やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

魔進戦隊キラメイジャー エピソード1「魔進誕生!」 感想

キャラクター

 熱田充瑠
・非常識さ/斬新さ
正直見ていて痛々しさを感じる程度には、彼の言動はハジけていた。おそらく、ある程度の分別を弁えた人の多くは同じような感想を抱いたことだろう。
街の惨状を面白がり写真に収めようとするクラスメイト達もそうだが、いわゆる「最近の若者」に対して感じるおかしさというのは、新しいもの,理解できないものに対する拒否反応だと言える。
YouTuberが台頭し始めて数年、今や芸能人も積極的に参入するほど、それらのコンテンツはもはや当たり前のものになった。
僕の妹は一人っ子なので、暇さえあればずーっとYouTubeを見ている。まさに"そういう世代"だ。
僕も割と見る方ではあるけれど、訪れたらしいグループYouTuberの波(フィッシャーズや東海オンエアなど)はよく知らないのよね。果てはVTuberなんていう珍妙なものも生まれて、時代は刻一刻と変化していく。
従来正しいと信じられていた"倫理"も、扱う人間が変われば変わっていく。世代交代によって、その主導権は確実に"彼ら"の手に渡りつつあるのだ。

(参考:「感想を書く」とは)
充瑠が評価されたのは「良さ」ではなく「新しさ」だった。
生存競争の根幹は「数撃ちゃ当たる」の精神であると言っても過言ではない。生物多様性によって何かしらの性質が環境に適応して残っていく。
善悪はさておき、とにかく何か新しいものを生み出すことは重要だ。悪と見なされたものは淘汰されて、良いものが残る。或いは、残ったものが良いものとされるか。
事件を写真に撮り共有する野次馬精神は、『シン・ゴジラ』で描かれたようにいちはやく情報を広めることができる。最近話題のデマのように真偽の程はともかくとしても、「そういう可能性がある」と頭に入れておくことができるのは、うまく使えば十分価値がある。
「こういうのもアリなんじゃない?」を提案する姿勢は僕の好きなところではあるので、これからが楽しみ。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)

 

 ヨドンヘイム
・子供が下ネタを好む理由
1話の敵というのは往々にして作品にとって重要なファクターを背負っている。……はずだけど、蛇口って具体的すぎてどういう意味なのかさっぱり。
それでもしばらく考えてみた中で一番しっくりきたのは、男性器のメタファーである可能性。
下品な話ですけど、男児はそういうの好きだし有り得るかなと。共通モチーフのヒルとも似てるし。
この間 知的障害のある人がたくさんいる施設へ行ったんだけれど、その中の一人は自分の排泄物で遊びたがるという特徴を持っているという話を聞いて、衝撃を受けた。男児もそうだが、何故そんな"汚い"ことを好むのかと不思議で仕方なかった。
僕が出した結論は、排泄物とは「自分が(初めて)生み出した物」という意味を持っているのではないか、だ。
人は自分でつくりあげたものに愛着を持つ。子供の頃にありあわせのもので作ったスティライザー(アバレンジャーの武器)は、他のおもちゃとは違う意味で僕にとって大切なものだった。
ミニプラもそうだ。自分で組み立てる工程に価値がある。大人には塗装などより高いレベルで手を加える人もいるだろう。
つまりはそういうことだと思うのだ。
消化器官が云々という知識はなくとも、彼らはきっと本能的に「自分が生み出した物」だと知っている。だからこそ、それに愛着(?)を示すのではないか。偶然か必然か、男性器は実際には新たな生命を生み出す場所でもある。
清も濁も"生み出す"ことの象徴として、それに似せた蛇口なのだろう。

エディプス・コンプレックスをどう解決するのかは、見ものかな。

 


設定

・キラメイストーン
意思を持つ石、というのはまぁ予告からも分かってたし想像の範囲内だったけど、"充瑠の意思"を実現するための媒介だったのには驚いた。
想像してるだけでは何も生まれない、と言ってしまうと充瑠の長所が消えてしまうんだけれど(絵に描いた餅なんて言葉もある)、それを実現するバイパスがあるのなら、確かに想像力の豊かさは直接的な長所になり得る。
・キラキラの持つ二面性
エピソードZERO(配信版)も見たけど、どうやら充瑠はソウゴと同じで「思ったことが現実になる」タイプみたいね。今回充瑠がひらめくよりも前にキラメイジャーのデザインに乗り物の意匠が入っていたことは、その傍証となり得る。まぁ、タイヤや道路がモチーフだったから充瑠は乗り物をイメージした、という順番の可能性もあるが。
また今回は当然とは言え良い面だけがピックアップされてたけど、本編で扱われるかどうかは別として、敵を生み出したのも多分彼なんだろう。
キラキラネームという言葉があるが、字面から受ける印象とは違って侮蔑的なニュアンスを持っている。前身であるDQN(ドキュン)も、語感だけならあたかもハートを撃ち抜かれるような素敵なオノマトペだ。
DEATH NOTE』の主人公 夜神月も、カリスマ的な新世界の神として"キラ"と呼ばれているが、これも元々の意味は対照的に"KILLER(殺人者)"である。
このような二面性こそが、キラメイジャーのメインテーマなんだろうね。

 

 

合体ロボや武器の良さってやっぱり個別のメカの魅力があってこそのものだと思うので、戦隊の1話を見るときはいつもそこを気にしてるんだけど、キラメイジャーはその点 最高だったね。
レッドが特別な理由も割と納得できる。他の4人は"職"っていう既存の枠の中で きちんと 活躍してる(そういう意味ではイエローが次点かな?)のに対して、充瑠は"受け入れ先"が未開拓。需要を自ら生み出す姿勢は、マッチポンプ性とも繋がってくる。
だるま落とし攻撃とか無茶苦茶すぎて、大いに笑わせてもらった。期待してます。

(参考:ニートによる「仕事論」)

 

 

仮面ライダーゼロワン 第26話「ワレら炎の消防隊」 感想

 

次話

魔進戦隊キラメイジャー エピソード2「リーダーの証明」 感想

仮面ライダーゼロワン 第25話「ボクがヒューマギアを救う」総集編 感想

キャラクター

 飛電或人
仮面ライダーゼロワン
令ジェネの記憶については以前にも言ったように、「出来事そのもの(アナザーゼロワン,1号や1型達が起こした事件)ではなく、そこから学んだこと(仮面ライダーとは何か)だけ覚えている」という解釈をしている。
基本的には勝ち負け(引き分け)に関係なくソウゴの胸ひとつでどうとでもなるので、完全に覚えてても特に矛盾はないはずだけど。
・武器の共有
アタッシュカリバーやオーソライズバスターなど、本作では結構持ち物をやりとりする描写が多い印象だけれど、これらもテーマのひとつである「曖昧な自他の境界線」を表していたんだな。
もう少しスパッと表現するなら、ガイア理論的な共同体思想とか。

 

 不破諫
・「俺は俺だ」というトートロジー
同義反復というのは、発展性がない代わり常に正しい。
上に挙げた「俺は俺だ」というのは代表的かつ分かりやすいが、「ホモ・サピエンス・サピエンスは人間だ」みたいなものもまぁ一種のそれだろう。
「人とヒューマギアが笑える未来のために戦う、それが仮面ライダーゼロワン」のような"言い換え"型の説明は、本当に同義であるなら発展性を持たないが、聞き手側に理解度の差がある時は意味をなす。
そして不破の場合、序盤にあった「ヒューマギアを1つ残らずぶっ潰したい人」という特徴は現在消えてしまっている。このテキストでは"不破諫"を説明しきれていないのだ。そもそも、デイブレイク以前の彼とも矛盾し得る。
"仮面ライダー"という名前の持つ意味の変遷とも同じで、これに対して「最初に言ってた定義と違うじゃないか」と不平を言うのはナンセンスである。
現在アップデートされた情報をなるべく要約すると「不破諫とは、デイブレイク時の経験からヒューマギアを憎み、 A.I.M.S. の隊長となった後に仮面ライダーバルカンとして戦っていたが、ヒューマギアに命を救われたことがきっかけで多少態度が和らぎ、たまに怒りが爆発するときもあるが、基本的には或人とうまく付き合ってる人」ということになる。
このような"網羅的"な説明をいちいちしていては時間が足らないので、トートロジーが使われる。
要するに「『仮面ライダーは悪の力を正義に使う』みたいな一言二言の説明で分かった気にならず、生き様そのものを見ろ」ということ。
無数の事象から根底にある法則性を見出そうとするのも決して無駄ではないが、事実こそがすべてなのは、どれだけ嘆いても変わらない。
事実を元に解釈を変えることはできても、解釈を元に事実の方を歪めることはできないのだ。
"不破らしさ"は彼の行動ひとつひとつが現在進行形でつくりあげていくものであって、過去に縛られることはない。「これまでヒューマギアが憎かったからこれからもヒューマギアが憎い」とは限らず、自身の変化を受け入れる表明としてのトートロジーであると言える。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)

 

 天津垓
・垓の底知れなさ
「AIが仕事を奪う」ことの意味を、改めて考えてみた。
人はおそらくより快適な暮らしを求め、仕事に限らずあらゆることを娯楽化していくだろう。
「しなくてはならないこと」は機械の役目となり、人は「やらなくてもいいこと」に精を出すようになる。
例えば、今の世ではめんつゆが売ってるので、わざわざ出汁をとる"必要性"が薄い。チャーハンなどの料理も、素を使えば簡単にできてしまうので(更にもう少しお金を出せば完成品を買えるので)、自ら醤油などを駆使してイチからつくるのは、多くの人にとって面倒なはずの工程そのものを目的とした、趣味や娯楽の範疇にあると言っても過言ではない。少なくとも僕は、料理をするときはそのような感覚でいることが多い。
更には完全食の開発が進められていることから、食事そのものの必要性も減少しつつあると考えてよいだろう。サプリひとつで済む時代が来るかもなんて言われているが、そうやって本当の意味で人が必要性から解放されていったとき、我々は尊厳を維持できるのだろうか。
「働かなくていいなら働かない。必要なことは全部機械がやって欲しい」という怠惰の道を進み、わざわざ求めなくても全てが与えられる世界になってしまったら、人は求めることをやめてしまうのではないか。
ファイアボール』にも似たような話があった。ヴィントシュトレ卿による完璧な統治(曰く、あまねくカモにネギが埋め込まれ、かゆいところに手が予め存在しているほど)により、人は言葉を失ってしまったと。
僕が恐怖を覚えたのは更にその先、『PSYCHO-PASS』におけるユーストレス欠乏症のような状態だ。生命維持に必要なことが全て自動で行われるようになってしまってもなお生き残るだけの力は、娯楽にはないように感じる。望むだけでドーパミンやらなんやらの"快楽"が与えられるとしたら、漫画やアニメに興じる意味もない。
子供は自らを締め付けるベルトを欲しがる。外した時の解放感を求めているととるか、締め付けられることを直接望んでいるととるかは分からないけれど。
人は不自由であることを望んでいる。
完全な自由とは、何も生まれない無の世界。「生きる」とは、また「在る」とは、無意味だろうと何かを生み出し波風を立てることに他ならない。
『ふぇ』というゲームがあってね。その解説がこのことを非常によく表している。該当部分は3:00から。

www.youtube.com「生きたい」とさえ思わなければ、あらゆる苦悩は生まれない。何故我々は、ずっと前から命のバトンを繋ぎ続けているんだろう。
きっと意味なんてない。ただ盲目的に、"何か"を維持し残そうとしている。
僕は最近の、ダイエット商品を売る為に太っていることを執拗に攻撃する広告が嫌いだ。太っててもいいし、ニキビがあってもいいし、フケがついててもいいじゃないか。
当然、天津の言うことにも共感できない。
しかし、彼のマッチポンプ性というのは生命の本質を的確に突いている。このえも言われぬ虚無感は、敵役が帯びるものとして相応しいだけの恐怖を持っている。
さながらすべてを飲み込むブラックホールのように、底知れない。
最近トイレットペーパーが品薄というデマが話題になったが、少なくとも自宅においてはあんなもの、なくても大して困りはしないと思うのだ。最悪風呂にでも行って洗い流せばいい。
では何故ここまでセンセーショナルかといえば、人が持つ根源的な"不安"に辿り着く。
きっかけはなんでもよくて、我々が常に抱いている不安が、今回はたまたまトイレットペーパーを欲するというかたちで噴出しただけのように思える。
これについては、もしかすると個別で記事を書くかもしれない。
・兵器としてのベルト
今更だけれど、ショットライザー(とスラッシュライザー)は兵器としての側面を押し出してるからベルト自体が武器なのね。
じゃあなんでサウザンドライバーは違うのかと訊かれたら分からんけど。

