やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーゼロワン 第21話「異議あり! ソノ裁判」 感想

キャラクター

 飛電或人
・確か13話で一度だけ「不破さん」って呼んでたけど、そろそろ「なんで名前で呼ばないの」って声が僕の目にも自然と入ってくるようになってきた。
二次創作が盛んな界隈では呼称表なんてのがよく見られるけど、実際人の呼び方って意外と個性とか関係性が出るよね。
僕は昔からほとんどの人に「やんま(くん/さん/たまに氏)」という愛称で呼ばれてきたし名乗ってきたんけど(まぁ最近は関わる人の年齢層が上がったのもあって普通に苗字のことも増えてきたが)、何故か僕が他人を呼ぶときは苗字のことが多いのよね。愛称の場合、かなりの確率で頭文字を伸ばす傾向がある。「なーさん」とか「ちーさん」みたいな。なーさんっていたなぁ……。小学生の頃、あいつのシール欲しさに("ノリ"もあるけど)クラスメイトのパシリみたいなことやってたっけ。
苗字呼びって、あくまで名前や愛称と比べるとだけど、屋号みたいな"所属"としての色があるよね。
最近の唯阿なんかは特に「ZAIAの人」という所属以外の特徴が消えてるよな、なんて冗談はさておき、距離を感じるものではある。ゼロワンにおいてこの"距離"はキーワードだって話はもうしたのでこちらをどうぞ。
(参考:仮面ライダーゼロワン 第10話「オレは俳優、大和田伸也」 感想)
・今回、或人は被害者の有罪/無罪という問題を棚上げにして、「ZAIAが反則行為(レイダー関連)をしている」という無関係なところでこと(お仕事勝負)を解決しようとしている。
「以降はこんなことやめてくれ」って意味とも取れるが。
前者として解釈した場合、なんでこれまでしてこなかったのかについては、前回言ったように「ヒューマギアも暴走してたから」で通るとして、或人の心情としてどうなのかという風に考えてみると、単純に目の前の不正に食って掛かってるだけなのか、負け続きだから五番勝負をもう辞めたい(或いは今回は不戦勝ということにしたい)という目論見があるのか、両方か。

 

 天津垓
・唯阿「有罪判決が下れば我々の勝ち、無罪ならそっちの勝ちという訳だ」
随分と極端なゼロイチだなぁ。確かに無罪というのはかなり大きなことだけれども、一口に有罪/無罪と言っても色々ある。
証拠不十分での消極的な無罪ときちんと立証された無罪では意味は違うし、当然ながら証拠捏造なりなんなりといった詭弁的な有罪とそうでない有罪も違う。
もしZAIA側がそういった不正を容認していないなら、まぁこの大雑把さはむしろ飛電の利なのでいいけども、ここまできてよもやそんなはずはないもんな。
飛電より規模も大きいみたいだし、ゼツメライザーを使ったり殴ったりなどといった蛮行も、ある程度なら情報操作によって隠し果せる自信があるのかもしれない。
・銃刀法違反や私的制裁(暴行)について口を出すのは無数の特撮作品を敵に回す行為と言っても過言ではないので、いちいち取り上げません。実際にそれらを行使してるのもおおよそ正当防衛の範囲であることが多いし。
・一時的な感情の高ぶりで暴走してしまう或人より、おそらく自覚しながら淡々と理性的に犯罪行為する天津の方が怖い気もするけどね。前者は程度問題とはいえ誰でもあり得ることだけど、後者はいわゆるサイコパスでしょ。
説得可能性という視点で見れば、後者の方が楽かもしれないけど。

 

 イズ
・「ゴリラですか?」
腹筋崩壊太郎といい、ネットの反応に反応してる印象というのは確かに受ける。
でも逆に「ネットでウケたことを知っているならば、意識的にそういうネタを避けなければいけない」のかと考え始めると、よく分からなくなってくる。
ネット民がゴリラだと形容したくなるのと同様に、イズがそれを思い付く可能性だってない訳じゃない。オンドゥル語だって「実際そう聞こえる」という人が多いからこそ話題になってる訳で、このケースに限ってはまずないとは思うが、仮に公式が自発的にネタにしようと画策していたとして、ネットの民がたまたま先に話題にしてしまったとしたら、公式が予定通りネタにしたのは「ネット媚び」になってしまうのかどうか。
ことの真偽は関係ない。そういう一風変わった視点から見てみるのも面白くないですか、というだけの話なので。

