印象を受けた。そう認識しているのなら、例えば女性蔑視"的"発言、不適切発言などとやわらげて表現すべではないか、そうしないのは"不適切な表現"ではないのか。
謝罪会見かなんかで記者の言った「女性は男性と比べて発言を控えるべき立場だと思っているということですか?」なんかは、僕が該当部分を聞いてないだけかもしれないが明らかに「そこまで言ってない」と感じた。そう解釈するためには「たまたま彼の周りで女性の話が長いことを女性全体のことのように誤解している、のではなく、森さんは男性の話の長さだけ不当に(例えば内容の重要性とは無関係に)許している」ことが読み取れないといけない訳だけれど、飛躍しているというかやはり意地悪な見方のように感じる。不適切な表現と不適切な読解でお互い様、むしろ謝ってないぶん後者のほうがタチが悪い。こういう輩がいるから「面白おかしくしたいだけなんだろ」という反省しているとは思えない発言にも、ある程度の同情をしてしまう。


「やられたらやり返す」じゃないけども、悪いことをした人間に対しては悪いことをしてもいいという感覚は根強くある。ミラーリングなんて用語が存在するくらい、フェミニズム界隈ではそういう事案をよく見かける。『キム・ジヨン』185pの解説では、韓国の女性は結婚して子供が生まれると名前ではなく「誰々の母親」といった役職で呼ばれるようになる文化に対するミラーリングとして、本書では主人公の夫以外の男性に名前が設定されていないことを指摘し、「男に名前は必要ない」と当て付けられている。僕は平和への手段として報復(罰)は適当ではないと思っていて、ミラーリングにも同様にモヤモヤを覚えることが多い。アナーキーに開き直って「やり返されてもいいなら何してもいい」とするならそれはそれで全然構わないのだけど、一応法律では私刑は禁止されていることもあり、されたら傷付くと分かっていることはやらないに越したことはないと思う。「男は生物的に加害性を持っているのだから配慮しろ」という言説は僕にとって女性関係の問題に興味を持つきっかけのひとつだったと思うけど、今思えばミラーリングの一種だったのかもしれないと分かるものの、当時は非常に不快感(正確には罪悪感)を覚えた。自分の中にある性嫌悪的感情は幼少期に継母から去勢されそうになった経験に由来するものと思っていたけれど、今思えば存外その件も影響しているのかもしれない。
余談だが、普段韓国ドラマにもK-POPにも触れない身からすれば、韓国人の名前というのは見慣れなくて覚えにくいので、役割で記載し固有名詞が必要最小限に抑えられているのは『キム・ジヨン』が読みやすい一因であり長所であると思う。


あるコメンテーター(?)は、「あれは表現が不適切だっただけの"本心と違う失言"ではない。事前に予防線(こういうことを言うとまた…)を張っていたのだから意図的な発言だった」と言っていたのだけれど、言ってはいけないことだと自覚していたのなら、それこそミスであることの表れではないのか。「これだから女は」みたいな本心があったとしても、取り繕おうという気持ちもまた本心としてあった。だが結果として嫌悪感が多めに表出してしまった、或いは表現自体は本人の意図通りだったが思っていたよりも悪く受け取られてしまった、という意味でのミスである。僕はそういう理解をしたのだが、彼はそうは捉えなかったらしい。
僕の認識では、"女性蔑視発言"のようなキャッチーだが僕にはイマイチ的確だと思えない言葉や、微妙に無理を感じる解釈でもって批判的に報じたメディアもまた、その伝達ミスの共犯者である。当初はそこまで女性関連の部分は注目・問題視されていなかった(ピックアップして報道されていなかった)というのは、発言そのものではない外的要因が多少なりとも印象や解釈を悪く誘導していた側面があったことの傍証ではないかと思っている。
僕の目が森さんを責める側に厳しいのも、自由に情報収集ができない状況で的の外れたような報道ばかりしていることに対する苛立ちという側面、つまり精神科へ入院中であるという極めて個人的な事情に由来するところが大きいと思う。まぁ森さんばかり責められて一方的だと思うので、こういう声もあってよかろう。
しかし僕も大概話が長い。まだ続きます。


ここまでは森さんにも非があることは自明のこととして無批判に受け入れて話をしたけれど、そこにも疑問を向けてみたい。果たしてあの発言は本当に不適切だったのか。

まず思うのは、先程も少し触れたがくだんの会議における"長い話"というのがどのようなものたったかがきちんと分からない以上はなんとも言えないという点。森さんへの否定的態度とともに「本当に必要な話は会議が長引こうがしないといけない」なんてことを言っていた人がいたけども、そんなことは少なくとも僕にとってわざわざ言うまでもない当たり前過ぎること(そりゃあ、会議を長引かせてでも話すべきことは会議を長引かせてでも話すべきだろう、トートロジーだ)であって、森さん自身も謝罪会見で「(性別によってではなく)場に即しているか否かで発言を控えるべき」と言っていたように自覚しているところであると思われる。僕は法律における推定無罪の考え方が好きなので、彼についても相応の根拠がなければ本人にとってなるべく都合の良いように解釈していることが多い。

可能なのであれば実際に会議に参加していた他の人がどう感じていたか、場に即していたのかを吟味したいところ。ただ、世論が森さん批判一色に染まってしまっては彼に有利な証言は心理的にしにくくなってしまうので、なかなか難しいけれど。話の内容をよく吟味する前に、森さんに肯定的か否定的かという態度だけで「じゃあお前も女性の敵だな」と思われて曲解されてしまうことが怖くなる。すると何を言うにもまずは「自分も彼は悪いと思う」という枕詞で意思表示をしなければという気持ちになって、また"世論"の壁が大きくなる。『キム・ジヨン』に至ってはこの本を「読んだ」とツイートしただけで、おそらく「(各々の思う悪い)フェミニズムに賛同なのだ」と受け取られたのだろう、大炎上したらしいことが帯に謳い文句(?)として書かれている。沈黙は共犯なんて風にも言うけれど、それもあって、大した根拠なく悪い方へ捉えることはあまり良いことではないと思う。


次に考えたのは、話の長さと女性であることの関係。オリンピックなんて20数年生きてきても未だまともに見たことないほど興味がないので認識が間違っていたら申し訳ないが、"オリンピックの精神"は性差までを否定するものではないはず。男女や身体障害の有無でもって枠を分けているのは、もしかすると表向きには深い意味はないとされているのかもしれないが、やはりそれらの間に横たわる厳然とした"特徴の差"を意識したものに思えてならない。女性よりも男性、障害者よりも健常者の方が身体能力が高く、同じ土俵で戦わせるのはある種不公平である、という肌感覚。
実際、保険の授業では男性の方が筋肉質に育つとかなんとか聞いた気がするし、そういった性差は事実であるとの認識は一般的なものだと思う。
では当然、身体的特徴はそうだとしても、精神的特徴はどうかという話になる。僕は体が男性/オスなので(握力が20もないような雑魚だが)体験したことはないけれど、聞くところによると女性の生理は精神にも影響を及ぼすらしい。健康な精神は健康な肉体に宿る、と言ったりするけれど、体の調子が悪ければ自然と不機嫌になるというのは生理とは分けて考えても理解できる。
そうでなくとも、普段から薬物によって精神的安定を得ている身からすれば、こころを肉体的,物質的なあれこれからまったく乖離させて考えることには、無理を感じるものがある。
ただ公平を気取って「話が長いかどうかは個人の特徴であって人それぞれ、女かどうかは関係ない」と言うのは簡単だけれど、例えば女性ホルモンなどの身体的女性性と話の長さの因果関係について本当に"ない"と自信を持って言い切れる人がどれだけいるだろうか。仮に因果関係があったとして、それは必ずしもただちに「すべての女性は話が長い」ということにはならない。別の要因によって打ち消されることもあるかもしれないし、故に裏を返せば「事実、女性の話が必ずしも長いとは限らない」ことだけから、因果関係がないことを証明はできない。


更に言えば森さんの場合、両者の間に因果関係がある(女性であることが話の長さを引き起こしている)ことを強調するものではなく、あくまで相関関係がある(理由はさておき女性は話の長いことが多い)ことを言っているように受ける。
女性ホルモンなどの身体的女性性と無関係だったとしても、たまたまそういう女性が多いということは有り得る。それらを見て「女性はおしゃべり」「電話も長い」のようなイメージが流布し、自分は女性であると自認している人の中で暗示のような効果を発揮して、余計に話の長い女性が増える……とか、そういうことはないとも限らない。なんにせよ、「女性のいる会議は(多く,一般に)長引く」ということは少なくとも森さんの周囲だけで言えば事実であり適切な表現なのかもしれないし、ひょっとすると世界規模でデータを取ってみても案外そのような結果が出るかもしれない。勿論、そんなことない可能性もある。たまたま自分の周りがそうじゃないだけであることを完璧に否定するためには、女性が出ているすべての会議をリサーチしなければならない。少なくとも半数以上かな? でもまぁ、結局全部でいくつ会議があるのか分からないと半数がどのくらいなのかも分からないか。


本当に性別(ここでは生殖機能を指す)を考慮せずにオリンピックを開く場合、もし筋肉量云々の理由で枠が分けられているなら実際の筋肉量によって区別すべきだろう。邪魔な胸の有無が争点なら、胸が小さくて筋肉量も遜色ない女性は男性と一緒に競うべきかもしれない。
だいたい、国別に代表を決めることからしてどうなのだとみんな薄々思っているのではないか。例えば、本当なら世界で3位になれる実力のある人が、一国からの出場人数が2人以下であることによってその栄冠を得る機会を奪われているかもしれない。
あの国はこの競技が強いとか、あの国の女子は強いとか、僕の見てきた「オリンピックの楽しみ方」はそういうものだった。代表になった僅かな人数だけを見て(無意識に)その国に対する内的イメージを形成する。
もっと言えばこれは、スポーツそのものが孕んでいる特徴でもあると思う。普段から身近にいる人はこの限りではないけども、多くの人は試合という限られた場だけを見て選手のすごい/すごくないという評価をする訳だから、どうしても"偏見"のそしりは免れない。練習の時の記録なら、相手の調子が悪い時なら勝ってたかもしれない。そういった不確実性を努力によって埋めようとしているのだろうけれど。少なくとも僕の周りにおけるオリンピックの受け取り方とは、"偏った見方でそのものの特性を推察すること"は矛盾しないどころか相性がいいと感じている。


これは僕が昔から言っていることだが、偏見それ自体は悪くない……というか、全知になれない以上は仕方がない。ただ、それを弁えずに広い範囲の話をすると「違うんじゃない?」と言われたり、「こうある"べき"なのだ」と主張したりそれをもって抑圧したりすると初めて問題視される。
悪いのは偏見それ自体ではなくて、そこから発生する(多く無自覚的な)強制,抑圧の方だ。「男性は一般に力が強い」だけならまぁ自分は違うがそうなのかな、で終わるけれど、「男性ならば力が強くなくてはならない」と言われたらちょっと待ってくれ、となる。同様に「女性のいる会議は時間がかかる」が、もし「だから女性は会議に参加できない、発言できないようにしよう」とでもなれば、これは確かに立ちたがって抵抗するべきかもしれない。だが彼にそこまでの意思があったか? 僕には「自分は不適切だと感じることが多いので、場に適しているかどうかもう一度よく考えてから発言して欲しい」程度の意図であって、ただ女性だからというだけの理由で何かを抑圧する旨の意思は感じられなかった。女性に限定する必要があったかと言えば、実際その会議に出ていた話の長い女性たちに自分のことかもしれないと思い自省してもらう為には意味のあることだと思う。確か前の方で「うちの恥を言います」みたいなことを言っていた記憶もあるから、その文脈を適用すればあくまで「(多くの女性は長く話したくても場を弁えているだろうに、うちの)女性は話が長い」という意味だったと理解できなくはない。
勿論、そう言いたかったのに現実としてうまく伝わってないのだから、彼のその発言自体「場に適しているかもう一度よく考えてからすべきだった」ことではあるんだけれど(つまりメディアはキャッチーで分かりやすい表現を使ったり面白おかしくするためにわざと意地悪な解釈をしたりするので、そこまで考慮して慎重に発言すべきだった)、ブーメラン発言であることは必ずしも主張が間違っていることを意味しない。「お前はどうなんだ」と問いたくなるということは、その主張自体の正しさをある程度は認めていることになる。だって「差別はするべきです、私はしませんが」なんて言ってる人がいたとしたら、「じゃあ差別しろよ」より「なんでするべきなんだよ」が先にくるのではないか。仮に「じゃあ差別しろよ」と言ったとしても、十中八九は皮肉であって「差別はよくない」というニュアンスを含むと思われる。
ということなので、森さんの「空気を読もう」という主張自体はそれなりに真っ当なものだったと思う。

 

正直旬も過ぎてしまったし、続き(キム・ジヨン編)は書かないかも……。

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「男性VS女性」の構図が表すもの/平山亮さんのインタビューを読んだ感想

進撃の巨人 1巻/1期1,2,4,5話 感想

これを書いている現在は、アニメファイナルシーズン(4期)放送のおよそ一月前。世間的には今更感もあろうが、いつか必ず感想記事は書くつもりだったので気にせずいきます。
原作の方を初めて読みつつ、既に知ってるアニメも並行して見て思いついたことを横断的に語る。1期については、TVアニメシナリオ集ってのも副読本として読む。作品のテーマにかこつけて、『進撃の巨人』という作品の内側にこもるのではなく、他の作品や自分語り等の脱線話も多く盛り込んでいく予定なので、悪しからず。特に僕は普段仮面ライダーの感想を書いていて、アニメ版のメイン脚本家である小林靖子さんは仮面ライダーも手がけている方なので、絡めて話をすることも多いと思う。

 

第1話『二千年後の君へ』

アバンタイトルは、巨人の出現など我関せずといった風に空を飛ぶ2羽の鳥からスタート。僕はずっとカモだと思ってたんだけど、調べてみると同じカモ科でもガンではないかという説もあり。確かにカモだと泳いでばっかで空飛ぶイメージあんまないけど、ガンなら僕でも知ってる渡り鳥だから"自由な存在"のメタファーとしてしっくりくるかも。更には小学校で教わる『大造じいさんとガン』ってあるよね。あれは食用に狩りをする大造じいさんが、巧みに知恵を働かせて仲間を守る"残雪"という名のガンを、ただ人間から一方的に狩られる鳥ではなく、人間と同じく尊厳を持った存在……すなわち対等なライバルとして認めるまでの話。まさに『進撃の巨人』という作品を象徴しているような、ぴったりの作品だ。
そしてその鳥を見つめる緑の瞳、有名な"嫉妬"を表す慣用句ね(Green-eyed-monster)。映像では鳥が目に映ってるんだけど、ここで本来エレンが見ているのは、鳥じゃなく超大型巨人なのが興味深い。後で触れます。
また、残雪ではなく大造じいさんが飼い慣らして狩りのための囮に使った方のガンだと思って見るなら、ライナーとベルトルトの暗喩にも見える。
開幕いきなり脱線話だけども、こういう見方もなかなか面白いものでしょう? ちなみに僕は、自分の解釈が「正しい」かどうかにはあまり興味がない。もしかすると、制作スタッフのつもりとしてはガンとは別の鳥で全然違う意味を込めてたのかもしれないけど、勘違いだろうがなんだろうがあくまで「僕にはそう見えた、そしてそう捉えると面白かった」ということを重視している。