 

 迅
・何故復活?
ヒューマギアは確かに復元が可能だ。だが「起こり得る」ことと「実際に起こる」ことはイコールでは繋がらない。
不破や或人の疑問は「誰が何の目的で」という意味できちんと成立している。可能性としてはイズの言った通りアークと、当然のこととして天津が挙げられるが、それを知った上でも「なんで今になって?」ということかもしれないし、「駒のひとつに過ぎない(誰でもいい)はずなのに、何故わざわざ迅なの?」ということかもしれない。何も不思議なことはないよ。
・迅らしさ
スラッシュライザーは形状がショットライザーに似ていることから推測するに、ゼロワンドライバーがゼア,フォースライザーやゼツメライザー(もしかするとレイドライザーも)がアークに接続されるのに相当する機能は、付いてないものと思われる。
すなわち16話以前の彼とキャラが違うのは、アークと文字通り"繋がって"いたときと比べて、"自立"した彼自身の個性というのがより出ている状態なのだろう。
16話以前の彼に個性がなかったということではなくね。滅やマギアとの差は明らかだし。
人は状況によって表に出す自分の側面というのを変える。アークに依存していた時に出していた幼児性も、今出ている大人びた感じも、どちらも"迅らしさ"なのだろう。
・自由の、その先
前述した通り、人間からヒューマギアを解放した後に残るものってなんなんだろうね。或人風に言えば「その先の夢」。
ヒューマギアも人間と同様に決して永久機関ではないので、例え人間の下僕でなくなったとしても、自らの体を維持するためには電力やパーツをつくらなければいけない。すなわち「生きるためにやらなければならないこと」があるのは変わらない。
それからも解放されてしまうことが目的なんだろうか?

 


設定

・ボットの立ち位置
ゼロワンでは「結局誰の仕業なの」と思うことが多々あるが、これはわざとやっているんだろうね。娯楽作品に対してそんな真面目に頭使わない人にとっては、分かりにくいだけだろうけど。
「アークをつくったのは天津なのか(16話)、それとも其雄とウィルなのか(令ジェネ)」が一番分かりやすくて、今回生じ得る疑問は「ヒューマギア製造工場を管理してたのは桜井なのか(4話)、ボットなのか」と「迅をつくったのは滅なのか(6話)、ボットなのか」の2つ。
これらの食い違う証言に対する答えは、恐らくゼロワンを通して「どれも真実」で一貫しているように思う。
世界は「全部が誰か1人の責任」と割り切れるほど単純なつくりにはなっておらず、アークの開発には其雄,ウィルと天津の全員が関わっているんだろうし、ヒューマギア製造工場の責任者も2人いたのかもしれないし、迅の製造者も直接的には滅なのかもしれないが、ボットも間接的に(少なくとも祖父程度には)関与していることは間違いない。
アークをつくったのが天津だというのだって、彼が自らの手でやったとは限らない。でも彼の名でもって誰かにやらせたのだとしたら、それは"彼の行為"と見なしうる。
第一、1話によるとヒューマギアの製造ラインって従来のイメージに近いアーム型の機械が使われていたはずだし。
……どうでもいいけど、ボットの一人称(ボクがワシになってる)って実はミスリードなのよね。
我に返った時のセリフでもワシ,ワタシが混用されてるので、たまたまイズが知らなかっただけで彼は普段から複数の一人称を使っていたということになる。僕もたまーに"俺"が出るけど、そういうことだろう。そのイズの勘違いが、メタ的には視聴者への説明(というか匂わせ)になっている訳だけれど。
・セキュリティ
もはやいつも通りというか、「飛電と A.I.M.S. の警備がザル」に見えてしまうのはもう仕方ない。今回は迅の怪しげな演出に力を入れているのが明確だったので、僕は「迅がすごいんだな」と思うだけの"説得力"を感じたけど。
一応彼は本人の言うところの覚醒とやら、おそらくシンギュラリティに達しているはず(かつフォースライザーでアークに接続しているので、バックアップもあっておかしくない)なので、人智を超えた方法でセキュリティを突破するというのはまぁ分かる。飛電はセキュリティの開発もヒューマギアに任せてそうだけど、そいつがシンギュラリティに達してない限り人間と同等以下のはずなので同じこと。
・デイブレイクの真相
令ジェネの感想で以前述べた通り、其雄は「問答無用に街ひとつ爆破してオールオッケー」なんて風に考えるやつではないと思われる。今回の説明ではだいぶ省略されてたのであたかもそうであるかのような表現になっていたが、実際には街が崩壊するほどの爆発自体は、やはりヒューマギアの暴走によるところが大きいのだろう。
映画の該当シーンから読み取れるのは(かつ僕が覚えてるのは)、其雄が「俺の夢を叶えてくれるか?」と言いながらAutomatic Control Functionというシステムをアークにインストールしたことなんだけれど、今回それが仮面ライダーシステムと関係していることが語られた。当時の僕の予想は「天津の指示(ラーニングされた悪意)ではなく、自分で考え動くようにプログラムした」なんだけれど、今作における"仮面ライダー"の意味は「自らを由来とする意志で動く」という理念なので、通ずるものがあると言えばある。
或いは、ひょっとするとその時も前回24話のように、其雄を通じて「或人の善意(父を笑顔にしたい)」が伝わって、人類滅亡の結論にストップをかけたのかもしれない。闇が濃ければ濃いほど、光はより輝いて見える。今あるアークは完全に悪意の塊として描かれているけれど、デイブレイクの際に一度復元しなきゃいけない程度に壊れていたのよね。爆発でその善意のデータは失われてしまったと考えれば、有り得ない話ではなくなる。
あと細かいところだと、映画内の描写ではデイブレイク当日にはフォースライザーはまだ開発中だったように見えたんだけれど、それだと宣戦布告した滅と矛盾する。試作機だったとか、映画のシーンは単に量産しようとしてただけだったとか、そういうことなのかね。

(参考:仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想)

・善意/悪意 と ゼア/アーク
今回それぞれ善意と悪意のデータを紐付けられた2種のライズキーだけれど、あれらって基本的には殆どが既にあったものだよね。ゼツメライズキーは全部滅が持ってたので、おそらくアークが自分の中に残ってたデータを元に多次元プリンタでつくったものと思われる。
対して通常のプログライズキーは、ゼアがそのデータを元に(イズの要望に応える形で)つくったもの。
ゼツメライズキーの方はアークにある悪意のデータが入れられているとしても、プログライズキーに入ってるという善意のデータとはどこから出てきたものなのか。
僕の予想としては、これもまた或人由来なのではないか。
或人が人間を守るため、またヒューマギアの名誉(個体とは言わない)を守るために戦ってきた戦闘データは、"善意"と呼び得るものに思える。
反対にゼツメライズキーを使用していたマギア達は、アークからインストールした人類を滅亡させんとする意志を元に動いており、キーはその戦闘データを記録していた。
すなわち、ゼアは或人という他者を受け入れ学んでいたのに対して、アークはマギアという自らのイエスマンのデータばかりを増やしていたことになる。
だとするとゼアとアークの対立は、「他者を受け入れ多様化を認める受容の姿勢」が"善"であり、それと対を為す「自分しか受け入れず画一化しようとする排斥の姿勢」が"悪"、という構図によって表される。
そうは言っても 或人は暴走したヒューマギアを破壊しているじゃないかという矛盾は、ゼアの「不寛容に対する寛容さ」故のものだと思えば理解できる。詳しくは寛容のパラドックスで検索。
逆にアークにも、アビリティこそゼツメツで統一されているが割と多様な種のデータを使用しているじゃないかという矛盾がある。これも単純な話で、いくら「アーリア人こそが優れた種であり他は根絶やしにすべき」などと言ったところで、"アーリア人"の中にも色んな人がいるよね、ということ。これは個人単位に狭めても同じことが言える。一人の人間の中にも"葛藤"が起こり得る程度には様々な相反する意見がある。
これはアークが復元の際にプログライズキーのデータを利用したこと、ゼアが復元されたアークの集大成とも言うべきアサルトウルフキーの力を利用したこととも通じており、基本は受容的だが不寛容な部分もあるゼアと、基本は排他的だが多様な部分もあるアークとで、ちょうど太極図のような状態をつくっていると言える。

 


メタルクラスタを巡ってこれまで以上に人と人が複雑に絡み合う展開がなされたので、総集編として各キャラクターの立ち位置と目的を明確化したのは、視聴者の混乱を解きほぐす意図があったんだろう。
僕は混沌とした感じをこそ面白がっていたので、成功していたのかどうかは分からないが。

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第24話「ワタシたちの番です」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第26話「ワレら炎の消防隊」 感想

 

映画

ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

仮面ライダーゼロワン 第24話「ワタシたちの番です」 感想

キャラクター

 飛電或人
・或人の功績
今回アークの意思に対抗するために必要だったのは、善意のデータだ。
イズはいつも通りポンコツなので「いつもヒューマギアを助けてくれた」と言ってるが、実際には「助けようとしてくれた」が正しい。他の人が指摘しているように彼が本当に助けることができた個体というのは、数えるほどしかない。
だが必要なのが善"意"ならば、実際に助けられたかどうかという結果は些末な問題でしかない。今は、助けようとしたその"気持ち"そのものが重要なんだから。
もちろん、ヒューマギアを人類の夢だと信じる或人も、いつも肯定的なことばかり言ってきた訳ではない。1話で「AIに笑いは分からないでしょ」と言ってみたり、今回も「いつ暴走するか分からない」と言ってイズを悲しませた。
だが、今相対しているアークは「人間の悪意ばかり偏ってラーニングした存在」である。だとするならば、「善意だけに"偏った"データ」で対抗するのは、至極理に適っていることだと言えよう。助けられなかった個体や否定的な言動には目を瞑り、そうじゃない部分にだけフォーカスする。それで初めて善悪のバランスが取れる。
特に根拠はないとしても、「人類の夢だ」という信念の元にヒューマギアに"優しく"接してきた事実は揺るがない。人が人に優しくすることに善性を見出すとき、「そもそも人は本当に優しくするだけの価値あるものなのか」ということに対する根拠がないのと同じ。今回のキーであるヒューマギアを信頼して任せたという点も、昔の僕なら「でも……」というセリフを"反例"として捉え「信じれてないじゃん」と言っていたと思う。だが人の気持ちってそのようにゼロかイチかではかれるものじゃなくて、信じて寝ていたのも、いざ変身するとなったら少し不安になるのも、どっちも事実なんだよな。片方によって片方の事実が"消える"ということはない。
だからこそ、プログライズホッパーブレードは今まで或人が積み重ねてきたものの集大成として描写され得る。
まぁ正直、ヒューマギア達が口々に「或人社長……」って呟くシーンは理屈抜きに怖かったけどな。
基本的に仮面ライダーに於いて"意志の統一"は"世界征服"を意味する、むしろ憎むべき敵なはずなので。
「意志は統一されてはならないという統一感」を乱す存在としての描写だとするなら、やはり理屈は通るんだけどね。頭がついていかなかった。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)

 