 

 弁護士ビンゴ
・所謂"ウソ発見器"的な機能があるとのこと。この間やってた『カイジ』では「怪我をして意図的に心拍数を上げれば利根川の時計は使えない」とか、『PSYCHO-PASS 3』では「自分が犯罪に加担しているという自覚がなければサイコパスは曇らない」みたいな話があった通り、この手のものというのは鵜呑みにはできない。
「心拍数がある値(平常時)と比べ高い」という客観的事実から「嘘をついている」という新たな事実を導き出すためには、どうしても論理的飛躍、すなわち脳内補完が必要になる。
そしてそれは、人間が常に行っていることでもある。
いわゆる直観(直感)というやつ。
おそらくあれは無意識においてなされた、過去の膨大な"記憶"に基づくヒューリスティックな判断だろう。
検事の市森も、最初の"仮説"として「この人は怪しい」とアタリをつけていた(バイアスをかけていた)かもしれないし、ひょっとすればそれだけを根拠に証拠の捏造すらしているかもしれない。
事実の持つ本質的な意味のみを捉える代わりに発展性のない演繹法と違い、過去の傾向(具体的事象)から未来を予測するような帰納法は、必ずしも正しい答えを導けない。
誰でも天気予報に踊らされたことくらいはあるだろう。
「10%だったのに土砂降り」「100%だったから濡れないよう準備したのに小雨じゃないか」とか。
"敢えて"降水確立とはあまり関係がない降雨量の話とごっちゃにしたが、人間の脳みそというのはこういった勘違いをよく起こす。これはもう仕方のないことだと言って良い。
少し違うが、「1%の確率で当たりが出るガチャを100回引けば必ず当たりが出るか」みたいな話もあった。引いたものを戻さない場合(いわゆる天井なし)に置いては、100回の試行で1%が当たる確率は60%そこそこだとかなんとか。
これを聞いてからというもの、僕は"確率"というものになんの意味があるのかよく分からなくなってしまった。
そりゃまぁ、相対的に30%と50%の確率を比べてより高い/低い方がどうこうみたいな判断には使えるだろうけども、僕の直観が確率に期待していたのはまさに「100回やれば1回当たる」みたいな保証だったからだ。
……まぁどうでもいい話、僕自身は割とソシャゲにおいては運良かった方だと思うけどな。1年ほどやってたFGOのガチャも、完全に無課金なのに月に一度くらいのペース(施行回数は知らんけど配布石と呼符だけで回せる程度)で星5出てたし。
そして、じゃあこの雑学を自慢気に披露する人たちが新たに出した63%という確率は、果たして「100回やれば63回当たる(≒160回やればさっきの1%のが1回当たる)」種類のものなのかといえば、それもきっと違うのだろう。
この脱力感が何に由来するものなのかと考えてみると、結局僕らが「0か1か」で物事を捉えようとしている(にも関わらず妥協する傾向にある)ことに突き当たる。
「雨は降るのか、否か」「当たるのか、否か」。
ど〜〜〜しても濡れたくないなら傘を必ず持っていくようにすれば良いし、ど〜〜〜しても外れたくないならガチャなど引かなれければ良いはず。
そして「ど〜〜〜しても当てたい」というのは不可能だという現実を受け止めるしかない。460回ほどで99%になるらしいが、461回目だろうとなんたろうと1%には変わりないのだ。
1/100という確率は「例えば100面サイコロの1面に当たりがある」というだけの意味しかなくて、逆に「何面サイコロか」という事実から「何回で狙った面を出せる」という情報を導くことはできないのだ。
という文章でさえ、どうしようもなくゼロイチだ。「できるか、できないか」というところに話を落とし込んでいる。
エヴァンゲリオンの新劇場版『YOU ARE (NOT) ALONE. 』を想起するが、"NOT"を差し込んで成立させることができない言葉で語るとはどういうことなのだろうか。言語にそのようなことは可能なのか。
「孤独か、そうでないか」という視点でのグレーな回答は結局「完璧に孤独か、そうでもないか」というベン図にスライドするだけである。僕には"も"を挟む程度の抵抗しかできない。
世界に線を引き区別する以外の方法で、人が何事かを理解することはできないのだろうか。そうする必要が果たしてあるのかもそれはそれで疑問ではあるけれど。
・単純な話だけれど、誰かが捏造できるということは被告人が自分のためにアリバイのあるタイミングでツイートしたことにもできるということなので、今回のビンゴの話で弁護側が一方的に優勢ということにはそんなにならない。いつも通りイズの言ってることは的外れ。
というか、実際今の法はどうしてるんだろうね。IPアドレスを特定することはできても、端末の向こう側にいた人間を特定することなんてできるんだろうか。匿名性の強い弱いみたいな話もあるけど、これはそれ以前の問題だよな。
ネカフェとかなら監視カメラもあるかもしれないが、基本的には「なりすましかもしれない」なんて悪魔の証明もいいところというか、どうとでも言えてしまうのでは。
とはいえ、仮面ライダーはこの問題と非常に親和性が高い。
ここで言う端末と人間の関係性は、そのままライダーのガワと変身者に当てはめることができる。
アギトだからといって翔一くんだとは限らないし、ファイズだからといって持ち主であるはずの巧だとは限らない。
初代『仮面ライダー』にまで遡っても、そもそも"変身"という事象からして「本郷猛だからといってあの見た目だとは限らない」という解釈が可能であるし、ショッカーライダー以前に2号という存在も「仮面ライダー(バッタ怪人)だからといって本郷猛だとは限らない」ということを表している。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)