場面は一転、壁外調査の様子へ。シナリオでは"巨大樹の森"とされているんだけれど、劇中で印象的に出てきたのはウォール・マリア内にあるはずなので、少なくともこの時点でのライターの認識としては"巨大樹の森"は固有名詞ではなく、マリアの外にも似たような森があるということになるのね。知らなかった。
他にもこのシーンはキースやエルヴィン、ハンジにミケなどメインキャラばっかり出てるし、なんならこの後に名前だけ出てくるモーゼス・ブラウンにもきちんとセリフが当てられている。初見の時からずっと「単なる世界観説明のためのイメージ映像であって、明確にいつどこであったことなのかは設定されてない」ものだと思ってたのでびっくり。……いや、普通に考えて、あのかっこいい立体機動装置のお披露目からまさか負けるとは思わないじゃんね。「人類の力を思い知れ!」って言ってるし、興奮冷めやらぬままOP入るし。このセリフを言ってるのが誰あろうモーゼスその人で、付近に巨人はあの一体のみとのことなので、十中八九こいつに負けて死んだってことになる。にわかには信じられん。

 

「いってらっしゃい」と声をかけるミカサらしき影。家という壁から出ることを祝福する、非常に印象的な一コマ。だが同時に「帰ってきなさい」という強い意志も感じる、というか目を覚ました現実のミカサは実際そう言っている。
髪が伸びてるということはエレンが夢で見ていたのは過去の出来事なのかなと一瞬思うけども、髪を切るってこともあるので必ずしも過去とは限らない。まぁ見た感じそんな大人びてるようにも思えないけど。アニメでは食われるカルラのシーンがあるので、明確に未来ということになっている。或いはシナリオの記述にあるように過去も未来も現在も"ランダム"なのか。
気になるとこを細かく追って見ると、最初は目を覚ました後の風景にも映っている、風に揺れる青い花(シナリオ本によると紫)。それが血に染まって、開かれた巨人の口、持ち上げられる兵士、占領される原っぱ、そして食べられる。ここまではイメージとしてすんなり理解できるとして、次からがなかなか難しい。まず明らかなのは暖炉と偉そうな服。一見すると椅子か何かに服がかかってるのかと思ったけど、目を凝らすと首元に人の手らしきものが認められ、僕が椅子の肘掛けか何かだと思ってたところは腕の断面だろうか。次に映るのは散らかった子供部屋。カーテンの奥から肌色の何か(巨人の指?)が覗いている。泣きっ面に蜂、みたいなカットもあるね。雫は見えないので涙は枯れ果ててるみたいだけど。で、カルラが締め。
全体的な含意としては「女子供や身分の高い者も見境なく殺される」みたいな感じかな。偉い人は基本内地にいるはずなので、シーナにまで悲劇の波紋が広がった未来を予期させる。さっき言った首元の手が小さめの巨人のものなのか、それとも人間による殺害なのかは分からないけれど。
徐々に意識が戻っていた原作と違い、エレンがはっと驚いて目を覚ますと、2羽の鳥が飛び立つ。アバンのあいつらだとしたら、迫る危機を予知して空へ逃げたってことになるのかな。夢を思い出そうとしていると2人の上に雲がかかり、泣いていることに気付いた途端 一気に晴れる。夢というのが現実逃避を意味しているとするなら、"今ここにある現実"を素晴らしいものとして受け入れるようなテーマがなんとなく窺える。
プレゼント・デイ プレゼント・タイム Hahaha……

序盤は噂されてた通りループものっぽい雰囲気が確かにあって、ゼロワンであった"涙"をきっかけとして時間が"戻る"ような演出が想起される。

 

"845年"のテロップを挟み、画面には外へ睨みを利かす壁上固定砲が映される。原作でも見開きでウォール・マリアの大きさが描かれてから、同じく壁上から街を見下ろすような絵が差し込まれる。
固定砲のレールの向きが横と縦で異なっているのがなんか気になる。そもそも同じ壁でもシガンシナを挟んだ別物な訳なので、アニメで修正されたというよりは両立する描写なのかもしれないけど。アニメの方はシガンシナを背にしていて正真正銘"壁外"に対する砲台なのに対して、漫画のはひとつ内側なので両側に街がある。縦(前後)に移動できるということは、(万が一占領された)シガンシナに加えてマリアの内側、そのどちらもを砲撃対象としているような印象を受ける。矢印を砲台の射撃として、簡易に図解するとこんな感じ。
 アニメ
マリア内|シガンシナ⊃→巨人領域
 原作
マリア内←|→シガンシナ⊃巨人領域
普通に考えたらシガンシナ内の門を突破されたとして、壁の上からマリア内に向けた砲撃(←)というのは巨人をいたずらに内地に向かわせることになりかねない。巨人に通常兵器は効かないということになってるが、実際に壁外調査の際にはあの砲台を使って周辺の巨人を追い払っているはずなので、殺せはしなくとも威嚇する程度の効用はある訳で、そんなことをすれば巨人はマリアから離れる=ローゼに近付く。じゃあ逆にこれがうまい具合に機能するシチュエーションというのを考えてみると、壁外ではなくマリア内から突然巨人が現れ、壁内からシガンシナ区に入ろうとしてくる巨人を追い払いたいケースくらいのものだろうか。すなわち、こんな感じ。
ローゼ内|トロスト⊃→巨人領域←|シガンシナ⊃
まぁ、本当にその為にあぁいう構造になってるんだとしたら後で出てくるトロスト区の外壁も同じく縦であって然るべきなので、作者の意図とは多分違うと思うけど。

 

これまではなんとなく流してたんだけど、エレンとミカサはシガンシナから出てローゼ/マリア間(しかもシナリオによるとローゼの近く)にまで薪を集めに行っていたらしい。「現在公開可能な情報」によると壁と壁の間はおよそ100kmで、車飛ばしても1時間、フルマラソン世界記録で換算しても軽く4時間はかかる。子供の足で本当にローゼ付近まで歩いたとはとても思えないので(どんなおつかいだ)、流石にこれは誤植かもしれない。もし無料の公共交通機関が整備されてるんだとしたら、社会保障のレベルが高過ぎる。有料なら親から交通費を貰った可能性もあるが、前後の話の繋がりからして大して時間が経ってる様子もないので、やはり誤植説が濃厚。

ハンネスたちが番を務める門は、原作では馬車がすれ違ってもまだ余裕があるくらい広く描かれてるのに、アニメでは子供2人でも狭そうな小さいものに変更されている。というか全体的に町並みからは閉塞感を覚えるので、これもそういった演出の一環だろうか。エレンの家も平地から石段の上に変わり、画面の情報量が増えて同印象に一役買っている。
エレンが"イザッてとき"について語る合間に一瞬だけ入る、魚が殺される意味深なカット。しばらく意味するところが分かんなかったけど、これも慣用句シリーズで「まな板の上の鯉」だろうか。一般常識の範囲だとは思うけど、映像で見せられると意外と分かんないもんだな。拾いそびれてる小ネタもまだまだ沢山ありそう。
グリシャの功績について、原作ではさらっと触れるだけなのに対してシナリオでは詳しく言及されてるんだけど、映像では結局カットされてて情報量がそこまで変わってない。「確かに流行り病の時は(グリシャの受け売りで)エレンが言う通り、みんなが危機感を持たず状況を甘く見た結果として痛い目を見た。でも巨人はまた別でやっぱり大丈夫だよ」というハンネスの主張は、確かに文脈を逃さずひとつひとつ丁寧にきちんと追えば分かりそうでもあるけど、リアルタイムに流れていく会話劇から読み取るのは至難の業ではないか。少なくとも僕は分かんなかった。
「ヤツらにこの50mの壁をどうこうできるとは思えない」という説明は、素直に受け取ればただ巨人が来なくて安心だねって話なんだけど、同時に外へ出たいエレンにとってそれは絶望的なことでもあるのよね。だって15mの巨人がいくら中に入ろうとしても太刀打ちできない壁に、人間の中でも更に子供のエレンが勝てるはずもなくて、安心と不自由のトレードオフが強調されている。
エヴァの最終回で似たような話があったな。真の自由を手にしたとき、人は何をしていいか分からず不安になる。「不自由をやろう」てな風に束縛を受けることで、やることが明確になり安心できる。いきなり「好きなものは?」と聞かれると漠然とし過ぎてて戸惑うかもしれないが、「好きな色は?」なら選択肢が少なくなる代わりにイメージが湧きやすい。
人間には、壁≒ATフィールド≒細胞の壁が必要なのだ。でなければ、生命のスープ(L.C.L.)へと逆戻りしてしまう。

彼らのサボりを肯定するのとも違うが、現実問題として四六時中ずっと警戒している訳にはいかない(余談だけど4×6=24だからこれで常にって意味になるのか、一六銀行みたいだ)。母の胸に抱かれて眠る子供のように〜、リラックスして息をつく時間がないとやっていけない。「本気で殴り合えば多分お前のほうが強い、だがお前は俺には勝てない。なーんでだ? お前には遊び心がない、心の余裕がない。張り詰めた糸はすぐ切れる、そういうことだ」とえら〜い人も言っていた。
逆に張り詰める時間がないとどうだろう。ディズニーのSFコメディアニメ『ファイアボール』では、ロボットが支配するディストピアのいち形態として、ヴィントシュトレ卿(ドイツ語で凪)による"かゆいところに手が予め存在している"ような「完璧すぎる統治」が提示されている。求めるまでもなく全て与えられた結果、人は言葉を失ったという。『PSYCHO-PASS』におけるユーストレス欠乏症という概念も興味深い。これは人が生きるために最低限必要なストレスすらも失ってしまった結果として植物人間のような状態になってしまう病気で、まさに"凪"の極地と言える。
重要なのは適度な緊張と適度な安堵。両者のバランスが保たれることで、人は健康に生きることができるのだ。酒に酔うこともまた夢と同じで、そういった退屈でストレスフルな現実からの逃避と言える。
1話の時点でここまでテーマを掘り下げちゃって、後々書くことなくならないか心配だが、出し惜しみはせずに行こう。

 

鐘が鳴り、調査兵団が帰還してくる。万全を期しているだろうとはいえ、一旦は門を開けるということで警鐘を鳴らしてるのかな? 門の仕組みとしてはおそらく二重になってて、内側に通路がある形(図1)だと思われる。
図1 壁内|通路|壁外
図2 壁内|通路←壁外
図3 壁内←通路|壁外
まず外寄りの門を開けて、兵士が通路に入る。万が一ここで巨人の侵入を許してしまったとしても、内側の門が閉まっているので壁内には入り込めない(図2)。その一体なり二体なりを討伐したら壁外から巨人が入らぬように外門を閉め、通路内の兵士が壁内に入る。人数が多いと通路に入り切らないかもしれないが、その時は何度かに分けて入るのだろう。或いは、周囲に見当たらなければ両方開けてしまうか。
こうして改めて考えてみれば、門の部分が弱いというのは頷ける。他の部分と違って真ん中が空洞になっているのだから当然だ。

モーゼスは、腕しか帰ってこれなかった。やりきれない気持ちを合理化するために、彼の死にせめて"意味"を見出そうとする母親。キースの口ぶりからすると、壁外拠点の設置は結局進展しないままに敗走してきたのかな。
彼らの肩を持つと暗中模索って本当に大変で、先のことは分からない以上、どこまで行けば望むような成果が得られるのかというのは全くもって読めない。この間隣町のスーパーへ買い物に行ったら、自転車がパンクしたのよね。
モーゼス母「そんな、自転車が……でもキャベツは? キャベツは買えたんですよね!?」
キース「なんの成果も! 得られませんでした!」
……余談はさておき、「全てのカラスが黒いとは限らない」という保証が欲しいとき、一体何匹のカラスを捕まえて確認すれば十分だと言うのだろう? 500匹調べて全部黒かったとしても、日本中を調べても世界中を調べてもまだ足りない。何故なら過去や未来にいる可能性は否定できないからだ。
ちなみにネットで検索すれば白いアルビノカラスの存在はすぐに確認できるのだが、これは現実世界に引きこもらずネットという"外の世界"へ出て確かめたから言える結果論であって、調べる前には「検索すれば見つかるかどうか」は分からない。仮にネット上に白いカラスの実在を示す情報がなかったとしたら、結果論的には「時間の無駄だった」と評価されてしまう。厳密な話をすると今の時代には合成とかCGって可能性もあるので、ネット上で確認しただけでは確証とは言えない。まだ「白いカラスもいる」という命題に対する信頼は100%にはならないのだ。
例えば受験勉強でも、今では模試の判定なんてものがひとつの指針として設置されているが、その年の倍率がいかほどか分からない以上、全幅の信頼を置くことはできない。A判定だろうが落ちる可能性はゼロではない(どころかそこそこある)ので、不安ならばもっともっと勉強するしかない。例えFラン大学でも、東大レベルの学力を持った人が、家が近いとか遊びたいとか適当な理由で大勢受験しない保証はどこにもない。「そんなことまずないだろ」と余裕ぶっこくのも自由だけど、それは本作に準えるなら「50m級の巨人なんている訳ないだろ」に相当する。
抽象的になってきたので壁外調査に話を戻そう。100人以上いた兵士のうち80人ほどを殺されてしまったとき、指揮官は「近くにいた巨人はなんとか倒せて今のところ見当たらないが、もし2体同時に現れでもしたら我々は全滅してしまうだろう」と不安に思って、退却したとしよう。だが、「実は壁の外にいた巨人はさっき倒したので最後で、そのまま進んでいれば外の世界について知ることができた」という可能性はゼロではない。もちろん同様に「さっきので最後なんてことはなく、少し進めば依然として巨人がうじゃうじゃいる」という可能性も十分ある。
「仮に倒し尽くしたのなら次の調査で分かるだろうから、今は一旦退却するべき」というのは一見正しそうだが、巨人がどうやって生まれるのか分からない以上、次の調査に行く頃にはまたうじゃうじゃに逆戻りしているかもしれない可能性を考えたら、今のうちに少しでも情報を集めるべきだと言える。何が正しいかは、結局のところ進んでみないと分からない。
極論 壁外調査をしなければ、既に巨人は死滅しているにも関わらず、意味もなく「遠くにはまだいるかもしれない」と恐怖して壁の中に引きこもり続けるということも考えられる。そう考えると"やってみなくちゃ分からない"というある種無謀なチャレンジ精神は、完全に否定されるべきものではないだろう。
まぁ「折角壁を超えたのに、居眠りしてサボってた結果薪が全然集まりませんでした」ってのは同情の余地あんましないけどな(苦笑)

 

