やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

ぼくのだいすきなマリオネット『帝一の國』 感想

元々は同じ古屋兎丸さんの『女子高生に殺されたい』を試し読みして面白そうだと思ったものの、ブックオフで何度か探したけど見つからなくて、確か『幻覚ピカソ』も知り合いか誰かに紹介されたことがあって気になってたんだけど結局手を出せてなくて、そんな中で今作がテレビ放送されたから録画したという訳なんだけれど、今は現行のゼロワン/キラメイに加えて過去作(タイム/クウガ,シンケン/ディケイド)の感想まで並行して書いている関係上、やはり気力が足りなくて放置気味だったのだが、僕がそこそこ昔から読んでいるブログ主の結騎さんがコロナによる自粛云々の文脈でオススメの映画を紹介なさっていて、その中でS評価まで受けていたのが最後のひと押しとなり、ようやく腰が上がった。

いきなり余談だが、最近読んでいる本の影響で「いかにねじれさせずに文章を長くするか」というゲームに密かにハマっており、上の文章は文字数にして300字ほどもあるにも関わらず最後まで句点が付かない。その本というのは、あまり体裁を気にせず、とにかく、意味さえ伝われば良い、といった感じで、この一文のように読点が多く、読みやすさが多少なり犠牲になってしまっているのだが(マネ終わり)、僕のは自分で言うのもなんだがギリギリ読みにくくならない程度の、なかなかいい線を付けているのではないか。達 成 感 。
まぁ、ブログの冒頭からあの長文を一息で読ませるのは読者のことを考えるとどうなんだとも思うけどな。

 


さてここからが本題だが、なかなか面白かった。
まずもって、エンタメとして演出するにあたっての"構図"がとても分かりやすくつくられている。
「高い家柄と天才的な頭脳を持った政治家(の卵)たちを、我々視聴者がゲラゲラ笑う」……この舞台設定だけで既に成功していると言っても過言ではないかもしれない。みんな大好きでしょう、偉い人を馬鹿にするの。
シン・ゴジラ』を見て、会議ばかりで何もできない政府の無能さを風刺していて面白かったと言うような人がいることに僕は驚きを禁じ得ないんだけれど、意外と多いのよね。
今のコロナ対策や娯楽作品に対する批判にしたってそうだけど、僕は基本的に「自分より頭のいい人たちが知恵を絞ってるんだから、気付けないだけで何かしらの理があるに違いない」と無根拠な信頼を寄せている。
何故「自分に理がある」と信じる方を選ばないかと言えば、まぁ簡単に言えば間違ってたときに恥ずかしいからだ。
政治家さんもそうだろう。恥をかきたくないし、間違っていると思われたら信頼を失ってしまう。だから万が一のことを考えると下手に動けない。民衆による無責任な批判こそが、彼らを雁字搦めに縛り付けているのではないか。
「正体不明の怪獣が出た可能性があります」なんて馬鹿な話、一体誰が信じるというのだろう。あ、シンゴジの話ね。


三権分立や民主主義などのシステムは、明らかに互いを縛り合って動きを牽制するベクトルの力を持っている。それらを否定するのでなければ、対応の遅さを根本的に否定することは難しい。
少なくとも僕は、僕個人の態度としては、物事に否定的な態度を取る際には、なるべく下調べをするなりじっくり考えるなりという努力をして、無責任や気軽などという単語からは離れるようにしたいと思っている。一応は「感情論ですよ。まともに取り合う必要ないですよ」などと表示するという、逃げ道も残しているが。
東浩紀さんなんかは、彼の個人的立場としてと言うよりは、民衆が民主主義を選ぶならば原理的必然として、という文脈で、むしろそれを推し進め、もっと気軽に人々が専門家たちにツッコミを入れられるメディアをつくるべき、みたいなことを仰っていた。
彼の主張で最も特筆すべき点は、「その低レベルなツッコミを"反映"しなくてよい」ということ。勿論、求心力欲しさから安易に反映してしまうポピュリスト(今で言えば簡単に消費税廃止とか掲げちゃう層ね)も出てくると思われるが、それによって短期的には混乱しても、長期的に見れば無理な政策は当然失敗する訳なので、結果的には淘汰されるだろうとのこと。
更にそのコミュニケーションの中で、専門家と民衆双方のリテラシーの向上を期待するというのも、なかなか現実味があるし面白い。相手が真に受けないという前提があるのなら、「無責任な発言の責任」なんてものは存在しなくなり、世界がもっとダイナミックものになるかもしれない。

 