でも、だからこそ逆説的にというか、コントラストとして交換不可能性を謳っている(やっぱりファイズはたっくんじゃないと)という捉え方もできるかなと最近は思っている。
嘘つきました。今さっき思い付いた。
ってほどでもないけど。薄々は結構前から思ってた。
さっき一度否定した「裁判が一度なら〜」というイズの台詞、事実に即しているかは別として、そういう意味では興味深い内容ではあるのよね。
"客観的な正しさ"なんて、イデア的で想像するしかないものであって、僕らには知る由もない。古美門に言わせれば「うぬぼれるな。我々は神ではない、ただの弁護士だ。真実が何かなんて分かるはずがない」となる。
今は妥当に思える結論が、永遠にひっくり返らない保証なんてどこにもない。
以前ジオウについて似たような話をしたな。「ある時点のソウゴにとっては、自分が渡していないのにレジェンド達がブランクウォッチを持っていることはおかしいことだが、これから先 過去に遡って渡せば辻褄は合う。タイムパラドックスというのは、永遠に解消されない保証がない限りパラドックス足り得ない」と。
ギャンブルでも同じようなことが言える。未来が分からないから"適切な引き際"が分からない。この例が一番分かりやすいと思うが、長く行く末を見守ればいいという単純な話でもない。僕は必要以上に不安になってしまうのでテストの見返しはしないことにしているのだが、これもそうかな。
今を生きる僕らは、その時その時で「暫定的な答え」を出して行くしかない。
意見を変えることを手のひら返しだなんだと言って責めるのは、相当に節操がないとかでもない限りナンセンスに感じる。

 


設定

・腹筋崩壊太郎のデータが残ってることに違和感を覚えたが、よく聞いたらこの事件が起こったのはつい先日の話なのね。劇中での描写はなかったが、あの後 再生産された個体がいて(或いは元々複数いて)、そいつの話をしてるのか。

 

 

僕はスマホを手に入れるまでは普段から辞書を持ち歩いてた程いちいち物事を調べる癖があるんだけれど、ビンゴについては徒労すぎた。なんでビンゴゲームがBINGOなのかについては「へぇー」となる説明は全く見当たらなかったし、童謡も文字を消してくのがゲームと似てるな(あるいは逆か)という調べなくても思い付いた程度のことしか分からなかった。どっちが先なのか、関係があるのかどうかすらさっぱり。name-oってなんだよ。BLEACHのED歌ってた人がなんか似たような名前だったな。
バーニーっていう紫色した恐竜のキャラクターを見つけて懐かしいなってなっただけ。ちかれた。

 

ゼロワン感想一覧

前話

仮面ライダーゼロワン 第20話「ソレが1000%のベストハウス」 感想

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映画

ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想(ネタバレなし)

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想