帰宅した2人を見て、エレンの嘘を見抜いてしまうカルラ。嘘つくと耳が赤くなるなんてなんだかピノキオみたいね。人に作られし存在はロボット三原則のように枷を背負わされてしまう……と考えると、メタフィクションの香りがする。
「ご飯を食べるのは背負子を片付けてからにしなさい」と叱られてエレンが聞こえないふりをするシーンは、カットされているけどかなり重要。これがあることで後の「最期くらい言うこと聞いてよ」の説得力がかなり違ってくる。告げ口したミカサもだけど、母親は子供の自由を抑圧する"壁"として描かれている。散らかすのも駄目、調査兵団に入るのも駄目、アレもダメ ダメダメ、これもダメ ダメダメ、君のタメ ダメダメ……「え、なんで?」。でも母親は、不自由と同時に安心も与えてくれる。先日読んだ『学問のすすめ』の現代語訳版にも似たよう話があって、曰く保護と命令はセットで行われなければならない。親子で言えば、保護とはその身を健康に保つために十分な衣食住や金銭などを与えること、命令とはそうして得たものの適切な使い方を教え指図すること。どちらかが欠けるとたちまちバランスが崩れ悪い結果をもたらす。
またここでは少し触れるのみに留めるが、エレンにとってミカサやカルラが「自分の自由を奪う壁」であるのと同様に、エレンもまた彼女らにしてみれば同様の性質を帯びる。「エレンの安全を確保したい」という2人の願いと自由は、エレンの求めるものとトレードオフなので。
何故外へ出たいのかと父に問われ「外の世界を知らずに過ごすなんて嫌だ」と答えるのは分かるとして、「先人の死に報いるため」というのは子供が言うにはいささかませてるというか、この頃のエレンにそんな使命感,義務感みたいなものがあるようには思えず浮いているような印象を抱いていたんだけど、今思えばこれもまた"原初的欲求"なんだなと理解できる。ようやく1話の半分に到達したくらいなのに文字数が8000字に差し掛かりつつあるので、前言撤回しもったいぶらせてもらおう。

 

話は絡まれてるアルミンのシーンへ。ここも象徴的で結構好きな部分。壁(家)の外には敵もいっぱいいるけど、助けるべき仲間もいる……それだけで危険を顧みず外へ出る理由としては十分よね。
これはアルミン本人が一番よく分かっていることだろうけど、彼の言っていることって実はめちゃくちゃブーメランなのよね。いじめっ子がアルミンの理屈に言い返せない(降参している)から殴ることしかできないのと同じように、アルミンは腕力では対抗することができないと負けを認めてるから、殴り返せず屁理屈を並べることしかできない。双方ともに、相手の土俵では勝ち目がないことを分かっているから勝負を自分の得意分野に持ち込もうとしている(自分の殻に閉じこもっている)という意味では、同レベルなのだ。それを自覚しているからこそ、ミカサやエレンの威を借りないといけない、頭でっかちで非力な自分が許せないのだろう。本当に強い人間は、相手の得意分野できっちり勝ちを収めて心身ともに屈服させることができる。『めだかボックス』の黒神めだかなんかはまさにそういうタイプだね。まぁ、力に見合う人間性も持ち合わせていたのなら、無理やり屈服させるなんて大人げないことはしないのが一番いいのだが。するべきは論破ではなく説得。相手に本心から「向こうが正しい」と思わせるのが本当の勝ちというものだろう。

彼ら3人は、主人公なので当然といえば当然だがエレンを中心として(殊にミカサ←エレン←アルミンの順で)並ぶことが多い。んだけども、アニメでは見栄えが同じになって退屈するのを防ぐためかアレンジを加えてあって、石段に座ってるシーンは画面の横で見るとミカサ←アルミン←エレンなんだけど、縦で見るときちんとミカサ←エレン←アルミンの順になっているのが面白い。
この順番になんの意味があるのかというのは、直後に分かる。アルミンは異変を真っ先に感じ取り、走った先で巨人を見る。それを見たエレンは「(ソコカラ)何が見える?」と後を追い、そのエレンの後を追うミカサ。
3人の関係はそれぞれ未来,現在,過去に対応している。未来に夢を見て予測能力も高いアルミンに、直情径行型で衝動的なエレン、そして過去に執着するミカサ。
画面には上手(かみて)と下手(しもて)があって、漫画だと顕著だが時間にも流れる方向というものがある。このブログは左横書き(→に進む)なのでそのまま未来→現在→過去の順に並べるとアルミン→エレン→ミカサになってしまうのだが、漫画は右縦書き(←に進む)なので、絵面としては「ミカサ←エレン←アルミン」の方が多い。もちろんこれ以降のあらゆる描写がこれに当てはまっているとは言わないが、なんとなくの傾向としてあるとは思う。

 

さて、ようやく先述した緑の瞳の話までやってきたぞ。オープニングでは自由に空を飛ぶ鳥に向けられているかのように描かれていた"嫉妬の視線"だけれど、このとき実際に見ているのは紛れもなく超大型巨人。これの意味するところはただひとつ、「あんなにでかけりゃさぞ自由だろうなぁ」だ。エレンにとってこの超大型巨人は、生まれて初めて見た"外の世界のもの"であり、クソ忌々しい壁をぶっ壊してくれた存在でもあり、その結果として口うるさく自由を奪ってくる過干渉な母親を殺してくれた大恩人、ということにもなる。だから彼は、人類の宿敵に対し羨望の眼差しを向けるのだ。
命の危機であることは事実だし、母を殺した仇としての憎しみも嘘じゃないはずなので、当然そんなことは口が裂けても言わないだろうが、ここでは言葉にせず映像(行間)でほんのり匂わすことで、あくまで無意識の奥底にある気持ちであることを表現しているように見える。漫画では色こそ分からないけれど、陰る目元とは対照的に瞳自体は不自然なほどに澄んでいてとても綺麗なのよね。そういう目線で見ると「その日、人類は思い出した。ヤツらに支配されていた恐怖を、鳥籠の中に囚われていた屈辱を……」というナレーションも、あくまで人類規模の話であって、エレンという個人の感情については触れていないと取れる。そもそもエレンは思い出すまでもなく忘れていなかったのだから、ここで言う"人類"に彼は含まれない。
恐ろしくて排除したい人類の天敵だというのは大前提として描きつつも、必ずしも巨人は忌むべき存在ではないということもまた、水面下でひっそりと描かれていると言える。

 

第2話『その日』

100余年前、巨人に追い詰められた人類は強固な壁を作った。『ユトリ最強世代』じゃないけども、人間は根源的に"壁"を作りたがる存在なのよね。その結果として生まれたのが、論理と言語だろう。壁というのはひとつの比喩で、要は"あちら"と"こちら"ってな風に区別すること。そしてここが最重要なんだけど、何かと何かを別のものだと区別するということは、何かと何かを同じものだと見做すことと表裏一体を為している。
分かりやすさのために、物理的な壁に一旦話を戻そう。仮に、壁を挟んだ向こう側を西ベルリン、こちら側を東ベルリンとする。このとき、西と東を比べて別のものと見做しているのと同時に、"西ベルリン"と"東ベルリン"それぞれの中にある様々な人や集落などを一緒くたにまとめて同じものと見做していることが分かるだろうか。
犬と猫は違う、今どきはAIでもこの区別ができる。だがこの一言を発するためには、まず「ミニチュアダックスポメラニアンドーベルマンも全部同じ犬」「アメショもスコティッシュラグドールも全部同じ猫」という前提がなければならない。ポメラニアンドーベルマンはえらい違いだが、それでも僕らは"犬"という言葉で括って"猫"をはじめとする他の動物から切り離す。もしこの世にひとつも同じものがなければ、わざわざ取り立てて「違う」と言う必要もないだろう。
生き物はみな細胞膜などの壁を持っている。そうやって外界と内側を区別しリソースを囲い込むのは、生物が根源的に持つ衝動なのだと言える。無秩序へと向かうエントロピー増大の法則に抗うかのように、壁を作って世界を整理整頓し秩序付けようとする。

普段は意識しないが、こういった峻別は人間などが自然を見て勝手に(恣意的に)つくったものであって、決して絶対的なものではない。それが顕著に現れる有名な例が、色彩感覚だろう。虹は世界共通で七色ではなく、赤,橙,黄や青,藍,紫などを区別する習慣がなければ、色数は違って受け取られる。オレンジが赤色と黄色を分かつ壁を壊し得るどっちつかずの存在であるように、コウモリは鳥類と哺乳類の境界を曖昧にする。
人間と巨人はウォール・マリアによってきっちり区別されていたのだが、知性を持つと思われる超大型巨人の出現によってその常識の壁は壊されてしまった。理屈では分かっていたはずの他でもないアルミンが「巨人は最大でも15mのはず……」と呟いているのが皮肉で面白い。
「ありえない」なんてことはありえないし、この世には不思議なことなど何もない。
そもそも我々や過去の作中人類からすれば「3m級の人間≒巨人」からして十分"おかしい"訳で、でもどうしようもなく現在する(現に存在する)と認めたからこそ「巨人は3〜15m」という認識が生まれる。観察に基づく経験則を重んじるならば、目の前にいる60mの巨人も否定するのではなく受け入れるしかない。人間の予測にとらわれない超大型巨人は、やはり自由の象徴として機能している。
まぁアルミンは自分の目で見て確かめた訳じゃないので、すぐさまこの視座に立つことを求めるのは酷というものだけれど。

 

さっきの威勢はどこへやらと、アルミンに負けず劣らず狼狽えるエレン。なんかで読んだ人間の心理的発達段階の話に「親が見ていてくれて、帰る場所があるから探険できる」みたいな表現があったけど、まさにそれ。よくあるストーリーの類型として「行きて帰りし物語」ってのもあるね。安心(基本的信頼感)があってこそ、初めて外への欲求が生まれてくる。親がいなければ反抗もできない。
ちなみに、このシーンでもやはりミカサはエレンの後を追っている。純粋な身体能力で言えば追い抜いていてもおかしくないのにこうなっているのは、偏に彼女の低い主体性によるものだろう。

カルラは、飛んできた壁の破片によって壊れた家の下敷きになってしまっていた。ここで興味深いのは、壁と家と母親、どれも元来"安心"を司るものだと言うこと。保守的で安全をを求めるカルラは、同じく安全のためにつくられた壁と家によって"身動き"が取れなくなる、謂わば自縄自縛。実際、彼女のセリフは「(自分は助けずに)逃げなさい」「戦ってはダメ」「行かないで……」と、ネガティブで抑圧的≒保守的なものが多い。その結果として巨人に食べられるというのには、非常に強いテーマ性(安寧への忌避)を感じる。

「ママンが死んだ」とは今読んでいるカミュの小説『異邦人』の印象的なフレーズだが、ニーチェの「神は死んだ」を思わせる翻訳だ。思わせるというか、単に両方とも僕が最近読んだからそう思うだけかもしれない。まぁそれを差し引いても、母なる神という概念はありふれたものであって、繋げることはそう不自然ではなかろう。1話を見る限りではあまり関連性を見出せない「二千年後の君へ」というサブタイトルからも、やはり神の匂いがする。今の時代に二千年と言えば西暦以外にないし、西暦は言わずもがなキリストを基準としている。これらを元に、サブタイの発言者を仮にキリスト≒神的存在としたとき、"君"に何かを託しているような口ぶりから彼は既に死んでいると思われる。願いは呪いでもあって、託された者は責任という首輪を付けられる。この1話(漫画では2話目だが)で、何かを託すようなニュアンスを持ったものとは何かと考えると、ひとつしかない。だがそれが何かを明言するのは、もう少し後にしよう。

母を助けることに固執するが故に、あわや3人とも殺されそうになったところへ助けに来るハンネスさん。「カルラの言う通り見殺しにして2人と逃げるか、自分の恩返しの為に戦うか」という彼の葛藤は、6巻で描かれるエレンのそれを彷彿とさせる。他人の言うことを受け入れて従うか、跳ねのけて自分の意志を通すか……単純だが根深い。トロッコ問題にも似ているが、結局論点となるのは"意志と責任"だ。
アニメのハンネスからはその葛藤が取り除かれ、その代わりに「俺の恩返しを通す!」という迷いなき意志が巨人を前にしてあっさり折られてしまうという、落差による絶望感を強調した演出に変更されている。
おもむろに体を持ち上げ、口元に運ぶカルライーター。目を背けるミカサと、直視するエレン。舞う血飛沫。
この血、最初に「なんか流行ってるらしい」と聞かされて見たときには形も飛び方もヘンテコだなぁとしか思わなかったんだけど、こうやって細かな描写も見ていくと花びらをイメージしたものなんだなと理解できる。これはシナリオ本にも書いてあるのでおそらく公式見解で、1話冒頭(OP後)でも印象的に描かれていたし、分かりやすいのは主題歌の「踏まれた花の名前も知らずに」かな。アニメでは一貫して人を花に見立てていて、だから散り際には花びらが舞う。人間を植物に喩える表現と言えば、先述した植物人間もそうだが、一番はパスカルの「考える葦」だろう。こういう風にほんのり匂わされてるだけのことの方が、明言されたセリフよりも意外と重要なキーワードだったりするもの。
「綺麗だな」と思って花を摘む。巨人にとって人を食い殺すことは、そのような感覚なのかもしれない。脳内お花畑なのだと思えば、無邪気なのも頷ける。

 

アニメ2話、ウォール教徒は「罰を受けるのはそれまでに悪いことをしてきたから」と説く。これは一種の公正世界仮説という信念であり、道徳や倫理規範とは分けて考えるべきものだ。
だってこのウォール教徒は結局食い殺されていて、しかもこの敬虔さから考えるに"罪深き魂"を自称しつつもそこらの人よりかはよっぽど誠実に生きていたと思うのだ。つまりどういうことかと言えば、この仮説に目的があるとすればそれは「罰が嫌なら正しく生きよ」という前向きなメッセージを送ることではなくて、あくまで「自分(や他人)が受ける不幸に納得し受け入れる」ためのロジックなんだな。
もちろん副産物としては生まれ得るんだけど、副産物であることは揺らがない。どれだけ正しく生きたつもりでも、悪い結果が起きたなら自覚してないだけで自分の何かが悪かったのだと"解釈する"。本質的に諦め以外のものを導かないのがこの考え方の厄介なところ。

だが、じゃあハンネスに責任転嫁するエレンはどうだろう。大人であるハンネスは、彼に自己責任論を諭す。「この世のすべての不利益は、当人の能力不足で説明がつく」と言うが、これらにはきちんと「だから自分を改めよ」という願いが付属している。虚無感を超克しようという強い意志がある。ニーチェの哲学は進撃の巨人と強い関係があるので調べてみることをおすすめする。というか、進撃の巨人そのものが現代のニーチェとして機能していると言ってもいい。酷似しすぎててびっくりしたもん。

 

さながらノアの方舟のごとく、船で逃げる人々。グリシャも「2つ上の街」と表現していた通り、内地に行けば行くほど標高は高くなるのが進撃世界。当然川は上から下へ、内から外へと流れるはずなのに、船でどうやって内地へ行くんだろう? ……と思っていたが、よくよく見れば船の真ん中にロープがあって、それをローラーで手繰り寄せて上流する仕組みになっているらしい。なるほどな、100年もあったならそれくらいは整備されててもおかしくなさそうだ。
船で内地へ行けるのは分かったけど、そもそも壁に開閉門だけじゃなくて水門もあるというのはこれまでなんとなく見てるだけじゃ気付かなかったことなので、1話冒頭の見開きから「これ実質穴みたいなもんなのでは?」と疑問に思っていたのだけれど、事実なんとかやってけてることを考えれば、巨人は水にも弱いのだろうか。後々明かされる事実も踏まえるなら、巨人の体は大きさに比べて重量が軽いのでまず水圧に逆らえなかろうというのと、どちらかといえば物質というよりは高温のエネルギー体みたいなイメージなので、水によって体温が下がると弱ってしまうのかもしれない。夜に動けないのにも関係しているかも? ※11話『応える』にて、一番頑丈な箇所だと判明。穴を開けながらより頑丈にって、どうやるんだろう。