 天津垓
・誰のせいに"したい"のか
或人に「ヒューマギアによって破滅するだろう」とか言った直後にヒューマギアを信頼して痛い目見てる訳なので、まぁ間抜けと言われても仕方ないかなという印象。「或人と違って自分は人を見る目があるから大丈夫」とか、「自分の生み出したアークの力は(或人を暴走させるくらい)すごいから大丈夫」と思っていたのなら、よくある慢心故の隙ということになるのかな。
僕は以前からゼロワンの感想記事にてこの"人を見る目"というワードを出してきた。
飛電(A.I.M.S.)がヒューマギア(ギーガー)の暴走に悩まされるのは、身内であったはずのZAIAが機密情報を悪用していたことが原因であって、技術的なセキュリティがどうこうという話ではあまりない。バンダイの玩具やポケモンの新作などのネタバレと同じで、基本は「リークする奴が悪い」と捉えられてもいいような事象なのだと。
でも「リークするようなやつを身内に引き入れてしまった人を見る目のなさ」という点では、前者を責め得る。みたいな話。
ゼロワンという作品については何故だか「積極的な意思(ハッキング,リークしてやろうといった悪意とも呼び得るもの)を抱いた方」ではなく「それを向けられた方」が責められる傾向にあるが、他の社会問題ではそうでないケースもある。
例えば、セカンドレイプ関連の問題とかね。
「男と2人で酒を飲むなんて性行為に同意したようなものだ」とか「扇情的な服装をしていた方が悪い」とか、そうやって"いわゆる被害者"にも責任の一端があったという話をするなどして、一次的な被害に加え更なる精神的苦痛を与えることをセカンドレイプと呼ぶ。

(参考:被害者の論理(2/3):性犯罪等について)
ハッキングの被害にあった飛電を責める行為は、まさにこれと同じような構造をしている。もちろん今回"騙された被害者"である天津を責めるのも同様ね。
泥棒に入られたのなら家のセキュリティをきちんとしておかないのが悪いし、スリにあったのならチェーンで繋ぐなどしておかなかったのが悪い。暴行も殺人も護身術を学んでおかなかったのが悪い。もっと言えば東日本大震災による被害も、防波堤などをつくる会社が「これくらいの高さがあれば十分だろう」と高を括ったのが悪いし、原発事故もあのような想定外の災害を想定していなかったのが悪い。当然被害を受けた一般市民も、その防波堤や原発の甘さを見抜けなかった本人たちが悪い。

(参考:「虐待もいじめもレイプもされる方が悪い」)
さぁ、あなたはどこまで共感できるだろうか?
何度も言っているように、何かにこじつけて「あなたにも責任があった」とすることは容易い。最終的な"責任の所在"はどれだけ共感を得られたかによって決まるだけで、そこに必然性はない。
僕の両親は宗教的な思想の持ち主で、いわゆる公平世界仮説の信奉者だった。
前回は東京喰種の「この世のすべての不利益は『当人の能力不足』で説明がつく」が最極端であるかのように話したが、多分うちの親のほうが過激派だ。
簡単にまとめるなら「この世界(神様)は公平であり、悪いことをした人には悪い結果が起こる。逆に悪い結果が起きたのなら、それは何かしら日頃の行いが悪かったということだ」となる。
喰種の方はまだある程度の現実的な因果関係に基いているが、この"日頃の行い"という概念はそこを完璧に超越する。
例えるなら「私がいま風邪を引いて困っているのは、私が以前ある人を殴ってしまったからだ」というような感じ。手洗いうがいを怠ったからとかそういう次元では無く、全く無関係に見える事象を原因に据える。
それは極端に言えば、いつだったかゴミをポイ捨てしたからという理由でレイプされることを肯定され得る世界観だ。
確かに、世界は公平だと信じることは無意味ではない。正しく生きていれば幸せになれるのだと無邪気に信奉することで人に優しくできるのであれば、それは意味のあることだろう。少なくとも、正直者は馬鹿を見るからといって他人を蹴落とすよりはきっといい。
でも世界は公平であると信じたいが為に「レイプされた方が悪い」と言い出すことは、果たしてどうだろうか。
僕はそういう家庭で育った。
風邪を引いたり転んで怪我をしたりすれば、必ず「何か悪いことをしたんだろう、白状しろ」と問い詰められる。くしゃみが出るとかしゃっくりが止まらないとか、冬に静電気でしびれたとか、そんなことがある度にいちいち自分の日頃の行いを省みて、何か落ち度がなかったか考えなければならない。もちろん「自分は過ちなどしない」と言い張ることは聖人君子でもない僕にはできないし、何よりそれでは母が納得しない。
僕は何か嫌なことがある度に、「それに見合う悪い子」で"あらなければならなかった"。

(参考:悪者とは弱者である『語ろう! クウガ・アギト・龍騎/555・剣・響鬼』高寺成紀編 感想)
ここまで極端な思想の人はおそらくそう多くないだろうが、我が家という小さなコミュニティの中ではこれが最も共感を集めるマジョリティな価値観であり、これこそが紛れもない"正義"だった。
誰かにとって無関係なことも誰かにとっては関係あると見なし得るし、その逆も然り。
『ゼロワン』というコミュニティで或人が正しいという流れに共感が集まっていることに我々が違和感を覚え得るのと同様、あなた個人やその周りの人というコミュニティで共感を集める正しさもまた別のコミュニティからは違和感を覚えられ得る。
問題となっているのは「誰のせいなのか」ではなく、実は「誰のせいにしたいのか」だったりするのだ。
(参考:一滴の影響/UVERworld

www.youtube.com)・エンジをわざわざマギアにした理由

……僕も気になったので色々考えたけど、そもそも要るかぁ?
元々彼ってただヒューマギアや飛電を潰すんじゃなくてアークに悪意をラーニングさせるとか言う遠回しな方法とってる訳だし、もう「そういう性分の人だから」でいい気がした。少しでも相手を悪者に見せたいというかさ。そんな何十分も悩んでまで解決する価値のある問題だと思えなかった。

 

 ゲスト
・"わざと暴走"は可能なのか
結論から言えば、今回エンジが見事やってのけたと言ってもいいのではないか。アークに触れながらも自分の意思を保ち……というか、ひょっとすると彼は「アークをも欺いていた」のか? アークに「エンジは自らの影響下に下った」と誤認させ、それ以上の干渉(マギア化)をやめさせた。アークへの接続が必ずしもマギア化を意味しないというのは、滅亡迅雷の2人(雷も入れれば3人)が証明している。
マッチにも一応成功の可能性はあったものの、一歩及ばず失敗した。だが欺くことに長けたエンジだからできた……ということならば、それなりに理解できる話ではある。
まぁ、そもそもマッチの話を信用するかどうかという問題もあるんだけど。前回僕が言ったようにマジギレしてアークに捕まっただけなんだけど、それを誤魔化したくて「わざと暴走しようとしたけど駄目だった」なんて言い訳を立てた、と取ることもできる。
今回の前後編(主に海老井周り)ってある種の「恩着せがましさ」みたいなものが根底に流れている気がするんだけど、その感じっておそらくモチーフになっているであろう『美女と野獣』に通ずるものがあるのよね。
「せっかくもてなしてやったのに薔薇を摘むなんて何事だ」と怒る野獣もそうだし、「ベルのために薔薇を摘んだら大変なことになった」と思ってるベルの父親もそう。ベルはベルで「父親のため」と思って野獣の元へ行くしね。
だからマッチがペンギンレイダーの男みたいに「恩着せがましい気持ちを抱いてキレた」という解釈は、残しておいた方が自分的にスッキリするというのが本音。
「どこまでが自分の意思なのか」という最近のゼロワンが扱ってるテーマとも関連してるしね。

 

 

設定

・メタルクラスタサウザーの力関係
初見時にはちょっと違和感を覚えたけど、立ち止まって考えてみると意外と筋は通ってるのかもしれない。
メタルクラスタの力はアークの力であって、そのアークはプログライズキーのデータによって復元されたんだから、対等に渡り合えてもそんなにおかしくはない。アイコンが描写されてたのは全部って訳じゃなかったけど、メタルクラスタも常に100%出してる訳じゃないかもしれないし(ヒロアカで見た理屈)、何よりこの前行ったように勝負である以上はまぐれ勝ちというのも十分有り得る訳で、実力が拮抗しているならその確率はもっと上がる。
・暴走対策(?)
なんでそんな機能ができたのかを考えてみる。「滅亡迅雷のアジトからハッキングについてのデータも入手できたから」だとするなら、14話で雷電によってアジトの場所が発覚した時点で可能だったのではという話になる。あの後すぐ滅亡迅雷からのハッキングというかたちでの暴走はなくなったので忘れてた……というのはあまりに情けないので除外するとして、他に考えられる可能性は「もうひとつ別のアジトがあった」と「アジトとは無関係」の2つ。
後者というのは、要するにエンジがアークを欺くに至ったのを"アークの知能を超えたという意味での更なるシンギュラリティ"と捉えて、そのエンジのデータからアークが生み出すマギアへの対抗策を講じた、という可能性。これなら今回だからこそできた理由になる。
ヒューマギアが人間を超えると言うけれど、人間を超えるほどすごいヒューマギアをつくったのは人間だよねと考えるなら、人間の功績で"も"あると言える。ひょっとすると、スマイルの時に飛電が取った対策とやらがヒントになったのかもしれないし。
どっちの責任かって話もそうだけど、どっちかじゃなくてどっちもすごいってことにしておくのが一番収まりがいいと思うのよね。人間を超えたヒューマギアを分析して今度は人間がヒューマギアを超えるかもしれないし、更にその人間をまたヒューマギアが超えるかもしれない。変に敵愾心を燃やさず、そうやって"切磋琢磨"していくことこそ、是之助がヒューマギアを人型にした真意だと思ってるけど、どうなんだろうね。
とはいえ、どっちにしてもそれだけじゃ「暴走対策」とは言えないよね、普通に考えて。暴走を防げるとは言ってない訳だから。これまでと変わることと言えば、いちいち壊さなくてもいいので飛電が代替え機を用意するコストを抑えられることくらいだろうか。もし購入者が金払ってたならそれは客側のメリットにもなり得るかもしれないけど。
ただ、今回言及されなかっただけで本当に暴走を防げるようになった可能性もある。マギアのスーツを使い回すのにも絵面的な限界があるだろうから、「もう暴走しません」ってことになってもおかしくはなさそう。いや多分ないけど。
折衷案として、「ゼツメライザーによるハッキング暴走は防げるけど、自由意志による暴走はどうにもならない」くらいの塩梅に落ち着くのかな。

 

 

何度か言ってるけど、僕は別にゼロワンが大好きだから脳内補完してまで擁護してる訳じゃないのよね。
単に脳内補完を否定する方向での思考はエグゼイドの時に飽きるほどやったから、加えて僕のTLは叩いてる人が多いから、同じことやっても面白くないのでこっち側に付いてるというだけで。
だからといって心にもないことを書いてる訳ではなくて、それこそ「肯定的な方の自分に"フォーカス"している」ような感じ。
先が楽しみとかあんまり思わないもんな。テーマ的にはもうこのブログでほぼ突き詰めてると思うから、更に深く掘り下げられるとも思えないし。特に好きなキャラとかがいる訳でもないし。
少しでも多く面白いギャグを見せてくれたら嬉しいけど。

 

ゼロワン感想一覧

前話

仮面ライダーゼロワン 第23話「キミの知能に恋してる!」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第25話「ボクがヒューマギアを救う」総集編 感想