抽象的繋がりを頼りに話を進めてしまうのは僕の悪い(?)癖だ。ここからはもう少し劇中の事実に寄り添った話をしようと思う。
ローランド陣営に"駒"、森園陣営に"弾"という人間がいるのは、決して偶然ではなかろう。これらの言葉はそれぞれ相手側の陣営を象徴するものであり、ちょうど太極図の点のような役割を担っている。
森園の武器である「人を駒のように使える人望」、そしてローランドの武器である「人を従わせる実弾(金)」。こうして並べてみると、実はこの2者にはそれほど大きな違いはないように思える。
知り合いの日常会話の中で、「愛が貨幣になればいいのに」という話題が出たことがあった。そういう発想に至ること自体が、僕はとても面白いことだと思うんだよね。しかし本当にそうなったら、かなり生きづらい世の中になりそう。ハンバーガーが食べたいだけで、くれる人を愛さなきゃいけない。或いは自分を愛してくれてる人からじゃないと貰えない。大変過ぎる。
とかくお金というと特別視されやすい。プレゼントでお金をあげるのとなんらかの実物をあげるのとでは、相当に意味が変わってしまう。モノだって結局は気持ちを伝達する媒介物に過ぎないのに、この一次媒介と二次媒介の隔たりがとても大きい。


この人望というのが何に由来するかというと、弾で言えば竹内さんの顔の良さであったりだとか、言動のかっこよさみたいなものが挙げられるのだと思う。僕は素直に言えば彼のことをかっこいいと思ったけれど、どうも彼は帝一にも指摘されていた通り「自分の言葉に酔ってる」ような印象を受ける。というよりは、見栄えが良くなるようにセルフブランディングしているフシがある。
クライマックス手前のローランドvs森園戦、セリフを聞く限りどうやら投票の順番は決まっていなかったらしいあの場において、彼はわざわざ隣の奴に先に行くよう言ってまで最後に投票することを自分で選んだ。にも関わらず「ここまでの投票でイーブンなのだから、自分の一票で結果が決まってしまう。自分はそんな重要な役を負える器じゃない」って、言ってしまえばおかしな話なんですよ。
だって、名前忘れたけどその隣の奴は森園陣営な訳で、順当に行けば順番など関係なく、白票を出せばイーブンにできるはず。仮にそいつが裏切る可能性を考慮していたのだとしても、その場合2票差が付いてしまうので、均そうと弾が森園に入れたとしてもローランドが1票優勢の状態で生徒会長に判断が仰がれるので、良くて引き分け、悪くてローランドの勝ちだ。
つまり、弾はイーブンになりそうなことを読んで、敢えて自分をかっこよく見せるために演出したのだと考えるのが自然だ。別にそれが良い悪いという話ではないけれども、とにかくあれが"素"ではないことは確かだ。
そんな「つくられた道具としての人望」は、果たしてお金とどう違うのか。元々、森園はもちろん他の誰もが、弾のことを「引き入れれば票が入る人気者」という打算的な見方をしていた。結局これらは使い方……もっと言えば"見え方"が違うだけで、根本的には同じものなのだ。
お金を貰った嬉しさと、好きな人の応援ができる嬉しさ。投票にあたってのこの2つの動機に、一体どれほどの差があるというのだろう。

 

これまでも仄かにキーワードは散りばめてきたが、改めて本作の背骨構造について軽く言葉を紡ごうと思う。
ピアノを弾きたかった帝一と総理大臣になりたい帝一、そのどちらも蔑ろにせず、どちらも嘘なんかじゃなく歴とした彼を構成する要素のひとつだと肯定するかたちで幕を閉じる。
概ねのところは同意見なのでこちらを参照していただきたい。

www.jigowatt121.com

その上で僕が付言したいのはただひとつ、"お互い様"だ。
この記事ではあくまで「ラストシーンでのどんでん返し」に話の重心が置かれているので言及されていないが(或いは原作を踏まえた上だと見方が変わるのかもしれないが)、全体としてこの『帝一の國』という作品を語るならば、この要素は不可欠だ。
確かに帝一は自らの策でもって人民が自分を支持するよう仕向けた。だが、彼の行動はあくまで「人民の求めるリーダー像」に従った故のことだ。友情を重んじる人が良しとされるから、それを演じた。彼は自称していた通り「みんなの犬」になったのだ。
帝一がピアノを始めたのは、元を正せば"母に似た"結果としてのことだった。つまりマリオネットというのは、帝一自身のことも指している。彼は「他者の期待に応える」ことに喜びを覚えているが故にピアノを、そしてマリオネットという曲を好きになったし、民意を反映する仕事である政治家にも同様の魅力を見出した。
人民は帝一が自分たちの意志を代表し代弁していると思う一方で、帝一もまた人民が自分の意のままになっていると満足感を得る。「帝一と人民の"目指すところ"が一致」しているからこそ、この構図は成立する。
あのラストシーンは、彼が父と母それぞれの願いを汲み取り調停し、バランスの取れた"合いの子"としての自己を確立することを通して、政治家としても相応しい人物像になったことを意味しているのだ。