あとこのシーンはもうひとつ分かりにくいポイントがあって、一番悪さしてるのは「停泊してる船で"シガンシナを脱出"するんだ!」と叫ぶフーゴ。このセリフのせいで、あたかもシガンシナから船が出ているかのように思ってしまうのだけれど、実際は内門を超えたウォール・マリアの中で、更に内側へ避難せよ(シガンシナから離れろ)という話をしている。前後の繋がりを考えればすぐ分かるんだけど、流し見だと難易度高い。だから船に乗っているということは、エレンとミカサはいつの間にかシガンシナからは出られていることになる。もしかすると門兵のハンネスが多少融通を利かせて優先的に逃したのかもしれない。カルラを助けられなかった後悔から、マリア内地を助けるためにシガンシナに取り残された人を見殺しにする決断に納得できない流れもいい。そのせいもあって、結局は救えたかもしれない大勢の人間が死ぬこととなる。

情報だけで実感が湧かないトロスト区の委員会。こういうの見ると東日本大震災を思い出すな。遠いとどうしてもそうなってしまうよね。僕も当時小学生だったので、その恐ろしさを感じたのは割と最近。というかさっきもYouTubeで映像を見たんだけど、絶望しかない。これがフィクションじゃないという事実に心底恐怖する。
しかし執拗に川を映すから連絡手段と川が何か関係あるのかと思ったら、普通に早馬らしい。うーんだとするとあれかな、壁内が基本トップダウン方式を採用しているが故に、僻地から内地への情報伝達が遅いことを川の流れ(上から下へ)に見立てているのかな? ちなみに僻地(へきち)と表現したのは壁に近いことと街はずれであることをかけたシャレです、今後も使うかも。
委員はウォール・マリア陥落に対し、自分たちでは責任を負い兼ねると判断を保留。こういう態度は自由、或いは意志を語る上では鍵になってくる。今僕が思い浮かべてるのはかなり後半の展開だけど、感想ではもう少し早い段階で触れることになりそう。単純にネタ切れで。


「どうして……! 俺が……人間が弱いから?」
自分の話をごく自然に人類規模の話に拡大させてしまうの、逆にリアルよね。人間は主語を大きくしがち(でかい)。人間の中にも巨人に勝てるくらい強いやつはいる、これからいくらでも出てくるので、エレンが勝てないのは「人間である以上仕方のないこと」ではない。
続く有名なフレーズ「駆逐してやる、一匹残らず!」。かなり強い彼の語気のせい(クチクがカチクに似てるので、屠殺的な印象もついてるかも)で、まるで"根絶やし"ほどに強いかのように感じるんだけれど、"駆逐"という単語自体の持つニュアンスはあくまで「追い払う」くらいのものらしい。
そもそもあまり馴染みのない単語なので、『舟を編む』的に言えば用例採集カードがエレンのこれと「駆逐艦」の2枚しかないような状態。さらに僕は駆逐艦については名前だけでどうしてそう名付けられたかまでは知らないので、実質的には1枚だけ。コーパス(覚えたてなので無理にでも使いたい)として心許ないことこの上ない。
「弱いやつは泣くしかないのか?」という疑問から導かれるべき結論は本当はもっと別なことだと思うんだけど、そこはエレンが生来持つ暴力性の成せる業だろうか。だって
"弱いやつ"が泣かなくて済むようにしたいなら、巨人を力でどうこうしても意味がない。巨人より強くなって追い払ったとしても、立場が入れ替わるだけで「強いやつが弱いやつを虐げる」構図自体は変わらない。

「お前のためなんだ」を押し付け無理やり予防接種(仮)を受けさせられるのなんかもまさにそうで、パターナリズムなんて呼ばれたりします。予防接種の痛み,怖さ<該当疾病の苦しみ、というのはあくまで親の価値観であって、物心ついた子供が本当に同じように思うかは分からない。虫歯の痛みと毎日歯を磨く面倒さとかね。
ところでグリシャが内地から帰るシーンだけど、これまでと一転して画面左側が"壁の外(シガンシナ方面)"になっているので、また非常に紛らわしい。わざわざそうするということは何か別の意図があると考えるのが自然で、いの一番に思い付くのはやはり上手/下手なんだけれど、これを意識する人がどれだけいるかと考えるとこのシーンくらいは逆にしても良かったんじゃないかなと思わなくはない。或いはちょっとダサいけど正面向かせるか。
もしこれが「無事を願いつつも内地へ向かっている」シーンだとするなら辻褄は合うが、シナリオではローゼに向かっていると書いてあるので。

 

"まるで家畜"を体現するかのように、空になった食糧庫に集められる避難民たち。
同じ壁内人類でも、ひとつ壁を超えれば別物のように捉えられる。同じ日本人でも県によって区分けされているのと似ている。この辺の区別は本当に曖昧というか、その時々で都合よく解釈される。自分に得があるときは「同じ」、損がある時は「違う」ことにする。何故って、本質的にはどっちでもいいから。
10万円給付されるとなったら「同じ日本人だから貰える」と思うけど、懲役5年となれば「自分はそんな悪いことしてないから(同じ日本人だけど)違う」と感じる。給付金なら悪人(例えば前科有り)には渡さない制度にした方がいい、或いは悪人の自覚があるので受け取りませんって"考えてはいけない"理由は特にないのにね。
お恵みなんて要らない、家畜にはならない……全てのの人間に等しく平等な価値があるというけれど、『スクライド』のカズマのようにそれを否定する者もいる。シャルルの言葉を借りれば、そのような人生は死んでいるも同然。自分の力で何も勝ち取らない人間に、権利などない。
パンと共に、自分一人じゃ何もできない弱さを受け入れ噛み締めて、強くなることを決意するエレン。
そして、口減らしに祖父を殺されたアルミンもまた意を同じにする。
ただ、このウォールマリア奪還作戦って考えてみたらそんなに悪いこととも言い切れないのかもしれない。自分が食う分に見合った働きができないのなら、生きている価値はないとも言える。少なくとも僕みたいな穀潰しのニートは、その一例だろう。

それとは対極に、実力で選ばれた訓練兵上位10名のエリートたち。なんとなくスルーしてたけど、よく見るとアルミンはメインキャラなのに入ってないのね。意外。

 

第3話『解散式の夜』

本来4巻の回想で描かれていたジャンとの諍いを直前に持ってきたために、言い合いの相手がトーマスに変わっている。原作でのジャンの現実的なセリフ回しも結構好きなので惜しいところだけど、ミカサに嫉妬してキレるというのはトーマスじゃできないし、どちらか片方ならこっちなのは仕方ない。
でも、エレンの「"勝てないと思う"から諦めるってとこまで聞いた」という煽りまでなくなってるのは、どうにかして入れられなかったのかと思ってしまう。
本人は"現実を見てる"つもりで喋っているけど、未来は誰にも分からない以上、あくまでそれはトーマス(ジャン)が頭の中で行ったシミュレーションの結果を見ているに過ぎないということを指摘するかなり重要なセリフなので、もう少し強調して欲しかったというのが個人的なところ。俗に言う「それってあなたの感想ですよね?」みたいなもの。……我ながらこの比喩は俗っぽ過ぎてあまり良くなかったな、今のナシ!


……アニメではぼかされてて分かりづらいけど、ミカサの言う「エレンを生かしたい」って、めちゃくちゃ重い愛なんだな。
以前、友達が自殺しようか考えていると知ったとき、本当に死んでしまったらどうしようと考えてボロボロ泣くくらい悲しかったのに、止めることはできなかった。
ただでさえ死を考える程に追い詰められている人に対して、更に加えて「それでも生きて欲しい」なんて呪いをかけるのは、無責任だと思ったから。
仮に僕の言葉で自殺を踏みとどまってくれたとして、死のうとした根本の原因が消えてなくなることはない。そんな簡単に解決するならそもそも自殺など考えないだろうし、かと言って僕が何か助けになれるとも思えない。
「死ね」と言った結果相手が死んだら責任が取れないように、「生きて」といった結果として相手がこれから先味わう一生分の苦しみに対して、僕は責任を取れない。生きて欲しいと言うからには、まぁ一生は言い過ぎにしても、少なくとも今相手が抱えている問題に対する具体的な解決策くらいは提示できなくちゃいけない。
ちょっと重いのでアニメの話にすり替えると、コードギアスに「お前は奇跡の責任を取らなければならない」というセリフがある。圧倒的な武力を持つ日本がブリタニアという国に蹂躙される中で、藤堂という男は唯一白星を勝ち取った。結果的に日本国はブリタニア支配下に占領されたが、藤堂の起こした奇跡の一勝は日本人に(ありもしない)一縷の希望を抱かせる結果となった。そして主人公のルルーシュは、彼に対して「お前が希望を抱かせたのだから、最後まで責任を持ってその希望を叶える責任がある」と説く。

つまり、ミカサは「死ぬはずだった自分に生きる希望を与えたのだから、死ぬまで自分を幸せにする(生きてそばにいる)責任がエレンにはある」と言いたいのだと思う。
……っていうか、友達を例に出すまでもなく、僕もこないだ同じこと思ったっけな。その時は僕の方が「生きて」って言われて、そういうあれこれを考えて自分は泣く泣く言葉を飲み込んだのに、どうしてこの人は軽々しくそんなことが言えるんだろうと不思議で仕方なかった。「じゃあ貴方が僕を生きていたいと思えるほど幸せにしてくれるんですか、できないでしょ」と。

あれだな、そういえば呪術廻戦にも似たような話があったっけ。あっちは「自分が助けた人間が将来人を殺したらどうする」って問いだったけど、根本的な部分は一緒で、ともかく人の生き死にに関わるなら、その人の一生に対して責任を追わなくてはいけないのではないかということ。トムソーヤの続編、ハックルベリー・フィンの冒険でも、似たような問題が議論されていた。
無論、これはあくまで自問自答する類の問題であって、例えば医療従事者などに対して他人がいたずらに吐きかけるようなものではないということは断っておく。

 

未来の功績に対して先取りして報酬を貰うことで責任感を高める行為は、理屈としては分かるけど僕はあんまり好きじゃない。
いや、アニメの話としては気合の描写としてオシャレだし好きだけど、実際に「絶対土地を奪還するから肉貰っていいよね?」って場面に出くわしたら絶対あげたくない。
行動経済学では常識だけど、人間は将来の価値を現在のそれに比べて低く見積もる傾向がある。端的に言えば、今すぐ100円もらえるのと明日100円もらえるのとでは基本は今の100円の方が価値が高いし、今5000円貰えるのと来年1万円貰えるのとでは金額的には明らかに後者の方がいいのに、前者にも魅力を感じてしまう。だって将来何があるかなんて分からないもんね。くれる相手が蒸発するかもしれないし、もっと言えば自分が生きてるかさえ確かじゃない。
ただ、責任感や自分との約束というのはこの後(アニメ版ではこの前)の話と繋がっている大事な要素なので、無責任さと紙一重だけど良しとしよう。
しかしサシャお前、ふかし芋を半分譲るだけであんなに嫌がってたのに、自ら進んで肉を分けるなんて、少しは集団生活というものに慣れたということだろうか。

 

第4話『初陣』

突如現れた超大型巨人。
どの媒体でも「開閉扉を狙った」って言ってるけど、"扉"って基本は回転式の開き戸を指す言葉であって、劇中のようなスライド式のものにはあまり使わない印象なので、違和感。上下に開け締めするので"引き戸"というのもなんか違うし、かと言って"シャッター"でもない。僕は広くとって"開閉門"が一番しっくるんだけども、どうだろうか。
一説によると開き戸の方が引き戸と比べて防犯性が高く、日本においては城門などの攻められそうな部分を除いて、後は引き戸で済まされることが多いのだとか。その点海外は治安の問題なのか、イメージ通り開き戸の採用率が高いらしい。
確かに、引き戸って戸の全体が動くから力づくでやったら最悪パカッと外せそうだけど(襖とか障子とか)、開き戸は片方が蝶番など金属でしっかり固定されてるから、そうはいかない。更に言えば、同じ開き戸でも外開きより内開きの方が、ドアの前に重いものを置いたりして侵入者を防げるので安全。それに日本的な視点で言えば、洪水や津波のときも、内開きなら水圧でドアが開かないなんてことにはなりにくい。
ここまで話してきてあれだけど、そもそもこの"戸"という漢字自体、元は開き戸を表した象形文字な訳なので、"引き戸"という表現も微妙に矛盾している。本当の意味で正確にスライド式の入口を指す言葉というのはないのかもしれない。Doorもなかなか引き戸に対しては使わないよな、自動ドアだけは例外だけど。中国でも英語圏でも開き戸が一般的過ぎて、わざわざ個別の名前がついていないのかな?
自動ドアがスライド式なのは、まず勝手に開くと向こう側にいる人が危ないし、蝶番の部分の一点を軸に扉全体を動かすのは難しそう。どっちもセンサーを用意するとか、力点を作用点に近付けるとかして解決はできそうだけど、自動で開くならスライド式の方が確かにスマートな気はする。
最初に断った通り進撃とはほぼ関係ないドアについての雑談だけど、世間では「ボーッと生きてんじゃじゃねぇよ!」がトレンドだし、その姿勢自体は進撃のテーマとも通ずるものがあるので、良しとしましょう。


恐怖で手が震え、落ち着かないアルミンの気持ちが少し分かる。噂に聞く東日本大震災と比べたら全然マシだったんだろうけど、以前富士山に登ろうとしたとき、計画不足で大雨だったにも関わらず意地で登ろうとしたんだけど、登山道に上から流れてきた雨水がどんどん溜まって、かなり勢いの強い川みたいになってたのよね。富士山の麓までもわざわざ自転車で行ったから「今更引き返せない」と思って意地だけで登り続けたんだけど、下りのときに楽だろうと思って押していた自転車は気を抜いたらすぐに流されてしまいそうで(結局途中で放棄した)、時折往来する大型車でさえも走ってるんだか流されてるんだか分からないような状態。当然視界も悪い訳で、一歩でも足を滑らせたら流されてしまうかもしれない上に、その間に車でも来たらとても止まれる余裕はないだろうから轢かれるかもしれない。
「本当に死ぬかもしれない」という精神状態に陥ったとき、僕もこのアルミンみたいに、ぶつぶつ独り言を言うことでなんとか自分を保つしかなかった。ひたすら事実を確認して、自分で自分を説得,納得させるような。


アニメオリジナルのピクシスがんバルト候とチェスに興じる部分、シナリオのにのみ「ヤツぁ5年前もワシの留守に来ましてな、よっぽどワシのことが嫌いなんですな」というセリフが記載されている。
明らかに、今回調査兵団の不在を狙ったように5年前の襲撃もピクシスが不在であるのを知った上で超大型巨人は現れたということを示唆している訳だけれど、この頃はまだ現在とは違った展開になる予定だったんだろうか。その場合、5年前の襲撃よりも以前から壁内に巨人側の人間がいて、ピクシスの動向が分かる程度には兵団の内部に潜んでいたことになるので、外部からの攻撃というよりは内部に潜む敵との内戦になる予定だったのかもしれない。