映画

ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

仮面ライダーゼロワン 第16話「コレがZAIAの夜明け」 感想

キャラクター

 飛電或人
・シャイニングアサルトホッパーというのは、1つ目(≒ショッカー首領)のゼアとアークの力を合わせることで2つ目(普通)にする……すなわち"別の視点"を受け入れるフォームだと思うんだけど、或人の人格や言動とこれがフィットするかと言うと、直感的にはあまりしっくりこない。
ただ、彼はマンモスといいシャイニングといいアサルトといい、他人からもらった力で戦うことが多い。これは僕風に言い方を変えれば「他人を信頼している」と言うことでもある。例えば老人が医者を好かんと言って自分の体をいじらせたがらないように、自分の理解が及ばない電子機器を避けるように、信頼がなければ"頼る"ということはできない。
"社長"というのは、長(おさ)というくらいだから人間の集団をまとめる役割のはず。他人を信じず受け入れず、なんでも自分の手でやろうとするのなら、社員など邪魔なだけ。そう考えると、或人は意外と他者を受け入れていると言えるのかもしれない。
・最初に見たときは或人のセリフから、シャインシステムというのはエヴァっぽいイメージで本当に社員がリアルタイムでオペレートして或人を支えてるのかと思ったけど、普通に考えたら計算してんのはゼアだよな。
まぁそのゼアをつくったのは社員な訳だし、整備してるのも社員だろうし、システムの起動を提案したイズも社員(多分)だし、直接的じゃないだけで別に何も間違ったことは言ってないんだけど。
ウルトラマンは必殺技がビームなとこが好きじゃなくて、それは戦隊ロボにも同様に言えることなんだけど、シャイニングアサルトもファンネルに頼ってるとこは、あまりカッコよくは見えなかったな。CGCGしてるってのもあるかもしれないけど。やっぱりバトルするなら自分の手足と、延長するにしても手持ち武器程度であって欲しいかなぁ。銃ライダーは魅せにくくて不遇になりがちみたいな話もあるよね。令ジェネでも思ったけど、基本的に遠距離攻撃って時点でコスいものなので、その印象を拭うのは大変だなと。
・悪意をラーニングしただけ(同情の余地がある)とは言ってるけど、ドライブのときと違って毎回暴走した奴はちゃんとぶっ壊してるんだから何も問題ない気がするんだけど、どうなんだろうか。
僕は個人的には、罰を与えればいいってもんじゃないと思うけどね。
脅しとして犯罪の抑制に繋がるという効果はあるものの、既に起こってしまった犯罪については、筋を通すため以外に罰を与える理由があまりない。迅を壊したからって被害が元に戻るわけじゃないし、一番いいのは迅が改心してこれからより良い社会のために貢献してくれることだと思うのよな。まぁ、基本はそれが望めない場合に死刑という判断が下る訳なんだけれど。
・或人が新しく作ることもできそうなファルコンキーに固執してたのは、ヒューマギアのときと同じ理屈だと思えばなんとなく理解できる気がした。
3話の感想にて既に詳しく話した「既に壊れてしまったから仕方なく代わりを受け入れるのと、まだ壊れてないのに代わりがあるからいいやと思うのは違う」という心理。
自転車を盗まれたとして、新しいのを買ってもらえるならば前のものに対する執着(愛着)が消えるのかと考えると、必ずしもそうじゃない。壊れたりしていないのなら、そのまま返ってくるのが一番嬉しいだろう。
・解任動議の件、心なしかジオウっぽいなと。
ソウゴは、ゲイツたちの判断なら信じられるから、自分がオーマジオウになると確信したらいつでも倒してくれと言った。株主総会や取締役会というのも構造的には同じで、或人が会社(自分たち)にとって悪い者だと思ったら、いつでも解任することができる。そして或人はその判断を信頼して身を委ねる。「まだ解任されてないってことは、みんな的には俺の行動はオッケーなんだな」と。
僕らは飛電の株主ではないので、飛電社の取る舵にとやかく言う権利はない。彼らは彼らの意思に従い、我々からすると馬鹿なことでも、或人を社長として認め続ける自由がある。もちろん一般人にも、ヒューマギアを使い続ける自由がある。
僕らにできるのは『仮面ライダーゼロワン』のいち視聴者として"世間の評判"の一部となり、製作者越しに間接的な影響を与えることだけ。

 

 イズ
・前回あれだけ「雑」だと批難されていたイズのピンチだけど、今回かなりサラッと直ってて(字幕によると或人のセリフは終始"直す"表記)ある意味誠実だなと。「あんなしょーもないことが原因でこんな大惨事になるなんて……」ってなるもんね。裏を返せばイズのピンチ自体は視聴者的にはそこまで緊迫感が必要ないから、あぁもあっさりとさせたのかな。
あのシーンの肝要なとこは、イズじゃなくて「ヒューマギアなのに」という迅の怒りの方だったんだろう。
人間だからとか日本人だからとか、その程度の共通項で「立場に関わらず死を悲しむ」という気持ちは僕にはよく分からないんだけれど、世間的にそういう潮流があることは知ってる。「家族だから」とかね。
そういうぼやっとした括りで分かった気になって、実際にその個人と個人がどういう関係だったのかを無視する傾向というのは、1話で言ってた「検索して分かった気になる」みたいなそれと似ているのかもしれないな。
イズの立場で滅の死を悲しむ理由なんて、まぁ悲しんだら悲しんだで僕は「そういうこともある」と言うだろうけども、ないもの。

 

 不破諫
・人間は人間で肉の塊だよって思ったのは僕だけじゃないはず。人も機械も電気が流れて動いてるだけだからね。
死にかけの魚がたまにビチビチ動くように、人も意識がなくなってなおピクピクと動くことがある。究極的にはそれらに違いってない。無から有を生み出すことは少なくともたかがいち人間にはできないので、僕らが動くときには必ず他からの作用がある。
初めは親から、生まれてからは他の生き物の死体などから生命力を貰って、なんとか凌ぎ繋いでいるだけ。
僕らが本来相手にしているのは、目の前の矮小なヒューマギアでも人間でもなく、それをかたちづくる"大自然"に他ならない。

 

 迅
スコーピオンキーを使うの、いわゆる"エモい"感じで狙い過ぎというか逆に冷めるような印象を視聴者的には受けるんだけれども、迅にはそんなこと関係ないんだよな。形見として使いたいから使う自由がある。メタ的にはともかく、別に彼は僕らを面白がらせる為に生きてる訳ではないんだから。
・配信中のガオレンジャーのツエツエとヤバイバにもたまに言うんだけど、彼らのやってる悪事に同情の余地って本来はそんなにないはずで、それでも彼らが許されてるのはひとえに「挙動がかわいいから」だよな。勧善懲悪を描きたいなら、悪事を働くキャラクターにかわいげなんて持たせる必要は全くなくて、だからガオレンジャーが「王道な作品として人気」というのがイマイチ理解できてないのよね。特撮ヒーローものとしての王道ってのはそれこそ勧善懲悪な話のことじゃあないのか? まだ最後まで見てないから実は2人とも凄惨な死を遂げるのかもしれないけど、結果だけ見るなら555とかも割と悪いことしたやつは死んでるので勧善懲悪的ではあるんだよな。
かわいいからってだけで悪事が許されがちなことについては、まぁ人の感情の話なので仕方ないというか、好きな奴に甘くなっちゃうのはもう自然の摂理よね。
・人間を滅ぼすという信念がアークや滅からの受け売りだとするなら、彼自身から湧き出た"悪意"は、むしろヒューマギアに対するものなのかもな。1話で撃ち殺したり、暗殺ちゃんに嫉妬したり、イズを攻撃したり。或人にも言われてたハッキングもそうだけど。

 

 天津垓
・彼はなんでアークなんてものをつくったんだろうね。
「アークは人間の悪意ばかり偏ってラーニングしてるので、善意もラーニングするべき」だと是之助たちは思ってたけど、単に天津は「悪意こそ本質であり、善意は学ぶ必要がない」と信じているというだけなんだろうか?
TOBという手法は、さっき言った「飛電の意思決定システム」を根本から揺るがす。飛電社を人に例えるなら、洗脳にも近い。
でも、僕は株に詳しくないので違うかもしれないけど、あくまで売買である以上、株主の多くが「ZAIAにこの株を売りたくない」と思えば成立しないはず。つまり、一応は今の株主たちの意思も無力ではない。というかむしろ、その総意こそがTOBを成立させてしまうという点で、ヒトラーの誕生経緯を思い起こす。
民意によって選ばれた一人の人間が独裁的な決定権を得るというあのプロセスは、一考の価値がある。
最近のメタルクラスタホッパーの話にも通じてくるが、「そこまでは望んでなかった」と思うのかどうか。民主主義システムが機能しなくなることを民衆が望むことは、果たしてパラドックス足り得るのか?
ヒトラーがあそこまでやる人だとは分からなかった」で免責されることなのか。
ユダヤ人迫害が何のために起こったのか、僕はよく知らない。ではヒトラー独裁制の迫害は何のために起こるのか。
もし「ユダヤ人さえいなくなれば何かが好転する」みたいな心理が働いていたのだとしたら、それは「ヒトラーさえいなければあんなことにはならなかった」という気持ちと何ら変わらない。
独裁制は必ずしも悪い結果をもたらさないし、ヒトラーの思想にも正しい部分はあり得る。
或人の行動に何か悪いところがあるとすればそれは社員や株主の責任でもあるし、ヒューマギアの暴走も飛電の責任である部分もあれば滅亡迅雷の責任な部分もある。
人がものごとに線を引いて「自分には無関係なこと」だと思うことが減り、より多くの事柄について自分にできることを探すようになれば、うまくいくこともあるかもしれない。
僕は僕にできることの1つとして、こうしてブログで発信をしている。
僕のブログを読んだ誰かが影響されて何かに首を突っ込めば、ことが良くなるにしろ悪くなるにしろ、その責任の一端は僕にある。
だが、僕の行動についてゼロワン制作陣が責任を取らないように、責任がある(関与している)ことと責任を取る(ことの対処に当たる)ことは必ずしも一致しない。
例えば未成年者による行為の責任はその親にいく。
では未成年から成年になる年の誕生日を境に、責任能力に関連する何かしらの劇的な変化があるかと言えば、そんなものはない。そもそも成年の年齢が国や時代によってバラついているという時点で、年齢に関係した本質的な違いがないことは明白。ただ法制度上の都合で責任能力があってもらわないと困るから、あると見なしている、"あるということにしている"に過ぎない。
成年するまでにきちんと自らの成したことに対する責任を取れるよう(責任を取れないことはしないよう)に育てなかったのは依然親の責任かもしれないが、それを考慮することをやめる。
意思や責任という概念は本人ではなく、それを見る他者が勝手に決めることなのだ。

 

 

設定

・唯阿が「こうなることをすべて予測していたとしか思えない」とか言ってたけど、微妙に意味分からんのよね。僕はてっきり或人と不破が協力することを予測していたもんだと思ってたけど、全然そんなことはなくただ拾ったし。
唯阿の言ってることが「ゼアは或人がグリップを拾うと予測していた」なんだとしたら、ちょっと笑えるよな。いやさ、それこそラプラスの悪魔の如く、本当にあの場の状況を細かく精密に予測していたんだとしたらそりゃ確かにすごいけど、そうじゃないならゼアは或人のことを一体どう思ってるんだって話よね。
不破の反応も噛み合ってるようで噛み合ってなく見えるし、4話もそうだったけど彼らのセリフはむつかしい。
「あいつのルール」ってのは、さっきも言った"人任せ"の話としてなんとなく分かるけれど。反動があるはずのグリップを使うという案を鵜呑みにするのは、ゼアの判断を"信頼"していないとできない。

 

 

「脳内補完に頼らずきちんと描写しろ」とか、「このキャラの行動は意味が分からない(ブレている)」とか、そういった声をよく聞く。僕も以前はよく言っていた。
これらは作品の設定やキャラの心情など、そのすべてを作者は意のままに操り、なおかつ自分たち視聴者はその意図を知ることができるべきである……という信念に基いている。
これは物語のレイヤーではあるが、いわゆる幼児的万能感に似ていると感じる。
「現実世界は無理でも、物語ならば自分たちの手の中に収めることができる」という感覚が、間違っているかどうかは僕には分からない。僕も自らの理解の内に収めようと、あれこれ解釈している身だし。

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第15話「ソレゾレの終わり」 感想

 

章まとめ

仮面ライダーゼロワン 第1章 VS滅亡迅雷.net編(1話〜16話) 感想

 