後にエレンが暴走する際、その理由として解釈されがちなミカサとの言い争い。これをしっかり理解するためには、確かにアニメのように先に訓練兵時代の話を知っておく必要があるな。アニメで見ててもいまいち分からなかったとこなので、原作派は言わずもがなだろう。
ということで、ここでは4巻の内容(と僕の感想)を先取りして読んでいる前提で話を進める。
(参照:進撃の巨人 4巻/1期3,4,13,14話 感想)

エレンがミカサに説いているのは、重ね重ね話題に出した「力に伴う責任」だ。兵士として戦うため装備を与えられているミカサには、その力を私欲のためではなく公益のために使う義務がある。
当初の僕のように、エレンのことを単なる「その場その場の激情に従って生きてる人」として見ていたら、この辺のやりとりはあんまりピンとこなくて当然。


天を仰ぎ口を開けて呆けるエレンは、さながら空っぽの人形のよう。外に関する本はいけないものだなんて、無批判な遵法意識だけ持ち合わせて。
1話ではあれだけ輝いていた目も、ぼんやりとして覇気がない。
意味はまだよく分からないけど、コミックスの裏表紙は表紙の絵を目だけ不気味に光らせたものになっているのよね。
その瞳に色を与えたアルミンを助けて、エレンは食べられてしまう……。

 

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かけ算の順序問題の解説と、かける数/かけられる数に見る人間の認識

※現在この記事について賛否……というか九割九分九厘が"否"の方で色んな意見が飛び交っていることを受け、補足の記事を書いています。お待ちください。いや、やる気が失せたので待ってもすぐには出ません。

 

かけ算という操作は非常に奥が深い。というか、僕には正直よく分からない。
「かける数/かけられる数」の話は、生きていたら一度くらいは聞いたことがあるだろう。「3人の子供に2個ずつパンを分けるとき、全部でいくつ必要か」という文章題に対応する式として「3×2=6」を書くことが、果たして間違いなのかどうかという問題。結論を言えば、一般的な「かける数/かけられる数」の立場からすると、これは間違いとなります。
頭の悪い人間は自分の無知を棚に上げて「どうして駄目なのか」を考えようとせずに教育機関を責めたりする(発端のツイートでは「気が狂っている」とされていた)のだけれど、途中までは少し考えれば誰でも分かる話だと思うので、説明してみようと思う。

前提条件として、かけ算には交換法則が成り立つので、3×5も5×3も同じ15という数字を導く。ここはたしかにその通り。
その上で、あくまで"社会生活における約束事"として、かけ算の書く順序に意味を設定する文化がある。前に来るものを"かけられる数"、後ろに来るものを"かける数"とし、それぞれが1つあたりの数と、それがいくつ分あるかを表す。言葉で書くと抽象的にならざるを得ないので、視覚的に書いてみる。
図1「◯◯ ◯◯ ◯◯」→2×3
図2「◯◯◯ ◯◯◯」→3×2
ここに意義を唱える人は少ないのではないか。2個の塊が3つあるので、2×3。3個の塊が2つあるので、3×2。通常、この"塊"のことを"かけられる数"と呼び、立式の際には前側に置かれる。「2に、3をかける」ならば、2がかけられる数で3がかける数となる。

先述の文章題「3人の子供に2個ずつパンを分ける」というケースを図にしようと思ったら、多くの人は図1を選ぶと思う。だから、このケースに対応する式は3×2ではなく「2×3」なのだ。深い話なので詳しくは後回しにするが、人間の認識として「子供よりもパンの方が距離的に近くてひとまとめにしやすい」から、図2にはなりにくい。
文章の中で数字の出てくる順番が逆なので紛らわしいが、これが割り算ならどうだろう。「3人の子供に12個のパンを分けるとき、1人あたり何個か」という問いに対して、順番通りに並べて3÷12と書く人はいないだろう。それは割り算の数字の順序に意味があり、割る数と割られる数が意味的に区別されているからだ。かけ算においてはたまたま交換法則が成り立つから頭の中で逆転させても同じ結果が出るだけで、本来この両者は区別するべきものである……というのが「かける数/かけられる数」の立場だ。


ここからはさらにもう一歩踏み込んで話をしてみる。ここまでの話で分かった気になれた人は、読まなくていいかもしれない。こんがらがって「やっぱり分からないや」となる可能性も高いので、理解を深めたい方だけお付き合いいただければいい。

そもそもの話この順序問題というのは、かけ算と言っても項が2つの時に限られたものだ。項という表現は正確ではないが、数学に詳しくない僕は残念ながら他に適当な言葉を知らない。要は「2×3×5」のように3つ以上の要素をかける場合には、同様の取り決めはあまり顔を見せなくなるという話。立体の体積を求める場合の「縦×横×高さ」という順などは時折使われるが、2要素の時ほど強いものではない。あえて文章題をつくるのであれば「2個のパンを3人へ、1日おきに5回配る」みたいな構造になるだろうか。3要素になると途端に脳の処理能力が追いつかなくなり、順序など割とどうでもよくなってしまう。
先程ちらっと匂わせたが、同じ「3人の子供に2個パンを分ける」ケースでも「◯◯◯ ◯◯◯」→3×2の図にすることは不可能ではない。「3人の子供に1つずつ配ると、2巡する」という捉え方をすればいい。Wikiには「トランプのように配る」と書かれている、言い得て妙だ。数字と単位の組み合わせパターンを挙げてみると、以下の4つとなる。
 1.パンを2個ずつ3人に分ける(2×3)
 2.パンを3個ずつ2人に分ける(3×2)
 3.パンを2人に1つずつ、3度配る(2×3)
 4.パンを3人に1つずつ、2度配る(3×2)
かけられる数とかける数を分かつのは、基本的には先述もしたが「どちらがよりひとまとめにしやすいか」だと思われる。この辺りまで来ると、問題の根っこが明確になってくる。これは数学の問題というよりは人間の問題……人がどのようにして世界を認識するかという、極めて文系的な話なのだ。

 

小学校を飛び出すと単位同士をかけたり割ったりするというややこしい概念が出てくるらしい。
m^2(平方メートル)とかm/s(メートル毎秒)とかならあの頃から何気にあったけど、m/s^2(加速度で分かるよね)なんかはもう既に僕の理解を超えている。文系なので物理はなんとなくしか知らない。
例えば2本1セットの棒が3セットあるときに下のようにならないのは何故? 普段は、6[本]と捉えているのが不思議でならない。
2[本]×3[セット]=6[本・セット]
対して、割り算は意識することが多い。 "一人あたり2枚"のような表現はよく使う。
10[枚]÷5[人]=2[枚/人]
m×m=m^2というのは、あくまで「1辺を1mとする正方形の面積を1m^2とする」という定義だから成り立つものなのであって、そうでない場合に"単位の二乗"という概念は果たしてアリなのか?
2[g]×3[g]=6[g^2]という式を想像したとき、g^2とは一体何を表す単位なのだろう、そもそも「かける3グラム」とはなんだと。"日常的意味から離れる"ことが許されるなら、ひとつの抽象概念としてこういう(無意味に近い)ケースを考えることも可能になってしまう。(10/21注:質量×質量という概念は既にあるらしいです。他の無意味と思われる操作に置き換えて読んでください)
かけ算の時は異単位同士でかけたが、2[個]+3[本]のように加減でやると、それって「2個と3本」で変わらないのでは? それとも5[個+本]?
表記はなんでもいいとして、それが一体何を意味するかを考えると、あえて僕が表現するなら5[つ]となる。異単位同士なら、共通させられるより広い単位に変えようと努力する。そんな無茶くちゃなことがあるかと思うかもしれない。そもそも助数詞と単位は分けて考えるべきなのかもしれない。

 

究極的な話ひとまとめにできるものなどなくて、「りんごが2個」という状況は無限と同じく、形而下では本質的には有り得ない。りんごはりんごでも ふじ と つがる かもしれないし、同じふじでも重さや大きさ,甘さに色など、どうしても差異は生まれる。仮に物質的には全く同質だったとしても、置いてある位置などによってりんごAとA'に区別することが可能だ。にも関わらず"2個"などという共同幻想が成り立つのは、いくつもの違いに目を瞑っているからに他ならない。

まだ数が抽象概念として確立していなかった頃、人は数えるものによって数詞を変えたという。今で言う自然数に当たるものは寡聞にして知らないのだが、群名詞というものなら知ってる。「a pride of lions」でライオンの群れを、「a tower of giraffes」でキリンの群れを表すのだ。群れの概念を抽象化して、対象がどんなものであれ たくさんなら同じたくさん だとするならば、どれも「a lot of」とかで良さそうなものだが、"ライオンの群れ"と"キリンの群れ"は別物だと認識しているから、このような表現が生まれる。
同様に、人間が2人いるのとりんごが2つあるのとでは、同じ"2"でも全く質が異なる。キティちゃんならともかく、大きさも重さも構成物質も何もかも違う。両者は精々"似ている"だけで、同じものではないと考えられていたのだ。その面影は助数詞などの形で現在にも残っているが、数字そのものの持つ具体性はほとんど抜き取られてしまったと言っても過言ではない。電話番号に使われている数字は、一体"何を数えて"いるというのか。

以上のことから分かる通り、我々の使う数字という概念は不合理に満ちている。本来個別のA,A',A''…をすべて同じと捉え、Aを兼用して脳の処理を節約しようする。ベクトルにおける演算なども、スカラーのそれと"同じもの"だとはとても言えない。あれらはあくまでアナロジーの域を出ず、理解の助けになるよう便宜的にそう名付けられているに過ぎない。オッカムの剃刀を採用するような科学分野においては特に、細かな違いを無視するこのような概念の流用が多く見られる。数えるという行為はその筆頭だ。
数学なんてものは、言ってしまえばとびきりの怠け者の机上にしか生まれないのだ。要領が良い、とも言うが。


これは僕の個人的な考えだが、"さんすう"と"数学"は別物だと思う。1+1の証明は本当は難しいだとかいった話を始めとして、算数の範囲について後々になって厳密な話をされることが時折あるが、では何故小学校の時にはそれらの理解をすっ飛ばして数を扱っても良かったのか。
ここに大きな方針の違いがある。
算数とは"人と関わる手段"を教えるものであり、究極的には言語と同じだ。厳密な体系としての自然数論とはまた別に、そこまで突き詰めずとも「人と人とが共通認識を持ち一般的な生活をおくれるようになる」ことを主目的にした体系がある。言語学において単語の意味を厳密に定義しようとすることがどれだけナンセンスかを思い浮かべていただければ分かるだろうか。
「かけられる数を前に書く」というのは、そういう人間社会の営みの中で生まれた"慣習"だ。何故前なのかといえば、僕が先程「1つあたりの数と、それがいくつ分あるか」という表現をしたように、かける数はかけられる数を前提にそれを指示する性格がある(視野は狭い→広いと動く)。基本的に、指示語が指すものは既出の文章の中にある。話題にしているものが何なのかをハッキリさせずに話を進めるのはそれこそ数学くらいのもので、普段そんな頭の使い方はしないものだから方程式(xという概念)で躓く子が多いのだと思われる。
所詮は慣習だからと言って無視することは難しい。数の記号にアラビア数字を使うことへ不平を垂れていては話が進まない。問題があるとすれば、このローカルルールがアラビア数字ほどには浸透していないことだろうか。僕としては例え必然性がなかろうが、全くの無秩序であるよりは前後に意味を設定して式から浮かべる文章題的イメージを(なるべく)統一することは十分有益であると思うので、広めたい。

 

結局は個人の感覚に委ねられるのであくまで参考程度に聞いていただきたいが、パンを子供に配る例ならば、距離が近いものから遠いものへという順になった。基本はこのように、狭いところから視野を広げていくイメージでよいのではないかと思う。
1分あたり2L溜まるお風呂を張る時間ならば、時間が後者に来る。この場合は距離というと違うけれども、心理的距離だと言うことはできる。要は体積というより慣れ親しんでいる(≒実感のわきやすい)ものから抽象的なものへと移行していく。完全に認識を共有できないからと言ってこの順序を切り捨てるのはナンセンスで、よりベターな方法ではあると思うのだ。普及しさえすれば。

交換法則を根拠に順序問題を一蹴する理系の人は、かけ算の文章題の意味が分かってないというよりは、"客観的"の幻想にとらわれて、自分たちが人間社会の中で暮らしていることを忘れているように思う。先程はさんすうと数学を腑分けしたが、そういう意味では一緒だ。
読み取る相手のことを考慮せずに不文律やマナー程度のことを無視して順序を適当に書くのと、きちんと伝わると思われる方法を選ぶのでは、どう考えても後者の方が人間関係の問題として正しい。特にテストという場ならなおのこと。
校内のテストならば採点者と生徒の関係は一方通行ではないので、異議があればテスト返却の際に声を上げることができる。採点者の側でも、きちんと理解しているか確認するまで保留にするなど、柔軟な対応ができると好ましい。僕が小学生の頃は、まだ学校で習っていない手法を使った場合などにそのような対応をしてもらった。
読めないほど汚い字で書いては採点者が困るのと同じで、相手に伝わるように努力するのは回答者の責任だと言える。そもそもの話、賛否が分かれているとはいえ幸いこのケースでは「かけられる数×かける数の順にしろ」「いやどっちでもいい」という人はいても、「逆でなければいけない(その方がしっくりくる)」という声はとんと聞かない。であるならば、採点者がどちらの立場であるかに関わらず、かける数/かけられる数に従って書いておくのが回答者としてよりベターな(合目的的な)選択ではないか。

僕が見た事例では、問いの出し方から気を使われていた。
「□を埋めて3×2の式になる問題をつくりましょう。
パンを□人に□個ずつ配ります。パンは全部で何個いりますか」
穴埋め式によって、見事にトランプのようにひとつずつ配る可能性を排除している。トランプ分けだと考えるには"一巡"などのキーワードが欠落していて明らかに説明不足だと言えるだろう。
前後どちらがかける数なのかさえ授業で認識を統一しておけば、起こり得る認識の齟齬は「この状況においてパンより人の方がひとまとめにしやすい(かけられる数にしてしっくりくる)と感じる珍しい例」だけに限られる。

 

今回僕はこの記事を参考にさせてもらったのだが、ここに挙げられている「割り算の計算過程」の問題は、この話である程度解決できるのではないかと思う。

enomoto-2009.hatenadiary.org

割り算の途中過程を人に伝わるように説明する機会がそもそも少なかろうし、文化(周囲)からの要請がないのであれば、必ずしも杓子定規に一貫性を求めなくても良い。g^2とはどういう単位かを定義しなくて良いのと同じく、割り算するときは気にならないというのならそれはそれでいいのだ。自分の他に誰が見る訳でもないメモならば、交換法則だろうがなんだろうが好きに書けばいい。アレフの形がかっこいいからとヘブライ数字を使うのもよかろう。
だが人と関わるのであれば、書き手/読み手が相互理解に向けて協力し、相手のことを思いやる気持ちは忘れてはならない。

仮面ライダーセイバー 第5章「我が友、雷の剣士につき。」 感想

キャラクター

 神山飛羽真

2話でも手に入れたライドブックをメモしていたけど、やはり彼は本作の執筆者(語り手)という側面も持ち合わせているのだろうか。飛羽真が書いたから『セイバー』が生まれたのか、セイバーとしての戦いを経験したから手記として書けたのか、ここの循環関係は前回も書いた通り意図的にどっち付かずにしてあるのだと思われる。自分が発明したタイムマシンの設計図を過去の自分に渡すような感覚ね。
カリバー「失われた炎の剣が現れたか……これで他の剣士たちも動き出す」
ヨハネ、鷲

 

 富加宮賢人


 尾上亮
・みんなの親代わり
熱くなる賢人の代わりに尾上が、そらは飛羽真が 分業


 カリバー
・ 戦いの運命から逃がそうとしている?
カリバーの正体は隼人じゃなく先代では
トマス、双子 飛羽真と賢人はカリバーの子


 須藤芽依

セイバーに限った話じゃないけど、立ち位置がイマイチ分からないよな。物語のカギを握る枠はソフィアもとい白い服の少女に取られてるし、今のところ本当に何者でもない。前回はめちゃくちゃ敵を倒すことに貢献していたはずなんだけど、今回も登場人物が誰一人としてそこに触れないのは健在だった。そもそもどうしてそんなにロゴスと関わりたいのか、単純な好奇心以外の理由付けがない。

 

 

前話
仮面ライダーセイバー 第4章「本を開いた、それゆえに。」 感想

仮面ライダーゼロワン 第45話「ソレゾレの未来図」 感想

※書きかけです

 

 ・滅の苦悩はありきたりな失楽園のなぞりってことでみんな分かるよね。僕も何度か言ってるように、感情なんてものがあるから要らん葛藤が生まれる。生きたいとさえ思わなければ死に恐怖しないように。
そこにまたアンチテーゼとして出てくるのがエデンなんだろうけど。
で、なんで分かりあった風の流れから戦ったかというと、「頭では分かっても心が追い付かない」が故のこと。誰が悪い訳でもない、それは分かった。でもじゃあ、湧き上がるこの悲しみをどうしたらいいんだと。その答えが、お互いに仮面ライダーとして殴り合うことで"ストレス発散"をすることだった。
相手を滅ぼして終わりにするための戦いじゃなくて、あくまでこれから先も付き合っていく(相手とも、自分の感情とも)ための戦い。

・割と本気で、新しく作られたイズの尊厳ってなんですか? ゼロ歳の赤ちゃんに人格的な尊厳があるとでも? それをこれからつくってくんでしょうが。
問題にすべきことがあるとしたら旧イズの尊厳でしょ。
(参考:ゼロワン 第6話「アナタの声が聞きたい」 感想)

・新イズ問題に対しては僕はもうとっくの昔に答えを出してるのであまり興味が湧かない。或人は記憶喪失者ではないので(皮肉的な意味ではともかく)、彼の中で「イズは一度壊れた」という事実をなかったことにはできない。その上で新たに、名前や見た目の上では区別のないがあくまで"新たなイズ"がいる。
(参考:ゼロワン 第31話「キミの夢に向かって飛べ!」 感想)

・飛電或人というキャラが出てくるって時点で言ってしまえばこれまでと全く同じ最終回にはなり得ないので、「これまでと違うなんてそんなの当たり前だろ」くらいにしか思ってなかったけど、それにしても思い当たるところがなかったな。

・「用語のふわふわさ」はテーマ的にも重要だし、子供向け(対応)番組としても重要。前に出した、サトシはミュウツーの言ってることはほとんど理解できてなくても、言葉じゃないところで分かり合うって話と同じ。
(参考:ゼロワン 第37話「ソレはダレにも止められない」 感想)

・ヒューマギアに限らず、人間にも人間社会に対して貢献する義務というのはやんわり課せられてるよね。ヒューマギアが人間のために動くことは、自分たちの利益にも繋がる。

 

・総括で書く予定のこと
ヒューマギアの名前と職業、他のどの作品のゲストよりも印象に残ってる
敵の武器を奪う、1号 ネット版ディケイド21話
武器の共有
障害者としてのヒューマギア
仮面舞踏会 下に降りる
心は誰のものでもない
勘違いでいい気分に
交換可能性と愛着の有無
一番臆病なのはこの世界なのかもしれない

 

ゼロワン感想一覧

次話
仮面ライダーセイバー 第1章「はじめに、炎の剣士あり。」 感想

仮面ライダーセイバー 第4章「本を開いた、それゆえに。」 感想

キャラクター

 神山飛羽真
・約束を果たす覚悟
彼の言う約束は、ちょうど今YouTubeで配信されているクウガの五代に似ているところがある。彼もまた無根拠に「大丈夫!」と言って周りを安心させておいて、その後で頑張ってその嘘を本当にできるよう尽力するタイプ。自分に対してハードルを課す意味では、約束や契約などのニュアンスも含まれる。
そう言うとかっこいいんだけど、今回の話は「いつまでにって話はしてないからまだ破ったことにはなってない! これから果たすんだ!」ってだいぶ言い訳くさい展開だったのはちょっと引っかかった。

あと、「約束約束うるせぇよ(意訳)」と激怒する尾上に対して「絶対に約束は守ります」って、一歩間違えたら完全に逆効果な返答なんだけど、軽々しく「あなたの気持ちは分かります」と言わないところに関しては結構良い手だったかもしれない。
小説家としては、自分が書いた本やキャラクターは子供も同然だと思うので、全く分からないということはないだろう。或人もヒューマギアをつくる会社の社長だったし、令和ライダーは今のところ2作連続で"親ライダー"ってことになる。『バクマン。』という漫画家を目指す漫画があって、その中で主人公たちの作品を真似た犯罪が起きて社会問題になるというエピソードがあるのね。「本来人を幸せにするはずの本が悪いことに使われる」まさにヒューマギアがテロに利用されるのと同じ構図。
一億総批評家と言われるほど様々な視点が跋扈する今の時代において、対象が良いものか悪いものかという評価を統一することはほとんど無理に等しい。すると自然、「そこを見たら悪いけどここを見ればそんなに悪くない」みたいな主張の仕方にならざるを得ない。或人も飛羽真も良いところに注目して、悪いところから目を背けるきらいがある。まぁ仕方ない、あれが駄目これが駄目と否定ばっかりする主人公よりはマシだ。子供に見せるなら尚更、大人になるまでの間くらいは都合のいいとこだけ見ていても良かろう。

彼の記憶喪失も、おそらくそういう現実逃避的な側面があるのだと思う。賢人の「忘れていた方が幸せ」というセリフからはそういうニュアンスがぷんぷんする。忘れてしまいたいほどつらい、約束を守れなかった過去……。
最近超全集を買った関係で見返しもせずぼんやりと龍騎に思いを馳せることが多いのだけど、真司にはそういった過去が思い付かないんだよな。彼が何事にも首を突っ込まなきゃ気がすまない、積極的に介入するほどに戦いを好まない性格になった"背景"。覚えてる限りでは彼の過去が描かれたのってEPISODE FINALくらいのものだけど、優衣との約束をぶっちしたことがそれらに繋がるようにも思えないし、今の性格を支える過去話の有無だけに注目するならば、城戸真司というキャラクターは至極薄っぺらくて脆いものということになる。裏を返せば自由度が高いとも言えて、仮に好戦的になっていたとしても"矛盾"はしない。蓮にとっての恵里のような「○○はどうなったの?」と言えるようなこれといった根拠がないのだから。彼の軸はあくまで現在にあって、1話で言ったような自分を縛る"過去の自分との契約"を持っていないキャラクターなのだな。
話を飛羽真に戻そう。2話の様子だとライドブックを集めるにつれて記憶の鍵も開かれていくような感じだった。仮面ライダーとして戦う覚悟とつらい記憶と向き合う覚悟の2つが絡み合っているのだと思われる。
ヘッジホッグは「指切りげんまん"針千本"飲ます」に、ピーターパンは"ネバーランド"に通じていると思えば、この2つの力を使った今回のドラゴンヘッジホッグピーターは「約束絶対守るフォーム」としての意味を持っているのかもしれない。


 尾上亮
・薄っぺらい
カリバーが賢人の親で、先代炎の剣士も飛羽真の親なんだとしたら、尾上さんは子持ちってところをかなり押し出されてるけど、実は家庭を持ったのはその3人の仲間内ではかなり遅い方ということになる。飛羽真,賢人とそらの年齢差を考えるとね。
子育て王なんて名乗っちゃいるが、むしろ彼はそれまで剣の道一筋で生きてきたところ、同僚2人の姿を見て自分も子供が欲しいと思ったのかもしれない。「子供は宝」というセリフがどうにも薄っぺらく聞こえたのは、受け売りに過ぎないからなのかも。飛羽真だって覚悟の話とかそうだけど先代の真似をしている部分が多いので、そいうところでもシンパシーを感じたのかな。

・変身システムと賢人の覚悟
これは現段階ではただの想像でしかないんだけど、ソードライバーを使う3人は全員尾上から見てひよっこ世代とのことなので、システム的には比較的新しいものなのではないかと考えることができる(烈火本体は先代も使ってたが一旦目を瞑る)。もしそうだとすると、ビルドのように多様な組み合わせを実現できているのはフラッグシップモデルだからという理由を付けられる。
更に、それというのは裏を返せばライドブックを3冊も揃えないと体のほとんどがブランク状態で本来の力を発揮できないということにもなる訳で、これはカリバーという裏切り者が出たことを考慮したある種のセキュリティシステムなのではないか。
カリバーやバスターはひとつのブックから全身を覆うだけの力を引き出せるのに対して、ソードライバーのライダーは1/3ずつしか抽出できない。それならば現状バスターと他のライダーに力の差があり過ぎることも頷ける。
これを踏まえた上でもう一度本編を見ると、自分の属性のライドブックを貸すという賢人の行為は、軽んじて見ることができなくなってくる。飛羽真,倫太郎コンビと違い、十分過ぎる腕前を持っていて力に困ってる訳ではない尾上に対して、自分の力の一端を差し出してでも「飛羽真のことを信じてくれ」と、そこまで言うのであれば彼も無碍にはできまい。ヘッジホッグライドブックは、謂わば『走れメロス』におけるセリヌンティウスみたいなものなのだ。さっき言った「針千本」もあるしね。たぶん。

豪快にぶった切るのが得意な彼には、幾千の針で再生できないくらい細かく刻むなんてのは性に合わなそうだし、飛羽真を信じた判断は正しかったと言える。


 カリバー
仮面ライダーたる所以
2話で倫太郎の口からキーワードとして語られた「世界の均衡」という言葉。そのままネット検索するとまず出てくるのはヨーロッパ、特にイギリスが掲げていた勢力均衡という考え方だ。均衡という表現からも分かるように、この概念は勢力の"対立"が前提にある。
倫太郎は分かっているのかいないのか、裏切りの剣士カリバーに対する敵対心を抱きながら「世界の均衡は僕が守る!」と叫んでいたのだが、この考え方ではカリバーのような存在を"駆逐"することはできない。

むしろ、ロゴスがあってメギドがある。この2勢力の力が拮抗してどちらが勝つでも負けるでもなく、永遠にその絶妙なバランスを取り続けることこそが、勢力均衡の理念である。僕の理解では。ソフィアが「未来永劫続く終わりなき戦い」と言っていたのはこういう意味。彼女は表向きカリバーを敵視しているが、その実は汚れ役を引き受けてくれていることに感謝していてもおかしくない。何より"永遠"は現実と対立するメギド側のキーワードだ(Maegaki Eien Ga honnIyori umiDasareru)。彼女もまた、腹に一物抱えている。その戦いに身を投じながら「物語の"結末"は俺が決める」と宣言する飛羽真の特異性も、同時に浮き彫りになる。彼こそ世界を終わらせる存在なのだ。

以上を踏まえれば、ある意味でカリバーは必要悪のような立ち位置にいることが分かる。おそらくだからこそ、彼はまだ聖剣に選ばれし戦士"仮面ライダー"なのだろう。
それらを抜きにしても、「アヴァロンに辿り着く日も近い……」と悲願を語る彼の姿からは、僕はどこか純粋さを感じた。まるで彼も誰かとの約束を果たそうとしているかのような。アーサー王はアヴァロンの地で、いつか来る目覚めの時を待っているらしい。彼の聖剣をエクス-カリバーと分割するのならば、意味的には"元カリバー"となる。彼は将来、自分の主たるアーサー王の懐刀に再び返り咲く為に、戦っているのかもしれない。
(参考:ワンダーワールドの両義性→セイバー 第1章「はじめに、炎の剣士あり。」 感想)

 

 須藤芽依
・ひどい扱い
戦場にヒロインと言うと、イズがのこのこ出てきてやられたり沢渡さんもわざわざやってきたりと危なっかしいイメージが強いのだけど、今回の芽依は結果論とは言え結構なお手柄で悪くなかったと思う。
……それはいいんだけど、尺の都合なのか誰ひとりとして彼女のことに触れないのがすげぇ気になった。「なんでいるの?」とか「危ないことするな」とか「君のおかげだありがとう」とか、なんもないじゃん。唯一話しかけてると言えるそらくんでさえ「本なんて開かなきゃよかった」と独り言でも十分成立する内容だし、その後も興味を示したのはピーターファンの話題だけ。芽依さん泣いていいよ。

 

 メギド
・王とは誰なのか
飛羽真たちは「(メギドが)捕まった人々を食べてサンショウ王になる」という解釈をしていたが、これは多分ミスリードだと思われる。だってハンザキメギドは「(我が)王の誕生」と言っていたので、明言はされてないものの文脈からして王になるのは彼本人ではない。でもだとしたら、一体何が人々を食べるというのか。
実は人々は、食べられる予定ではなかったのかもしれない。彼らがとらわれているところは、どこからどう見ても両生類の卵。この状況で王が"生まれる"と言うのなら、あの卵から出てくるに違いなくない? 前回僕はハンザキメギドも元はワンダーワールドから出られなくなった人間だったのではないかという話をしたけれど、それなら話が繋がる。本を開いて現実から逃避した人間たちは、いつの間にか現実に帰れなくなって怪物と成り果てる……。
みたいな話をしたかったので無理やりしたんだけど、見直してみたらハンザキメギドが「エサたちよ集まれ」って言っちゃってるのよねぇ。無念。
ただ、前回の時点では"サンショウウオの王様"なる概念を知らなかったので、僕はてっきりアーサー王のことだと思ってたのよね。カリバーの目的はアヴァロンだって話だしさ。もしそうだとするならまだ僕の仮説は首の皮一枚繋がってる。帝国航空はまだ死んじゃいない!(それはハンザワ)
アーサー王復活の鍵がアルターブックの完成、ひいては大いなる本の復元だとしたら、現実世界にいた人間がワンダーワールドのキャラクター(サンショウ王)に書き換わることそれ自体が、"王の誕生"に繋がる「エサ」なのだという表現でも、矛盾はない。ちょっと牽強付会な感も否めないが。つか、牽強付会が変換できなかったんだけど、しっかりしてよGoogle日本語入力さん。もしかしてあんま一般的じゃないのかな、我田引水の方が伝わる?