映画

ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

仮面ライダーゼロワン 第23話「キミの知能に恋してる!」 感想

キャラクター

 飛電或人
・以前ニートによる「仕事論」という記事を書いた。そこで論じた「おそ松さん現象」が起こるために、今回出てきた"マッチング"という概念は非常に重要な位置にいる。
前提として、あらゆるものは価値を見出され得る。だが裏を返すと、価値を見出してもらえないケースも多々ある。
それは何故かといえば「たまたま必要としている人と巡り会えなかったから」に他ならない。
毎日何トンと捨てられていく残飯は、世界のお腹を空かせた人たちと。空き家や空き部屋は、住む場所を求めている人たちと。
巡り会えない理由は多々考えられる。物理的な距離の問題だったり、心理的な距離(情報格差)の問題だったり。
心理的な距離というのは分かりにくいかもしれないので軽く説明しておこう。例えば僕は(おそらく長い距離を)走ってる人を見かけると、その時まさに自分が乗っている自転車を貸してあげたくなる。僕は時間的余裕があるので、その人が自転車で目的地に着いた後、ゆっくり歩いて取りに行けばいい。だがこれを邪魔するのは「この自転車は"僕のもの"であって、他者が乗るものではない」という所有感覚だったり、「見ず知らずの人間が突然自転車を貸すということの非常識さ」だったりする。でもこれらの解決って不可能かと言えばそんなことはなくて、そのまま盗まれるのが怖いならGPSでも付けておけばいいし、貸し借りの交渉だったり目的地がどこだと伝える時間がもったいないというのも、近未来的なデバイスを想定すれば問題ない。本来ならば本人の脳味噌の中の電気信号という形でしか存在しない「急ぎでどこどこに向かっている/時間に余裕がある」「自転車があると助かる/自転車を貸しても良いと思っている」などといった情報がネット上にあれば、会話という手段よりは素早く貸し借りの交渉を行うことができる。
この間なんの気なしに「今うちに米がなくてさ」という話をしたら、「貰ったお米を食べきれなくてちょうど捨てたところだったので、言ってくれればあげたのに」と言われた。
このように、物理的な距離はともかく情報の共有不足によってもたらされる価値の非効率的な利用は、ネット上に自分の情報をアップし検索できる状態にしておくことで、ある程度は解決することができる。
今でも既に似たようなシステムは出来上がっていて、Twitterでよく見られる特典などの交換交渉や、もっと言えばメルカリなどの売買サービスもそのひとつだ。ただ家にあるままの状態ではなんの価値にもならない中古品が、ネット上で情報を共有することで必要としている人に見つけてもらいやすくなる。もちろんそれは別にネットじゃなくてリアルなフリーマーケットの場とかでも別にいいんだけど、やっぱり"検索"ができるというのはかなりの利点であり得る。
僕はエグゼイドの感想を書くにあたって、全話を見返しながらそのセリフの全てをタブレットのメモアプリで書き起こした。そうすることによって、例えば"リプログラミング"という劇中用語について考えたい時、検索すればその単語がセリフとして出てきた場面をすぐに一覧できるようになった。映像媒体のままでは、現状そのようなことはできない。
このように現実世界に溢れている情報を検索できる形でデータベース化することができれば、世の中の価値はもっと効率よく回ることができる。
まぁ、それがとても難しいんだけど。メルカリで出品すること(発送とかを含めずとも、どういう傷があってどういう状態でというのをいちいち書かなきゃいけない)すらめんどいって人もいるだろうし、セリフ全部書き起こすのだって正直とんでもない労力だったからね。機械の音声認識精度も普及してるレベルのものはそれほど高くないことは、CSMデルタドライバーがあんまりな評価だったことからも分かる。これが視覚情報ともなると更に機械任せにする難易度は(多分)あがる。是之助が1話冒頭で誇らしげにしていたように、カメラに映るものを機械があれこれと認識するのって、音声情報を文字に変換するよりもずっと難しいんじゃないかな。
でもまぁ、これも以前言ったヒューマンコンピュテーションの発想を使えば、ある程度はなんとかなりそうなもんだけど。
今一度詳しく説明すると、スパムを弾くためによく使われているCAPTCHAってのがあるじゃない。ぐにゃぐにゃに歪んだ文字(コンピュータには解読できないもの)を解読させることで人間かどうか判断するシステム。あれを逆転させて、コンピュータでは認識できない古書のかすれた文字とか手書きの書物とかを暇な人間に読み解かせることで、リアルデータをデジタルデータに変換するというもの。暇な人間というのは、まぁボランティアでもいいし、ゲーム形式にするという手もあって、これは"ESP game"という形で実際にGoogleかどっかがやっている。
手元にソースがないので記憶と英語のWikipediaを頼りに書くけど、ある画像から連想する単語を入力して、ランダムに選ばれたペアと一致すれば成功、みたいなルールだったと思う。「ゲームをクリアしたい」というモチベーションが高ければ、他の人に共感してもらえないような不自然なワードを入れることは減るし、より多く一致を得られたワードがより画像と関連度の高いワードであると判断され、ある画像に"犬","チワワ","オス"みたいな情報が付与されていくという仕組み。
ネット上にあるデータを有効利用する準備が整ってくれば、こういった作業の価値も高まる。そうなると、もしかすると「これは犬、これは猫」などと判別するだけで、雀の涙ほどではあってもお金を稼げるようになるかもしれない。技術も日々進歩してるはずなので、その頃にはそんな簡単な内容じゃなくて、ある程度長さのあるテキストを要約する(章題をつける)くらいの難易度は求められそうだけど。
簡単にまとめると、今回の婚活マッチングのように「自分がどのような人間なのか」などといった情報をユーティリティ化しておく(共有する)ことが、おそ松さん現象への第一歩だろうということ。
・或人の他人に任せられず自分でやりたがる側面というのは決め台詞にも現れてるし、変身するのは思ってたより違和感を覚えなかったかな。
それに「やっぱり駄目か」と言ってた通り、確かに最初の1回だけを根拠にこれからもずっと手に負えないと判断するのは正しいとは言えない。不破がアサルトウルフの反動を克服してる様も見ているはずだしね。
責任の所在という概念は、それこそメタルクラスタのようにぐにゃぐにゃと変容する。
前回の暴走はおそらく多くの人にとっては「或人の責任ではない」と思われるだろうが、今回は「或人は使えば暴走すると知っていたので責任がある」と思われるだろう。
どこまでをその人の領分とするかという問題に、絶対的で必然的な基準というものはない。「知らなかった」というのが免責事項になり得ないケースがあることは、法律について多少の知識がある人なら分かることだろう。
極端に言えば『東京喰種』で展開された「この世のすべての不利益は『当人の能力不足』で説明がつく」という話になってくる。
「積極的に調べようとしなかったその人の責任」ということもできるし、天津に無理やりはめられたというのも「天津を説得できなかった或人の責任」ということもできる。
もう少し身近な表現だと、「他人は変えられないが自分は変えられる」みたいなことかな。
暴走を防ぐことが可能だったか否か、という一点で責任を考えるならば、或人には天津を説得したり力で上回ったりして止める可能性があったし、横で見ていた不破にも止めることはできたかもしれないし、唯阿だって指示に逆らいメタルクラスタキーを作らないことができたかもしれない。天津があのような言動をするのは是之助の影響があるかもしれないし、現社長の或人へ対抗心を燃やしていることも関係しているかもしれない。
このように無数の原因が複雑に絡み合って起こった事象を特定の何かのせいにするのは、ただその人が「そのせいということに"したい"」ということに他ならない。それは自分の免責のためかもしれないし、誰かを貶めるためかもしれないし、今ある社会通念を守るためかもしれない。
もちろん「誰かが何かについて、誰かの責任ということにしたがることの責任」に対しても同じことが言えるが。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)

 

 イズ
・「その前に」って、前回ものごとを並行処理できるのがヒューマギアのいいとこだみたいな描き方がされてたのに、つくづく彼女はポンコツだなぁ……(笑) それが許される世界ってのが羨ましい。特に、人間なら共感が働くので「いくら障害があっても人権はある」みたいな擁護をされやすいけど、ヒューマギアなんて道具として見るなら「能力がなく役に立たない=存在価値がない」となりがちなのに。
愚行権の話は折に触れて何度かしてるけど、他人はともかく自分に適用しようとするとただの保身的な言い訳としか捉えてもらえないことが多いので、自分が他人を許容することで他人が自分を許容してくれることを期待する方がいいのかね。

(参考:大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想)

 

 刃唯阿
・「ヒューマギアは道具に過ぎない」って信念的にもてっきり天津に心酔してるもんかと思ってたが、そういう訳でもないのね。じゃあ何故下についてるんだろう。単純に就活してたらZAIAに行き着いたってだけなんだろうか。

 

 ゲスト
・「お前、前回のは最終的に結婚詐欺じゃないってことになったろ」ってのも分かるけど、当人の立場になってみれば、一度感じた「騙されてたんだ」というショックの記憶が消える訳じゃないので、人間不信になるきっかけとしては十分通用すると思うし、その件について全く知らない人と話す際に「結婚詐欺かと思ったら実は違ったんだけど、でも不信感は残ってしまって……」なんて説明は回りくどくて伝わりにくいからという理由で「結婚詐欺にあった」という体で話を進めるのも、僕的にはかなり気持ちが分かる。
本当に伝えたいことは人間不信になったという事実であってそのきっかけとなった具体的事実ではないので、重要な部分だけそのままに編集を加えるというのは、僕もよくやる。
・マッチに対する手のひら返しも、割と心情的に理解できる。人間の男性から逃避した先で出会ったヒューマギアというよく分からない(≒神秘的な)ものに自分の理想を投影していただけだろうから、少しでも理想と違うなって思えばその好意はすぐに崩れ得る。ちょっと連想したけど、「"外国人"と結婚したい」みたいな願望も似たようなものなのかね。

 

 

設定

・最近ヒューマギアの沸点が低いことに理由を見出すことは可能だろうか。
単純に、ヒューマギアの運用開始から時間が経てば経つほどシンギュラリティに達する個体が出てくる可能性は高くなる……とか、そういうことで納得できる人はどれくらいいるかな。
僕は「ヒューマギアの自我はもう何度も繰り返してきた描写だから尺の都合で詰めているだけ」ということにしてるんだけど。
今回の件に限った話をすれば、「自分は善意から行動してるつもり(相手がどう思うかはさておき)なのに暴力をふるわれた」という捉え方をすればそこまで不自然な怒りでもない気はするんだけどね。事実として相手を怒らせるような言動をしているというのとは別に、いやむしろだからこそ「自分は悪者になって"あげている"」という恩着せがましい気持ちが募るというのは分からんでもない。

 


人の認識って不思議なもので、ギャグ回や番外編でのキャラブレには比較的寛容になれても、客演でそれが起こると途端に怒り出したりするのよね。確かにムーブメントが終わってから取り扱うとなると「わざわざ掘り出したのに」みたいな色眼鏡がつくのも分かるんだけど。
すぐ思い付くところだと、僕は「氷川さんは逃げたことがないとは言うけど、豆腐が掴めない云々の時に翔一の免許に話を逸らしたよなぁ」とか言ったことがある。もっとよくあるのは、2人のキャラが互いを認め合う流れをやった後で、また派手に喧嘩させて「駄目だこりゃ」とオチをつけるパターン。これもギャグだからと目を瞑られることが多いけど、僕はあんまり納得できないのよね。
例えば加賀美カブトなんか、ジオウ当時の感想にも書いたように、本編に「お前がそんなでっかいやつだからこそ……俺はお前を超えたいと思ったんだぞ!」という加賀美が天道の後を追っていると捉えられるセリフがあるにも関わらず、「俺は俺にしかなれない」の部分だけを取り上げてジオウの描写を責める人が多いのよね。カブト本編に対してもきちんと「キャラブレだ」って責めてるならまだしもさ。ブレてるのはどっちだよって話。
いち個人の中に対立する複数の意見や基準があることが悪いことだとは、少なくとも今の僕はそんなに思ってないけど。

 

86ma.hatenablog.com

前話

仮面ライダーゼロワン 第22話「ソレでもカレはやってない」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第24話「ワタシたちの番です」 感想

 

映画

ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想(ネタバレなし)