・デザスト
どう見てもどう聞いても、完全にヒロアカの死柄木弔でしたね。大塚明夫さんと内山昂輝さんが揃ってる訳だから100%狙ってる。大した覚悟もなく遊び半分でふらふらと戦場に出てきて飽きたらすぐ帰る様なんかも、序盤の彼そっくりそのまま生き写し。
ワンフォーオール(One for All),オールフォーワン(All for One)の元ネタはご存知『三銃士』。銃士と言いつつ剣士の3人と見習いダルタニアンの話ですね。三位一体のセイバー、そしてデザストにぴったり。そういえばこれもフランスの作品だわ。


設定

・本当に倒せば戻る?
怪人がやったことは怪人を倒せばすべて元通り……戦隊のように当然のこととして流されてるけど、映像を見ている限りでは怪人の生死とワンダーワールドの消滅に因果関係はほとんどないのでは? と思う。
まず幹部のレジエル,ストリウス,ズオス(名前が覚えやすくて良い)がカリバーから受け取った既存のアルターライドブックの1ページ目を開くと、メギドが誕生――デザストの話を聞く感じだと召喚に近いのかな――する。
そして今度はそのメギドが幹部から受け取った白い本 ブランクアルターライドブックを開くと、現実世界がワンダーワールドに転送され、世界消失現象が起こる。
ここまでの情報を素直を受け取るならば、目先のメギドをいくら倒しても、白い本を閉じなければ世界は戻らないはずなのだ。

これをうまく解釈するために仮定をするなら、ライドブックの力を解放して世界消失を起こすためには魔力みたいなものが必要で、メギドからの供給が絶たれると自然に戻ってしまう……とかだろうか。ついでにアルターブックの起動にも必要だということにすれば、幹部がメギドを軽い気持ちで量産できない理由にもなり得る。
また別の可能性として、「本のキャラクターが本を開く」という一見奇妙な現象によってタイムパラドックスのようなことが起こり、発生した膨大なエネルギーを魔力として転用しているとか。ディケイドは似たような設定で、クラインの壺というメビウスの輪の3次元版みたいなものから無尽蔵のエネルギーを取り出しているそうな。

セイバーの世界は"大いなる本"からできたとされているが、じゃあその本はどうやってできたのだろうか。「文豪にして剣豪」というキャッチコピーが示すように剣というのはペンの比喩なので、"聖剣"というのは差し詰め大いなる本を執筆した剣のことを指すのだろう。聖剣に対応する本なのだから、大いなる本は"聖書"だ。聖書はたった1人の著者によって書かれたのではなく、大勢の人が何年にも渡って追記や修正を繰り返してできたもので、聖剣が何本もあるのはそのため。
これはキリスト教に限らず宗教全般に言えることだが、我々人間や世界のルーツを説明することが多いので、自然と自己言及的(再帰的)な構造を取ることになる。自己言及とはウロボロス(ブレイブドラゴンのストーリーページは炎を吐いているようにも、自らの尻尾を噛んでいるようにも見える)によって象徴される概念で、分かりやすくイメージしてもらうなら、タッセルの家が丁度よいだろう。彼が住んでいるあの小屋は、中に全く同じ家がスノードームとして存在している。その家の中にもタッセルの家のドームがあって、その中にもまたドームが……という無限に繰り返される循環、或いは入れ子構造をしている。
この世界を1週間で創り上げたとされる神ヤハウェ。だが夢のない話、そういう物語を創ったのは我々人間だ。しかし我々が創ったヤハウェが、また我々を創ったのだ。こういったループは設定の矛盾や瑕疵などではなく、制作陣は自覚的にやっているものと思われる。
「結局のところ、剣が先なの? 本が先なの?」という疑問は、無粋というものだろう。
全体像が分かりにくくなってしまったので最初に戻ると「本のキャラクターが本を開く」というパラドックスがエネルギーを生み出しているかもしれない、という話。循環構造は相互依存しているので、片方(メギド)が欠けてはもう片方(ワンダーワールド)は維持できないのだ。

 

 

これは多分僕の問題なんだろうけど、作者の"やりたいこと"がビシバシ伝わり過ぎる(気がする)もんだから、なんだか作品をすべて理解して支配したかのような錯覚に陥ってしまう。たまには全く予想外のことが起こって「分からん! でもなんか面白い!」みたいな感覚を久々に味わいたい。
アクションや映像表現に関してはまだそういう言語化されてない部分が残ってて、毎度楽しませてもらっている。でもこれって結局新しいフォームが出てくるとかそういうイベントありきのことなので、それらがなくなったときに退屈しないか今から心配。正直1話はブレイブドラゴンしか出てこないから若干退屈だったのよね。
作品を見てる間よりも、その後で色々調べて考えてる時間の方が楽しいって、それはなんか本末転倒じゃない。

 

今週の本

『AIは「心」を持てるのか』
ゼロワン放送中、AIについての理解を深めようと思って図書館で見つけた一冊。ネット検索ではヒットしないような掘り出し物があるのは図書館ならではの魅力だよね。人気とか話題に関係なく"そこ"にある。
内容は正直「読んでくれ」としか言えないけど、AI……ひいては人間の心のありかたについて、普段からなんとなく感じていることを的確に言葉にして、更にもう一歩先を見せてくれる良書。
ゼロワン視聴者にはもちろん、そうでない人にも胸を張っておすすめできる。これを読んだ上でゼロワンを見てもまた見え方が変わってくると思うしね。
僕の感想記事も終盤あたりは本書の内容をフィードバックして書かれてるので、見返す際はぜひお供に。

 

セイバー/聖刃感想一覧

前話
仮面ライダーセイバー 第3章「父であり、剣士。」 感想

次話
仮面ライダーセイバー 第5章「我が友、雷の剣士につき。」 感想

仮面ライダーセイバー 第3章「父であり、剣士。」 感想

キャラクター

 神山飛羽真
・一晩で書き上げてくれました
銀河鉄道の夜』はいつも通り読んだことがないのだけど(その内「セイバーに出てくる本まとめて読んでみた」みたいな記事を書くかも)、ジョバンニという名前は聖書の著者として知られるヨハネに由来するものらしい。前回の"ジャック"がヤコブの変化だという話と同じような感じ。そのヨハネさんはキリストに弟子として愛されており、十字架にかけられた際もそばにいたとされている。これは15年前に先代の炎の剣士が十字の剣を突き立てたシーンと被るものがあるし、更に彼はその記憶を本として執筆している訳なので、イメージソースと見て間違いない。1話でした「赤い竜と白い馬に乗った救世主」の話が載っているのも、ヨハネの黙示録だしね。アポカリプスというのはギリシャ語で「覆われていたものを外し、暴露する」みたいなニュアンスを持つ言葉らしい。モヤのかかったおぼろげな記憶を明らかにするような意味も込められているのだろう。

・善意ゆえの悪意
本なんて興味ないと言うそらくんに、本がいかに素晴らしいかを教えると約束する飛羽真。ヒーローものって意外とそういうこと多いけど、セイバーは特に宗教的な側面が押し出されてる作品なので、自然と宗教勧誘みたいに見える。当人は本気で「それが人生を良くしてくれる」と信じている訳だから本当に善意の塊なんだけど、興味ない人からすると迷惑以外の何ものでもない。中でも"啓蒙"的な色が出始めるとどうしても迷惑度は上がるよね。「これを信じなければあなたは最後の審判で地獄に落とされるんですよ!?」と言われても、はぁ……って感じ。
でもこれって他人事ではなくて、極論を言ってしまうと「マスクしないとコロナにかかりますよ」ってのも同じようなもんで、世論や有識者の意見を信じるか信じないかは本来自由のはずなんだよな。「コロナなんて嘘っぱちだ! 政治家が自分の汚職から目を逸らすために仕組んだ陰謀なんだ!」と本気で信じている人もいる。「あなたはそれでいいかもしれないけど、マスクしないと周りも迷惑するんですよ」と言う理屈をかざそうものなら、もしも「私が信じるだけじゃ救われない、全人類がこの宗教を信じないと神は許してくださらない」なんて教義の宗教があった場合、ブーメランとして返ってくる。その人たちにとっては無宗教である(コロナを事実だと信じない)ことはそれだけで「自分たちを地獄に落とさんとする(≒コロナに感染させようとする)悪」ということになる。Ah 沈まぬ太陽 失くす世界で 問われるのは、何が正しいかじゃなくて、何を信じるのかだろう……。

また、そらくんが本を開いたが故に悪いことに巻き込まれるというのは、俗に言う"有害図書"の比喩にも思えた。僕も駅かどっかで一度有害図書ボックスというのを見かけたことがあるんだけど、本の虫としてはなんだかとても悲しくなってしまった。なんというかこう……その中にあるのが一体どんな本かは知らないけど、そこまで言うことなくない? そりゃあ僕だって不意に性的なコンテンツが目に入ってきたらかなり不愉快だけど、だからって本屋からなくすべきだとまでは思わない。でもそういう急進的な主張をする人は、十中八九そういう本によって深く傷付いた経験を持ってる人なんだろうから、そこまでしようとは思わない僕なんかにはその気持ちを計り知ることはできないのだろう。図書館戦争ってあったなぁ。表現の自由を脅かすメディア良化委員会ってのと戦う話。「本は悪くない! 人間の暮らしを豊かにする、夢のメディアなんだよ!」「本は人を傷付ける……人類の敵だ!」。
仮面ライダーはテレビの中の絵空事なので、震災が起きてもウイルスが猛威を奮っても助けてはくれない。でもそれを見ることで楽しくなったり新たな考え方を得たりして、心を救ってくれることはある。それって宗教も、そして本も同じことだと思う。
あ、ちなみに"本の虫"という表現はセイバーの仮面ライダー要素のひとつなんだろうね。
(参考:"純粋"と呼ばれる子供はサンタや仮面ライダーの実在を信じているのか?)

 

 尾上亮
・豪放磊落
1話にて、ゴーレムメギドは「人につくられしもの」という点でヒューマギアとニアリーイコールだと話した。この視点を継続するなら、バスターがそれを倒すことには自然と「子殺し」的なテーマが付加される。殺すまではいかずとも、飛羽真が作者として「キャラクターに自我など要らない」と主張するように(玄武の尻尾は蛇なので、龍の彼とは通ずるところがある)、彼の場合は「子供は親の言うことを聞いていればいい(by滅)」みたいなニュアンスだろうか。飛羽真に「黙ってろ」「引っ込んでろ」と言ったりして人の話を聞かないような印象も強い彼には、さもありなん。実際、そらくんが「バスターのおまけ」では片付けられないほどの個性を発揮する未来が僕には見えない。構図が似ている大介とゴンには別れるエピソードもあって、親代わりだから仕方なく一緒にいるのではなく、れっきとした本人の意志で共にいることが強調されている。
せっかく出てきた大秦寺が、尾上のでかい声に嫌な顔をしてすぐさまどっか行ったのも細かいけど面白かった。彼は整備メカニックとのことなので、おそらく日頃から武器を荒々しく扱って平気で傷を付けることに苦手意識を覚えているのだろう。"愛剣"なのに大事にしない、もしかするとそういうところがそらとの関係にも出ているのかもしれない。倫太郎に指摘されてた「子供を戦場に連れて行く」というのは、側にいて守るためだと考えたら理に適ってる面もあると思うのだけど……まさに今回、頭に血が上って危うくセイバーとブレイズまで巻き込みそうになってた訳なので、どちらかと言えば倫ちゃんの方に分がある。抱っこされてるときのそらの顔が苦笑いに見えるのは、演出なのか演技力不足なのか微妙なところ。
今回そらが失踪したのも、元を正せば尾上の監督不行届だと言える。本しかないからって理由でノーザンベースが好きじゃないのに、本屋に置いてくってのも微妙な選択だしな。結果的にはジオラマに興味を示していたとは言え、もし尾上が「本が好きじゃない」ってことをきちんと把握してないのだとしたら、表面的にはいい親子でも、本質的にはコミュニケーション不全に陥っているということになる。

でも制作陣がゴーストのコンビなことを考えたら過去の設定は凝ってそうだし、尾上は多分カリバーや先代の炎の剣士と仲が良かった……か、少なくとも同僚ではあったのだと思われる。もしいい関係を築けていたなら、今のところ粗暴な面が目立つ彼にも結構いいとこあるのかな。飛羽真に当たりが強いのは、その先代との友情が前提にあった上で、小説家なんてナヨナヨしたやつに決まってる、みたいな先入観でガッカリしたってことなんだろう。あと「ひよっこは手を出すな」ってのは、二度とカリバーみたいな裏切り者を出さないために自分一人で戦えばいいと思ってるのかも。
バスターの耳に当たる部分は"カナメロック"という名称で、当然要石がモチーフになってるんだけど、これというのは地震を起こす大鯰……古い伝承では"龍"を鎮めるために埋まっているものらしいので、彼もまた倫太郎と同じく、飛羽真が裏切りそうになった時のストッパーとして機能する役割を担っているのかもしれない。

 

 富加宮賢人
・キャラ被ってる
仕切りたがりとのことだけど、ぶっちゃけ今のところみんな微妙にキャラ被ってるよね。飛羽真も割と勝手に話進める上に「〜は君のいいところだ」ってめっちゃ上から目線だし、倫太郎もエリート故かナチュラルに周りを見下してるというか、自分が正しい前提で「話聞いてなかったの?」とか言っちゃうタイプだし、尾上さんは言わずもがなの問答無用マン。個性を出そうとするとどうしても我の強い自分勝手な人物像になっちゃうんだろうか。それでいて激しい諍いは今のところ起きてないのが面白いとこだけど。みんなあんまり他人に興味ないのかな。
飛羽真が忘れている"もう一人"……メギドの項で後述もするけど、ワンダーワールドに取り込まれたら最後、人間も動物も街も、現実世界では完全に"なかったこと"になってしまうのかもしれない。だとしたら15年前の事件や世界消失現象が世間に知られていないのも頷けるし、なんなら賢人も少女のことはうろ覚えで、ソフィアが似てることには気付いてないのかも。
カリバーは彼の父親っぽいね。僕はてっきり倫太郎の父親かと思ってた。だってブレイズとカリバーって顔がそっくり(\﹀ \︾ )じゃん? カムパネルラとジョバンニは父同士も親友とのことなので、先代の炎の剣士がもし飛羽真の父親なら、カリバーとは友人だったらしいことと合致する。

 

 須藤芽依
・消えたエクレア
3話の芽依は1,2話より見やすい感じになってて、このキャラはこういうとこが魅力なんだなってのが少しずつ分かってきた。相変わらずオーバーリアクション気味ではあるんだけど、ユウキくらいのところに収まってたというか。そら君への対応を見るに、美味しいものはみんなで共有するのが好きなタイプなんだろうね。ワンダーワールドの写真を撮ってたのも、SNSでシェアするためなのだとしたら噛み合う。
3人で食べようと買ってきたエクレアを賢人が勝手に食べたものだから倫太郎は一人食べそびれてしまうのだけど、芽依が自分の分がなくなる心配をするときにまず責めたのが飛羽真なの笑っちゃった。イケメンだったらOKなのね、親しい方が責めやすいってのもあるだろうが。

ただ、前回の最後ではエクレアは全部で5つあるので、賢人,飛羽真,芽依が1つずつ食べただけではなくなるはずがないのに、賢人が飛羽真の記憶を訝しむ裏で、倫太郎が「さ、最後の……」と言っているように聞こえる。1つ目が食べられたときも指で3つ数えて「残り2つなら買ってきた芽依さんと仲の良い飛羽真くんが食べて、僕が食べる分は……」みたいな顔してるし、あの場で全部なくなってしまったように思える。……ニーナとアレキサンダー、どこに行った?
これ、果たして"ミス"なのかね。2話時点で考えても3人分ということで3個あれば普通に成立するのに、わざわざ5つも用意して次の話と矛盾するって、そんなバカな話がありますか。芽依が自分の分だけ多めに買ってきた可能性はあるけど。パイロット(1,2話)とセカンドパイロット(3,4話)は並行して撮影されることが多いというのはよく聞く話だし当然監督も違うので、同じ一連のシーンに見えても全くの別日にわざわざ撮り直してるのだとすれば、そういう行き違いは有り得そうではある。でも、そういう事情を誰よりも分かってる制作陣が敢えて撮影の組を超えて連続性の強いヒキを作ってる訳なんだから、ジオウのバスジャック編みたいにいつもより気を使って作られてるのではないかと思う。逆にそうでないなら「子供向けだからこそ本物を見せる」という姿勢と噛み合わない。確かに本筋とは全く関係ないけど、エクレアの数くらい別にいいっしょ、という妥協をこの最序盤で見せたのならそれはどうなのかと思う。
撮影が終わった段階でも、編集の時点であの箱の中がアップになるカットさえなくしてしまえば、エクレアのなんたるかは伝わりにくくなるが、筋は通る。可能ならそのシーンだけ撮り直せればもっといい。最悪芽依の役者さんなしでも、どアップにすれば成立するし。

本当にただのミスという可能性も勿論あるけれど、ここではもし意識的にやっているとしたら……という仮定の話をしてみたい。僕は当初からエピソードの単位が"章"なのがずっと気になってて、これだと1話1話の隔たりがとても大きく感じるのよね。最近だとビルドなんかが16話までを"第1章"として銘打ってたし、"1節"ほどではないにせよ"1話"と比べたらぶつ切り感が否めない。
ここで思い出すのは、ライドブックの絵柄。ソードライバーに挿して抜刀すると絵が繋がるというギミックがあるけれど、よくよく考えたらこれって変な話で、『ブレイブドラゴン』と『ジャッ君と土豆の木』は別に続き物でも何でもない無関係の本なはずなのに、どうして繋がるのか。そもそもの話、ドラゴンジャッ君やドラゴンピーターのように両端に挿した時が顕著だけど、厳密に見れば絵柄には結構な隙間が空いてて、ちょっと斜めから見てようやく自然になるかなってぐらいなのよね。これは(もしかすると設定的には続き物かもしれない)ライオンファンタジスタでも同じで、正面からだと微妙にライオン戦記の腕がチラ見えして、お世辞でもなければ「綺麗に繋がってる」とは言えない。でもそれを見ないふりして繋がってると"了解"できるのが、人間の頭の面白いところ。

ある作品に対して、「実質〇〇」と言って全く別の作品と同じようなもの、或いはその続き"として見られる"、と評すことがある。例えば「ゼロワンは実質デトロイト」とか、「スパイダーマンは実質仮面ライダー」とか。
『セイバー』がそういう人間の認知パターンを意図的にテーマに組み込んでいるとするならば、今回のエクレアの件は「1話1話が厳密に見たら繋がってない」「でも視聴者は気付かず、或いは気付いてもなお繋がってることにする。不思議だよね」というひとつのギミックとして捉えられる。
僕がこんな風に思った理由はライドブックの絵柄だけじゃなくて、OPの後に本当に突然ゴーレムメギドとのくだりが始まったことも関係してる。前後の関係を重んじるなら駆け足どころかそれこそぶつ切りですごく不親切なんだけど、自覚的にやってるんだとしたら合点がいく。こちらは「ロゴスから出動要請があったのかな」という脳内補完をすれば普通に繋がるものの、賢人がいなくなってたのが謎。飛羽真についてソフィアに報告しに行ったのかな?
そういえばジオウでも3話で、ゲイツの必殺技音声「フィニッシュタイム! "ドライブ!"」がビルドドライバーのものになってるなんてことがあったな。正直「何があったらそんなミス起こるの?」って感じなので、僕はあれも本当にミスなのか疑ってるけど。横で我が魔王がビルドアーマー使ってるし、ソウゴの記憶が曖昧で「こんな感じだった気がする!」ってな感じで現実が改変されてしまったという遊び心なのでは、と。
例え違ったとしても、そう思った方が面白いじゃない?

 

 ハンザキメギド
山椒魚
モチーフはオオサンショウウオ。今でも生息してるらしく、動画が結構YouTube上にあがってた。正直キモい、けど時々可愛くも見える。キモいのがそのまま可愛さに繋がる"キモかわいい"とはちょっと違う。
英語では"サラマンダー"の名が冠されていて、炎の龍たるセイバーを思わせる。バスターが倒した、というのも合わせてね。
有名な井伏鱒二の小説もあって、短いので読んでみた。こっちは絵がないのですごく可愛かった。穴ぐら中に閉じこもっていたらいつの間にか出たいと思っても出られなくなってしまい、そのうち寂しさから"悪党"となり蛙を道連れに閉じ込めてしまうのね。今回のメギドは人里離れた森の中にこっそりワンダーワールドを展開して、人間だけを少しずつ転送して閉じ込めていく(蛙のように)というなかなか凝った作戦を展開しているんだけど、ライダーたちは尺の都合であっさりワンダーワールド見つけちゃったのがもったいない。「世界消失現象が起こってないのに何故か人々だけが失踪していく!?」とビックリさせる演出があったらハンザキメギドのインパクトももう少し強まったろうに。
1話でワンダーワールドについて「現実逃避は楽しいけど戻れなくなったら怖い」という話をしたけれど、"山椒魚"は本当にそんな感じ。もしかするとメギドというのは、完成してしまったアルターライドブックによってワンダーワールドから出られなくなった人間や生き物の成れの果て……なのかもしれない。
(参考:ワンダーワールドの両義性 セイバー 第1章 感想)

 

 

人間には理性があるのに、何故未だに子供を生み続けるんだろうね。発展途上国というか、戦争やってるようなとこでは出生率が高いってたまに聞くけど、マジで全く気持ちが理解できない。なんでそんな辛い世界に産み落とすのさ。めちゃくちゃ悪い言い方すると、野蛮なのかなぁとか思ってしまう。メロンが食べたくて売春した子がいるんだってさ。あんたなんで嘘ばっか書いてんだ? 嫁と子供を食わせるための記事? じゃあしょうがねぇ。

 

今週の本

よつばと!
子作り願望こそない僕だけれど、子供は人並みに好きで、とても可愛いと思う。それとは別に、人間の心や理性というものの発達にも興味があるので、そういう意味でも成長を観察をしたいと思うことがある。
本作は未就学児のよつばを中心に、その周りで起こる日常やイベントを丁寧に描いていく。子供の描写としてリアリティがあるのかどうかは毎日子供を見てる訳ではないので分からないが、作中でも「変な子」と言われているので誇張されてる部分はあるにせよ、観察的な視点で読んでもとても面白い。特につくつくぼーしのエピソードが好きですね。何も考えずに笑いたい時にもおすすめ。物事の定義がどうとか理屈がどうとか、そんなものに意味はないんだなってなります。

 

セイバー/聖刃感想一覧

前話
仮面ライダーセイバー 第2章「水の剣士、青いライオンとともに。」 感想

次話
仮面ライダーセイバー 第4章「本を開いた、それゆえに。」 感想

ヘボット!感想一覧

本編

ヘボット! 1話「ヘボッと生まれて屁・ボーン!」 感想
・子供が下ネタを好む理由
・遍く8と11次元

ヘボット! 2話「ネジ屋 対 ボキャリーマンズ!」 感想
・ボキャバトルはスペック勝負
・MCネジーの目

へボット! 3話「コワコワ〜、はじめてのコワ話!」 感想
・パロディと意味不明ギャグ
・誰かからライバルへ
オリジナルコンボつくってみた

ヘボット! 4話「ヘボ流・ネジタネの育て方!」 感想
幼児語の意義
・ネタバレの是非
・集団誘拐

ヘボット! 5話「ヘボット、いなくなったってよ」 感想
・100年後のジル
・キャミソール
・グチッターの謎

ヘボット! 6話「激走! ボキャバトルレース」 感想
・思考整理は自転車で
・マカロニック
・飢饉にはジャガイモ

ヘボット! 7話「ヘックションでフエフエのヘボ」 感想
・志望校
LGBT問題/心の性
リア充って言うけど

ヘボット! 8話「決戦! ノリノリヶ島」 感想
・縦ノリからの?
丑寅混ぜんな!
・世代交代

ヘボット! 9話「へボットは赤ちゃんバブ」 感想
・"助けられてあげる"
・心理学で言う脱錯覚
・AIは付喪神

ヘボット! 10話「土星は地獄だ!」 感想
・ボキャボットの分類
・不寛容のパラドックス
・グチッターを見よう

ヘボット! 11話「奇怪・呪螺子島」 感想
・キャラ崩壊と忘却
・カルピスソーダ取引
・ゾンビ

ヘボット! 12話「へボットのアレがはれた」 感想
・あわてんぼうのチャチャチャ
・プラス,マイナス,イコールの記号
・シメール派とユルメル主義

ヘボット! 13話「ジョリポロリ」 感想
・クリスマスなのにお盆じゃねーか!
・バブルで消えたあぶく銭
・男でもなく、女でもなく、

ヘボット! 14話「ヘボヘボ漂流記!?」 感想
・次元ネジがゆるむとどうなる?
・ボキャネジが先かボキャボットが先か
・マリオは何故キノコで強くなるか

ヘボット! 15話「ネジが島クロニクル」 感想
・時流の乱れ
・ネジ王とヤーヌス
・何故バトル禁止?

ヘボット! 16話「キケン! ボキャ美のターン!」 感想
・この喧嘩、悪いの誰ですかー
・世の中優しい人もいる
・ヘボさの良さ

ヘボット! 17話「ネジささる、ゆえにヘボあり」 感想
・無意味と有意味の間
・DXヘボット
・"可愛い"が孕む差別性

ヘボット! 18話「ネジル、学校に行く」 感想
・五感は精神には非対応
・ゆるませてしめる巨視的虚無感
・ユートくんとMCネジー

ヘボット! 19話「ヨロシク、湯煙ロクンロー」 感想
・自分の知らない自分
・玩具の売り上げ事情
・終わらない夏休み

ヘボット! 20話「ヘボ流・キッチンバトル!?」 感想
・たっくん母の無意識的意味
・多様な聲の形
・食べ物の輪廻

ヘボット! 21話「時をバグるピコピコ」 感想
・昔話における隣の爺さん
・ゴミの押し付けあい
・現実と虚構、その境界

ヘボット! 22話「ライネジング・サン」 感想
・47話に似てる?
・メタデジャヴ
・許す優しさは罪

ヘボット! 23話「ねらわれたネジ魂」 感想
・おはぎってどういう意味?
・トキトキネジの仕組み
・アンチネジ軍とは

ヘボット! 24話「兄×弟」 感想
・ヴィーテと次元ネジ
・掛け算の順序問題
・理系の哲学

ヘボット! 25話「ツルっと落ちた流れ星」 感想
・恩返しと遵法精神
・コンビで支え合う
・流れ星と縁起物

ヘボット! 26話「プリンス・オブ・いもチン」 感想
・モチーフに目を向けよう
・ネタ帳
ドラえもんとヘボット

ヘボット! 27話「へボット、ペケット 地獄めぐり」 感想
・子は親を選ぶか
・ゴッドネジとナット
・のりたまとおにぎり

ヘボット! 28話「さらば、愛しのモエカス!」 感想
・求められているか
・否定的意見の必要性
・うねうね

ヘボット! 29話「イインダヨ〜、スゴスゴイインダヨ〜」 感想
・「契(ちぎ)る」
・次元院とアニメのクール
・マンドラと卿

ヘボット! 31話「インネジクタス」 感想
・決して屈しない(インビクタス)
・カメラ越しにしか存在しない生き物
六芒星(スゴスゴ)とアスタリスク(ヘボヘボ)

ヘボット! 32話「ユカイYOUかい怪盗かい!?」 感想
・ワトソンのミドルネーム
宇宙兄弟べるぜバブ
・抑圧された無意識

ヘボット! 33話「ハミガキしようぜ 牛肉、ミソッパ!」 感想
・ソフトクリームと記号的表現
・こぶとり爺さんの鬼
・ミソッパゲロッパフラクタル

ヘボット! 34話「流さネジられて」 感想
千夜一夜物語
・ララランド
・家出

ヘボット! 35話「インスマ浜の呼び声」 感想
・ネジが島の位置
クトゥルフとBTTF3
・35話は浮いてる

ヘボット! 36話「恋のヘラがえしがえしがえし」 感想
スターシステム
・テキーダのありんす
・毒を以て毒を制す

ヘボット! 37話「電脳鼠はボキャボットのダメを見るか」 感想
・道具が意志を持つな!
・繰り返すポリリズム
・あたまとり

ヘボット! 38話「12体そろったらエライ事になった」 感想
・最終合体グレードヘボゾード×◯
・兄と弟、陰と陽
・ブンメェー開化の音がする

ヘボット! 39話「王妃ナグリ、帰還」 感想
・ヘボットのグローブ
・母と愛憎
・サートゥルヌスと安心院

ヘボット! 40話「弁護士ボキャ美の法廷ファイル!」 感想
・法制度と刑罰
・鼻をつまむ正義の女神

ヘボット! 41話「ヘボ流・大脱走」 感想
・ユーコさんていくつ?
・犯罪者も人間
・ジョリジョリバード♪

ヘボット! 42話「我々はネジである」 感想
・十二支の謎
・ヘボット配信の盛り上がり
・不当な手段による革命

ヘボット! 43話「ネジ拳ボキャフェスinネジが島」 感想
・すり変わる空っぽ王子ネジル
・新カルテット
・内と外の境界は幻想

ヘボット! 44話「劇場版ヘボット!って、ナニそれ?」 感想
・次の階層ってなんだろう
・ネジルとヘボット
・他者との繋がりと意味の源泉

ヘボット! 45話「ギザギザ・ザ・ネジ山」 感想
・魂なき言葉
・好きなところ
・何故? の行方

ヘボット! 46話「はたらくネジさん」 感想
・お休み

ヘボット! 47話「すべてがNになる」 感想
・The perfect insider
陰謀論
・ものを"数える"ということ

ヘボット! 48話「ネジが島さいごの日」 感想
・ネジ柱が時間、ゴッドネジが空間?
・チギルのプロテクト
・9は神か人か(体の穴)

ヘボット! 49話「さよならヘボット」 感想
・言語と宇宙の収縮,膨張
・階層と周回の違い
・レベルをカンストするとどうなる?

ヘボット! 50話「にちようびのせかい」 感想
カニバリズム
・誰も傷付けない
天王星代表

 

 

関連作品

仮面ライダーシリーズ

三葉は宇宙人?『君の名は。』 感想

夢への寄り道と現実回帰『ラ・ラ・ランド』 感想

現実と妄想、フィクション。そして自分『ビューティフル・マインド』『Serial experiments lain』 感想

 

それ以外の言及

転売は何が悪い?

ジオウにおける世界観/世界線の考察というか想像

玩具についての雑談(1/2):ジュウオウキングが好き

仮面ライダージオウ EP27「すべてのはじまり2009」 感想