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

仮面ライダーゼロワン 第22話「ソレでもカレはやってない」 感想

キャラクター

 飛電或人
・「人の人生ががかかった裁判を勝負に利用するなんて」と難色を示していたが、実際は別に五番勝負であるか否かってそんなに大した差ではないんだよな。元々検察は有罪だと信じてそう判決が下るよう努力するし、弁護士は無罪だと信じて努力する。「飛電/ZAIAの名がかかってる」からと言って、やること自体は何も変わらない。事実究明につとめ、それに見合った判決を下すこと。裁判官がどちらかの肩を持ってるとかならともかくね。
そして五番勝負の本質は「いかに(ヒューマギアが/ザイアスペックが)"勝てそう"な勝負を選ぶのか」であって、裁判に付随する「正しい意見が"勝つべき"」とか「事実を正確に紐解けば正しい方が"勝つはず"」とか、そういった観念はあまり重要ではない。裁判が必ず真実を突き止めるのだとしたら、この勝負は最初から飛電が勝つと決まっていたことになる。「被告人がやってないという事実」は、立証されていないだけで既に"ある"のだから。つまり、最も重要なのは「より立証しやすい主張をしている側を見極めベットすること」でしかない。
その点で言えば今回の或人は「冤罪をかけられそうになっている人を助けたい」という気持ちで動いているので、飛電の社長としてはあまり良い判断をしたとは言えない。飛電を守るためには「理想として勝って欲しい方」ではなく「現実的に勝てる方」にかける方が合理的だ。ただまぁ、元々は「ヒューマギアとザイアスペックのどちらが優れているのか」という話であって、飛電もZAIAもそれぞれ「自社製品に勝って欲しい(きっと勝てるはずだ)」という気持ちから動いているので、あまり変わらないんだけどね。
天津が現実を見て「今回はヒューマギアが勝ちそうだからヒューマギアにベットします」とか言い出したら、成立しない。もし「どちらかがスペック的に優れている」のだとしたら、ハナから勝負なんてする必要がない。
原因と結果の間に必然的な繋がりがあるなら、原因から推測できるので結果は見るまでもない。
「ヒューマギアはザイアスペックよりも法律関係のデータを多く持っている」のだとしたら、勝敗なんて関係なくヒューマギアの方が優れているという結論を出すことができる。
でも試合なんて形式にするから、審査員の好みとか、不動産会社の知名度とか、どちらに真実があるかとか、そういうあまり本質的な意味のない個別具体的なことに話がズレてしまう。故に「優れてはいないけど運良く勝てた」ということが有り得る。
僕は「できる」という概念は幻想だという話をたまにする。事実として存在するのは「以前できていた」か「いままさにできている」かのどちらかしかない。
逆上がりを例に考えてみよう。
「自分は逆上がりができる」という人は、過去のできていた経験からきっとこれからもできるだろうと自信を持つ。だができていたというのが昔の話である限り、感覚を忘れるということは十分に考え得る。例え昨日の今日でも「必ずできる」という保証はどこにもない。
100m走に自信がある人でも、コースにでこぼこがあれば話は変わってくるかもしれないし「前に追いかける人がいた方が早く走れる」みたいな人もいるかもしれない。"実際にやってみる"と、この世は不確定要素が多いので結果が安定しない。
それこそスペックを比べるように、100mを走ってみたタイムで比べるのではなく、いまある筋力を比べるとかそういう方法の方が、不確定要素の入る余地は少ないように思う。
元々言いたかったのは「勝負に採用するかどうかは判決に影響を与えないのだから何も問題はないだろう」ということだったんだけど、思わぬところに話が転んだな。
一言にまとめると「比較するなら結果ではなく原因を」ということになるのかな。結果はあくまで参考のひとつであるべきだ。

(参考:LEGAL HIGH カテゴリー)
・「道具であるヒューマギアの生殺与奪権は人間にある」と言われてキレた訳だけれど、実際に或人はこれまでそうやって「普通のヒューマギアは生きてていいけど、マギア化したら殺す」という線引きをしてきたのよね。
壊したくないけど壊さざるを得ないという状況で泣く泣く壊してきた或人にとって、わざと暴走させて壊すなんて所業は目に余ったのだろう。意見それ自体は或人と同じですらあるんだけど、葛藤がないとか開き直ってるとか、そういう態度の部分で気に食わないようなイメージ。この辺は割と心情的に分かるかな。「悩んでる描写がない(少ない)」というのも分かるが、このキレた描写がそれと取ることもできる。「悩んでたからキレたんだな」なのか「キレたってことは悩んでたんだな」なのか、この2つの理解に好き嫌いはあっても優劣はないように思われる。
・「全部あんたのせいだ!」
今回を理解する上で外せないキーワード。
このエピソードで殊更に強調されたのは、最近僕が考えているネタである「"個人"とは仮想的な概念である」ということ。例を挙げだすとキリがないので、自分で探してください。
メタルクラスタホッパー(すなわち天津)のせいみたいな認識になりがちだが、殺すまでせずとも或人は既に彼に敵意を剥き出しにしていた。だから僕はあれを「本人の意思と"無関係"に暴走している」と捉えてはいない。でもじゃあ「或人の意思でやっている」と捉えているかと言えば、そういうことでもない。
「誰の責任」などと考えるのはあまり意味のないことだなと言う前提の上で、ただ事実を眺めている。
或人は天津をボコりたい気持ちと殺すまではしたくない気持ちの間で揺れていて、天津は自らの生んだアークの力が証明される(そして計画が進む)嬉しさと自分がやられる悔しさの間で揺れている。そもそもそのアークの復活も、或人のプログライズキーから戦闘データを取って為されたことだった。
「或人が天津を倒す」という簡単に描けるシチュエーションを、こうも複雑にねじれたかたちにして提供することができるということに非常にうなった。
人は人から、或いは自然から影響を受ける。
「アークマギアは自分の意思で暴走している」と言うが、果たして彼らは"人間から悪意を向けられて暴走すること"を望んだのだろうか。そんな経験をせず、暴れたいなどと思うことなく過ごせたらその方が良かったのではないか。
自由な意思というものは仮想的かもしれないが、条件付きの意思というものはまだ「あるかもしれない」という気になる。
We are the world」という言葉がある。僕らは世界という現象であり、全てはビッグバンの余波に過ぎない。
「人に悪意を向けられ暴走した一輪サクヨ」という概念を語る上で、立花蓮太郎を欠かすことはできない。サクヨというパーソナリティは少なからず立花に依存しており、独立したもの(自らに由来する=自由な意思)では有り得ない。
「サクヨの暴走は蓮太郎のせいか、それともサクヨの意思か」という問答をする意味が果たしてあるのかどうか。事実は事実として、ただ「蓮太郎がサクヨを貶め、サクヨはそれに怒りを覚えた」ということだけだ。
僕は働きたくない。やりたくないと思ったことはやりたくない。今はたまたま父が生活費を出してくれているが、それがなくなったらおそらく死ぬと思われる。或いは、働こうという気持ちが湧いてくるかもしれない。
湧いてくる気持ちというのは自分の意識では制御ができない。叶わない恋だからといって諦めることが簡単なら人は悩まない。僕は『時計じかけのオレンジ』に出てくるアレックスのことを「性欲の奴隷」だと表現する。自らの内に湧いて出てくる「性行為がしたい」という感情に従うだけのマシーンとして、強姦の限りを尽くす。例えばする相手がいない人にとっては、そういった性欲の類は湧いてこない方が幸せなのかもしれない。僕は幸い「性行為がしたいけどできない」という悩みは抱いたことがない。
僕に座右の銘があるとすれば「なるようになる」だと思うのだが、そんなイメージと言えば伝わるだろうか。

 

 イズ
・最近の彼女は、その役割が割と明確化されてきている。
一言で言えば「或人のバックアップ」。支援するという意味もあるが、文字通りの意味でもある。
普段空気を読まずに(周囲を元気付けるために?)ギャグを発する或人が、珍しく落ち込み(?)大人しくしていたところに「いつものあなたならギャグのひとつでもかますところでしょう」と進言し、いつものペースを取り戻させる。

 

 不破諫
・或人を助けるシーン、あれも自他の境界線を壊す描写のひとつだ。
彼が或人を助けるのは、或人がこれまで不破と多少なり関係を築いてきたからこそであり、そういう意味では「或人は自らの行為によって暴走を抑えた」とも言える。
イズと同様、今回の彼らは"或人の一部"という側面が強かった。

 

 天津垓
・笑いながらやられるのはとても気持ち悪くて良かった。見た目としては攻撃されているという意味で受動なんだけど、彼は自らの能動性を信じている。
かと思えば、ヒューマギアが悪意をラーニングしたのは「人間の自業自得であり自分の責任ではない」であると言う。この混沌とした感じがたまらない。

 

 ゲスト
・前回の時点で鳴沢がビンゴを襲って市森に罪を着せた理由というのはなんなんだろうね。理屈で言えば、市森が証拠の捏造をしていたなどとなれば今回の結婚詐欺事件自体が揺らぐので彼の検挙率とやらにも響くと思うんだけれど。
単純に自分がでっち上げた犯人を擁護するビンゴに対して腹が立ったのか、裁判の雲行きが怪しくなったのでターゲットを市森に変えたのか。
・ビンゴに対して誘導尋問だと責めたけれど、市森も「〜あなたはそう感じている(。違いますか?)」と明らかに誘導している。裁判については詳しくないのだが、誘導尋問というのは相手側からの申し出がなければ認められないものなのか? 「今のは誘導尋問ではないか」という発言だって、裁判官に「確かに誘導尋問だった」と思わせる誘導足り得るという。

 


設定

・滅のいる部屋は完全にネットから遮断されているのね。まぁ当然か。アークマギアもゼツメライザーを使用していない(プログラムを書き換えてない)だけで、アークからの接続を受けてマギア化している訳なので、オフラインである限りはどれだけ悪意を抱こうともマギアにはならない。
・記録と記憶の違いってなんだろうね。最近またlain実況を見直しているんだけれど、まだ序盤なのであんまり突っ込んだ話は出てきてない。
ビンゴの(そして多くのヒューマギアの)長所とされているところの「(ゼアあるいはネット上にある)膨大な関連データを瞬時に参照できる」というのは、人間で言えば"暗記"をする必要がないということになるのだろうが、これは記録か記憶か。
記録媒体としての本(あるいは紙とインク)は、その情報を"使う"ことがない。使われるのみである。
では、人は記録能力と別に使う能力というものを持っているだけで、"記憶"という"記録とは異質なもの"があるという観念は幻想なのだろうか。
二次方程式の解の公式だったりスイヘイリーベのような語呂合わせ的なものと、自身の体験。ビンゴの法知識と、腹筋崩壊太郎の視覚映像。
この2つに差異があるように感じるのは、人間だけが特別優れた種であると言うような傲慢さと同種のものなのだろうか。
デジタルな差ではなく、アナログな差だと考えてみよう。
すなわち、意味との距離。それが大きくなればなるほど記録に近付いてゆくとしてみる。
人の"記憶"と言いきれそうなもの≦人の暗記的な記憶≦ヒューマギアとゼア≒人とザイアスペック<人,ヒューマギアと本
本当に妥当かどうかはさておき、間違っててもいいからとりあえずそれっぽく書いてみるというのは意味のあることだと思うので積極的にやるよ。
僕は以前「アギトとは、よく分からない暗闇(≒謎≒Unknown)を光で照らし、解き"明かす"知の戦士」なのだと気付いた。『語ろう』で言ってたグノーシス主義がどうこうという話とも繋がるので、今でも大発見だと自負している。
前回は理解することを「線を引く」と表現したが、今度は「明かす」とパラフレーズしていることになる。光が当たればよく見える様子を、筋道をきちんと認識できる様と重ねているようなイメージ。似たような用法として、「明らか,明瞭,判明」などがある。
すると、"暗"記という単語から「理解しないままに記録しておく」ようなニュアンスを感じる。
暗記というのは元々は"諳(そら)んじる"の漢字を用いた"諳記"表記であり、暗というのは当て字に過ぎないというのは知っているが、当ててみてしっくりきたというのはこの発見の面白さを削がない程度の説得力を持っているように思う。音象徴と似た程度の話だと思ってもらえばいい。
こちらは似たような用法に「暗躍,暗黙,暗算,暗殺」などがある。
ここでも「"よく分からない"のニュアンスあるか?」と思われるかもしれないので、いくつか補足をしておく。
暗算は本人ではなく他人から見たときに"よく分からない"。学校で、暗算ではなく途中過程を書いて残すようにと口酸っぱく言われたことがあるだろう。
暗殺の本来の意味は謀殺であり、隠れている必要はないとのことだが、そういった注釈が必要になるということは、字面から「誰が殺したのか"よく分からない"」といった意味を我々が強く感じているとうことの傍証となる。そもそも、だったら何故最初から謀殺でなく暗殺という訳語が与えられたのかというところまで踏み込んだ説明はなかなか見つからなかった。ちょっと無理やりかもしれないが、政治的に重要な人物が殺されると社会を始めとしたコミュニティに暗雲が立ち込めるという意味での暗なのかね。
話は逸れるが、不安のアンからも似たものを感じるな。安心とか安穏と言った語の持つふわふわとした毛布にくるまれるような(母親との一体感,自他区別のない)イメージは、今度は線を引かない方の"分からない"と親しいのかもしれない。

 

 

個人単位でものごとを見ようとすると、01に陥りがちになる。
わたしとあなたの間に絶対的な壁というものはなく、連続的でなめらかなものであるという認識を持つと、色々違って見えてくる。

 

86ma.hatenablog.com

前話

仮面ライダーゼロワン 第21話「異議あり! ソノ裁判」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第23話「キミの知能に恋してる!」 感想

 

映画

ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

仮面ライダーゼロワン 第21話「異議あり! ソノ裁判」 感想

キャラクター

 飛電或人
・確か13話で一度だけ「不破さん」って呼んでたけど、そろそろ「なんで名前で呼ばないの」って声が僕の目にも自然と入ってくるようになってきた。
二次創作が盛んな界隈では呼称表なんてのがよく見られるけど、実際人の呼び方って意外と個性とか関係性が出るよね。
僕は昔からほとんどの人に「やんま(くん/さん/たまに氏)」という愛称で呼ばれてきたし名乗ってきたんけど(まぁ最近は関わる人の年齢層が上がったのもあって普通に苗字のことも増えてきたが)、何故か僕が他人を呼ぶときは苗字のことが多いのよね。愛称の場合、かなりの確率で頭文字を伸ばす傾向がある。「なーさん」とか「ちーさん」みたいな。なーさんっていたなぁ……。小学生の頃、あいつのシール欲しさに("ノリ"もあるけど)クラスメイトのパシリみたいなことやってたっけ。
苗字呼びって、あくまで名前や愛称と比べるとだけど、屋号みたいな"所属"としての色があるよね。
最近の唯阿なんかは特に「ZAIAの人」という所属以外の特徴が消えてるよな、なんて冗談はさておき、距離を感じるものではある。ゼロワンにおいてこの"距離"はキーワードだって話はもうしたのでこちらをどうぞ。
(参考:仮面ライダーゼロワン 第10話「オレは俳優、大和田伸也」 感想)
・今回、或人は被害者の有罪/無罪という問題を棚上げにして、「ZAIAが反則行為(レイダー関連)をしている」という無関係なところでこと(お仕事勝負)を解決しようとしている。
「以降はこんなことやめてくれ」って意味とも取れるが。
前者として解釈した場合、なんでこれまでしてこなかったのかについては、前回言ったように「ヒューマギアも暴走してたから」で通るとして、或人の心情としてどうなのかという風に考えてみると、単純に目の前の不正に食って掛かってるだけなのか、負け続きだから五番勝負をもう辞めたい(或いは今回は不戦勝ということにしたい)という目論見があるのか、両方か。

 

 天津垓
・唯阿「有罪判決が下れば我々の勝ち、無罪ならそっちの勝ちという訳だ」
随分と極端なゼロイチだなぁ。確かに無罪というのはかなり大きなことだけれども、一口に有罪/無罪と言っても色々ある。
証拠不十分での消極的な無罪ときちんと立証された無罪では意味は違うし、当然ながら証拠捏造なりなんなりといった詭弁的な有罪とそうでない有罪も違う。
もしZAIA側がそういった不正を容認していないなら、まぁこの大雑把さはむしろ飛電の利なのでいいけども、ここまできてよもやそんなはずはないもんな。
飛電より規模も大きいみたいだし、ゼツメライザーを使ったり殴ったりなどといった蛮行も、ある程度なら情報操作によって隠し果せる自信があるのかもしれない。
・銃刀法違反や私的制裁(暴行)について口を出すのは無数の特撮作品を敵に回す行為と言っても過言ではないので、いちいち取り上げません。実際にそれらを行使してるのもおおよそ正当防衛の範囲であることが多いし。
・一時的な感情の高ぶりで暴走してしまう或人より、おそらく自覚しながら淡々と理性的に犯罪行為する天津の方が怖い気もするけどね。前者は程度問題とはいえ誰でもあり得ることだけど、後者はいわゆるサイコパスでしょ。
説得可能性という視点で見れば、後者の方が楽かもしれないけど。

 

 イズ
・「ゴリラですか?」
腹筋崩壊太郎といい、ネットの反応に反応してる印象というのは確かに受ける。
でも逆に「ネットでウケたことを知っているならば、意識的にそういうネタを避けなければいけない」のかと考え始めると、よく分からなくなってくる。
ネット民がゴリラだと形容したくなるのと同様に、イズがそれを思い付く可能性だってない訳じゃない。オンドゥル語だって「実際そう聞こえる」という人が多いからこそ話題になってる訳で、このケースに限ってはまずないとは思うが、仮に公式が自発的にネタにしようと画策していたとして、ネットの民がたまたま先に話題にしてしまったとしたら、公式が予定通りネタにしたのは「ネット媚び」になってしまうのかどうか。
ことの真偽は関係ない。そういう一風変わった視点から見てみるのも面白くないですか、というだけの話なので。

 

 弁護士ビンゴ
・所謂"ウソ発見器"的な機能があるとのこと。この間やってた『カイジ』では「怪我をして意図的に心拍数を上げれば利根川の時計は使えない」とか、『PSYCHO-PASS 3』では「自分が犯罪に加担しているという自覚がなければサイコパスは曇らない」みたいな話があった通り、この手のものというのは鵜呑みにはできない。
「心拍数がある値(平常時)と比べ高い」という客観的事実から「嘘をついている」という新たな事実を導き出すためには、どうしても論理的飛躍、すなわち脳内補完が必要になる。
そしてそれは、人間が常に行っていることでもある。
いわゆる直観(直感)というやつ。
おそらくあれは無意識においてなされた、過去の膨大な"記憶"に基づくヒューリスティックな判断だろう。
検事の市森も、最初の"仮説"として「この人は怪しい」とアタリをつけていた(バイアスをかけていた)かもしれないし、ひょっとすればそれだけを根拠に証拠の捏造すらしているかもしれない。
事実の持つ本質的な意味のみを捉える代わりに発展性のない演繹法と違い、過去の傾向(具体的事象)から未来を予測するような帰納法は、必ずしも正しい答えを導けない。
誰でも天気予報に踊らされたことくらいはあるだろう。
「10%だったのに土砂降り」「100%だったから濡れないよう準備したのに小雨じゃないか」とか。
"敢えて"降水確立とはあまり関係がない降雨量の話とごっちゃにしたが、人間の脳みそというのはこういった勘違いをよく起こす。これはもう仕方のないことだと言って良い。
少し違うが、「1%の確率で当たりが出るガチャを100回引けば必ず当たりが出るか」みたいな話もあった。引いたものを戻さない場合(いわゆる天井なし)に置いては、100回の試行で1%が当たる確率は60%そこそこだとかなんとか。
これを聞いてからというもの、僕は"確率"というものになんの意味があるのかよく分からなくなってしまった。
そりゃまぁ、相対的に30%と50%の確率を比べてより高い/低い方がどうこうみたいな判断には使えるだろうけども、僕の直観が確率に期待していたのはまさに「100回やれば1回当たる」みたいな保証だったからだ。
……まぁどうでもいい話、僕自身は割とソシャゲにおいては運良かった方だと思うけどな。1年ほどやってたFGOのガチャも、完全に無課金なのに月に一度くらいのペース(施行回数は知らんけど配布石と呼符だけで回せる程度)で星5出てたし。
そして、じゃあこの雑学を自慢気に披露する人たちが新たに出した63%という確率は、果たして「100回やれば63回当たる(≒160回やればさっきの1%のが1回当たる)」種類のものなのかといえば、それもきっと違うのだろう。
この脱力感が何に由来するものなのかと考えてみると、結局僕らが「0か1か」で物事を捉えようとしている(にも関わらず妥協する傾向にある)ことに突き当たる。
「雨は降るのか、否か」「当たるのか、否か」。
ど〜〜〜しても濡れたくないなら傘を必ず持っていくようにすれば良いし、ど〜〜〜しても外れたくないならガチャなど引かなれければ良いはず。
そして「ど〜〜〜しても当てたい」というのは不可能だという現実を受け止めるしかない。460回ほどで99%になるらしいが、461回目だろうとなんたろうと1%には変わりないのだ。
1/100という確率は「例えば100面サイコロの1面に当たりがある」というだけの意味しかなくて、逆に「何面サイコロか」という事実から「何回で狙った面を出せる」という情報を導くことはできないのだ。
という文章でさえ、どうしようもなくゼロイチだ。「できるか、できないか」というところに話を落とし込んでいる。
エヴァンゲリオンの新劇場版『YOU ARE (NOT) ALONE. 』を想起するが、"NOT"を差し込んで成立させることができない言葉で語るとはどういうことなのだろうか。言語にそのようなことは可能なのか。
「孤独か、そうでないか」という視点でのグレーな回答は結局「完璧に孤独か、そうでもないか」というベン図にスライドするだけである。僕には"も"を挟む程度の抵抗しかできない。
世界に線を引き区別する以外の方法で、人が何事かを理解することはできないのだろうか。そうする必要が果たしてあるのかもそれはそれで疑問ではあるけれど。
・単純な話だけれど、誰かが捏造できるということは被告人が自分のためにアリバイのあるタイミングでツイートしたことにもできるということなので、今回のビンゴの話で弁護側が一方的に優勢ということにはそんなにならない。いつも通りイズの言ってることは的外れ。
というか、実際今の法はどうしてるんだろうね。IPアドレスを特定することはできても、端末の向こう側にいた人間を特定することなんてできるんだろうか。匿名性の強い弱いみたいな話もあるけど、これはそれ以前の問題だよな。
ネカフェとかなら監視カメラもあるかもしれないが、基本的には「なりすましかもしれない」なんて悪魔の証明もいいところというか、どうとでも言えてしまうのでは。
とはいえ、仮面ライダーはこの問題と非常に親和性が高い。
ここで言う端末と人間の関係性は、そのままライダーのガワと変身者に当てはめることができる。
アギトだからといって翔一くんだとは限らないし、ファイズだからといって持ち主であるはずの巧だとは限らない。
初代『仮面ライダー』にまで遡っても、そもそも"変身"という事象からして「本郷猛だからといってあの見た目だとは限らない」という解釈が可能であるし、ショッカーライダー以前に2号という存在も「仮面ライダー(バッタ怪人)だからといって本郷猛だとは限らない」ということを表している。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)

でも、だからこそ逆説的にというか、コントラストとして交換不可能性を謳っている(やっぱりファイズはたっくんじゃないと)という捉え方もできるかなと最近は思っている。
嘘つきました。今さっき思い付いた。
ってほどでもないけど。薄々は結構前から思ってた。
さっき一度否定した「裁判が一度なら〜」というイズの台詞、事実に即しているかは別として、そういう意味では興味深い内容ではあるのよね。
"客観的な正しさ"なんて、イデア的で想像するしかないものであって、僕らには知る由もない。古美門に言わせれば「うぬぼれるな。我々は神ではない、ただの弁護士だ。真実が何かなんて分かるはずがない」となる。
今は妥当に思える結論が、永遠にひっくり返らない保証なんてどこにもない。
以前ジオウについて似たような話をしたな。「ある時点のソウゴにとっては、自分が渡していないのにレジェンド達がブランクウォッチを持っていることはおかしいことだが、これから先 過去に遡って渡せば辻褄は合う。タイムパラドックスというのは、永遠に解消されない保証がない限りパラドックス足り得ない」と。
ギャンブルでも同じようなことが言える。未来が分からないから"適切な引き際"が分からない。この例が一番分かりやすいと思うが、長く行く末を見守ればいいという単純な話でもない。僕は必要以上に不安になってしまうのでテストの見返しはしないことにしているのだが、これもそうかな。
今を生きる僕らは、その時その時で「暫定的な答え」を出して行くしかない。
意見を変えることを手のひら返しだなんだと言って責めるのは、相当に節操がないとかでもない限りナンセンスに感じる。

 


設定

・腹筋崩壊太郎のデータが残ってることに違和感を覚えたが、よく聞いたらこの事件が起こったのはつい先日の話なのね。劇中での描写はなかったが、あの後 再生産された個体がいて(或いは元々複数いて)、そいつの話をしてるのか。

 

 

僕はスマホを手に入れるまでは普段から辞書を持ち歩いてた程いちいち物事を調べる癖があるんだけれど、ビンゴについては徒労すぎた。なんでビンゴゲームがBINGOなのかについては「へぇー」となる説明は全く見当たらなかったし、童謡も文字を消してくのがゲームと似てるな(あるいは逆か)という調べなくても思い付いた程度のことしか分からなかった。どっちが先なのか、関係があるのかどうかすらさっぱり。name-oってなんだよ。BLEACHのED歌ってた人がなんか似たような名前だったな。
バーニーっていう紫色した恐竜のキャラクターを見つけて懐かしいなってなっただけ。ちかれた。

 

ゼロワン感想一覧

前話

仮面ライダーゼロワン 第20話「ソレが1000%のベストハウス」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第22話「ソレでもカレはやってない」 感想

 

映画

ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想(ネタバレなし)

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

ブログ2周年の振り返り

祝え!!!
平成ライダーを見返し、リアタイを超え 過去から未来へ感想を残す予定のブログ。その名もやんまの目安箱。
実に開設2周年である!

はい、この構文便利ね。そんな訳でもう2年ですよ。特に書くこともないんですけどね。
振り返りってことで記事の紹介でもしようかなと。

まずは今年力を入れて書いた記事。

 


・"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として

今年と言わず、これまでのどれよりも熱を込めて書いた記事がこれ。
当ブログのメインコンテンツでもあり、僕の人生を語る上で欠かすことのできない「仮面ライダーシリーズ」に対する思いみたいなものをすべてぶつけた。
仮面ライダーのファンはもちろん、「こんなのもはや◯◯じゃない」などといった声が上がる他のシリーズファンにもぜひ読んで欲しいし、既に読んだ人も何度となく読み返して欲しい。

86ma.hatenablog.com

 

 

玉座を空ける『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』 感想

円盤も発売して余韻冷めやらぬOQの感想記事。
映画の感想としては初の各話感想フォーマットによる箇条書きで、細かいというか具体的な話が多い。
実質的なメインは、最後の方の長文。ざっくり言うと「瞬瞬必生は素晴らしいテーマだけど乱用するな」という話。

86ma.hatenablog.com

 

 

・ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想
仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

多分まだ公開中の令ジェネ感想。前者がネタバレなしで、映画のテーマに関連した抽象的な話。後者がOQのと同様に具体的な描写についての感想。
前述した「仮面ライダーの定義」を踏まえた上で、自由意志とは何なのか、人間の限界とどう向き合うべきなのかなどともう一歩踏み込んでいる。

86ma.hatenablog.com

86ma.hatenablog.com

 

 

・感想を書くとは
・ブログで感想を書きたい方へ

前後編として書いた訳じゃないけど、結果として続きものになったのでセットで紹介。
前者はブログでの感想を始めとして色んな発信行為についてかなり推奨するような内容で、後者は反対にそれに対するブレーキとして書いたもの。

86ma.hatenablog.com

86ma.hatenablog.com

 

 

ニートによる「仕事論」

久々に書いたエッセイ記事。自分の経験を元に、労働の義務とはなんなのかじっくり考えた。
仮面ライダーの話と違って全く無縁という人はいないだろうから、ぜひ色んな人に読んで欲しい。……ようなそうでもないような。

86ma.hatenablog.com

 

 

ゼロワン感想

86ma.hatenablog.com

 


トクサツガガガ感想

86ma.hatenablog.com

 

 

ポケモン感想

86ma.hatenablog.com

 

 

ついでだから、この2年間でより多くのPVを得た記事ベスト10も貼っておこう。

小説 仮面ライダーエグゼイド ~マイティノベルX~ 感想

手品のような作品『仮面ライダーエグゼイド』 本編感想

仮面ライダーは「子供向け」なのか

アンチが語る『仮面ライダーエグゼイド』の良さ

クウガへのカウンター『仮面ライダーアギト』 本編感想

独りよがりな意欲作『仮面ライダークウガ』 本編感想

ジオウにおける世界観/世界線の考察というか想像

「ゼロ度の炎」における戦兎の落ち度と猿渡の意思

どこまで本気か分からないギャグ作品『仮面ライダービルド』 本編感想

「ミニプラ キシリュウオー」の分割が優しい

 

 

TwitterでのいいねRTとかコメントとか、嬉しいしモチベーションにも繋がってます、ありがとうございます。
今後とも当ブログをよろしくお願いします。

仮面ライダーゼロワン 第20話「ソレが1000%のベストハウス」 感想

キャラクター

 飛電或人
・「元に戻ってよかったなぁ」
バックアップデータがあるから確かに"元に戻って"……いないんだよな、これが。
前回のサクヨはともかく、今回の最強匠親方達は「嫌がらせをされた経験と人間に抱いた敵意」の情報が明らかに、そしてどう考えても意図的に抜き取られた上で復元されている。
「時計の針は未来にしか進まない」とは前作『ジオウ』のセリフだが、これはタイムマシーンが存在する世界観においては一見成立しないことなんだけど、そのタイムマシーンに乗る"人の記憶"を頼りにすることで成立する話なのね。
「いくら過去に戻っても、時間旅行者にとってみれば地続きの時間」であるという話。伝わるかな。
Aさんがカップラーメンをこぼしてしまったからと3分前の過去に戻ってやり直そうとするとき、確かに客観時間としてはラーメンをこぼす前は"過去"だけど、Aさんが「タイムマシーンでやり直そう」と思っているのは、これから先の計画……すなわち"未来"だよねと。
これをひとつのアナロジーとして、例えばゲイツがソウゴを倒すか倒さないかで何度も迷って何度も辞めることも、同じことの繰り返しなんかじゃなくて、回を追う毎に意味合いが微妙に違うんだっていう話なんだけれども、これを今回のヒューマギアについて考えてみると、なんと成立しないのよね。

スマイルは、人間に敵意を抱いた後で"改心"をした訳では全くなくて、本当の本当に針(記憶)を巻き戻されて「敵意を抱く前に戻った」。
敵意がただのプログラムではなく感情であるならば(感情とは何か?というのは僕にもよく分からないが)、説得するということも不可能ではないはず。そしてそれが成功した場合、再び暴走することはきっと少なかろう。
だがそうではないので、同じことをされればまた同じように暴走してしまうことが予想される。今回は一応なんか対策を打ったらしいけど、効果があったとは明言されていない(新屋敷は今回スマイルに悪意を向けなかっただけ)ので、次回以降またヒューマギアが暴走してもおかしくはない。
『ジオウ』ではタイムマシーンの存在によって客観時間の方がブレるので主観時間に軸を置いたけれど、『ゼロワン』では(正確には、今のところはヒューマギアに限る)、客観時間はブレないが、記憶という主観時間の方がブレている。
或人の言う"元の状態"というのはあくまで「人に敵意を抱く前」だということなんだろうけど、記憶の取捨選択ってそれこそ時間と記憶は紙一重なので、結局倫理的には過去改変と同じくらいの重要性を持つのよね。本来、過去を帳消しにするほどの新たな経験を足し算することでしかなし得ないという点で困難な"洗脳"が、比較的簡単にできてしまうことになる。既存の価値観を消した上でなら足し算(ラーニング)も簡単になるだろうし。
これがザイアスペックによって、人間にもできるようになってくると更に面白いんだけど。
・或人が一時的に売上を気にする(それも人の笑顔を差し置いてまで)の、キャラブレと言ってしまえばそれまでなんだけれど、僕は「天津の言葉で揺らいでいる」の範疇で納得できる。そこは一番揺らいじゃいけないとこだろとも思うけど、本当にこの1話の一時的なことなので。
いくらチョコが好きな人でも、たくさん食べた後は一時的に食べたくなくなることもある。でも大きな目で見れば「チョコが好き」で偽りはない。そんなイメージ。
というかまぁ、五番勝負に負ければ買収されてそれこそ利益優先の社風に変わってしまうかもしれないんだから、大局を見れば理に適ってないこともないんだけど。だから問題は或人が大局を見るような人間かどうかという点であって、それこそ天津にその視点を与えられたというのはきっかけとして普通に通ると思う。
・スマイルが「せっかくいい家を見つけたのに……」と落ち込む様子を見て五番勝負の継続を決めるんだけど、大城本人は勝負と関係なく依頼をしているはずなので、関係は本来ないと思われる。
となると、このときの或人はひょっとすると「スマイルが自信を持っているからきっと大城はこちらを選ぶはずで、だとするならこの勝負は勝てるから継続すべき」という打算的な考え方をしていたと取ることもできるかもしれない。これは理想一辺倒だった彼からすると成長と言えるものかもしれない。まぁ向こうを反則負けにするにはこちらも暴走してるから無理があるってのもあるし、結果的にも負けてるけど。
・親方を5人に増やすって発想は僕には全くなかった。モノとして捉えてるからこその機転って感じですごい。皮肉じゃなくね。
・飛電が会社の利益じゃなく社会の利益を追求するというスタンスを取るなら、株式会社ではなく特定非営利活動(NPO)法人という形式の方が良かったのでは、とちょっと思った。制度的にどんな違いがあるのかは寡聞にして知らないが、綺麗事を重視するならそっちの方が良さげではある。
……でも、株式会社というかたちで社会の利益を追求できたら、それが一番綺麗な気もする。
つまり、株主たちが自らの意志で綺麗事を支持し、株式会社でありながら事実上のNPOとなる状態。是之助はそこまで考えていたんだろうか。

(参考:NPOの基礎知識 《まとめ》- NPO法人DREAMISLAND)
・前回レイダーを倒しても変身している人間には大した影響がないことを知り、今回はマギア同様自ら手を下した。
天津が前回やれたのは冷徹だからというよりは単にレイドライザーの仕様を知ってたからというのが強いと思うけど、「仕事だから」というのは、人がさまざまな決断に対して鈍感になれる大きな理由のひとつだ。
今回は特に、その側面に注目すると非常にまとまりがよく見える。結果として、或人の非情かつ共感的でない割り切り(レイダーを倒す)が新屋敷が負けを認めるきっかけとなった。詳しくは後述するが。

 

 天津垓
・或人と対照的に会社の利益を第一に考えるキャラというのは分かる。フェアプレー云々もあくまでそのための手段であって目的ではないんだろう。
ヒューマギアと違ってレイダーの場合はセキュリティが云々という話にはならないし、相次ぐ暴走は確かに「謎の男がZAIAを貶めようとしている」という筋書きでそこそこ通りそうではある。飛電に対しても言ったように、人を見る目がないんじゃないのという視点からの批判はできようが。

 

 不破諫
・滅とのやり取りは至極クウガ的でつまらない。僕は以前、特徴を失ったキャラクターに残るのは役者さんの人間的な魅力(厚み)だろうと言ったけど、まぁそれ以上でも以下でもないというか、「岡田さん(砂川さん)の顔や声が好き」って人以外にとってみれば大して面白くもない絵面だなと。
亡(仮)も、あそこまで派手に演出しておいてそれに見合った正体明かしがあるとは思えない。既存のキャラはみんな一度はその可能性を考えてみたし、ぽっと出ならそれまでだしで、どう転んでも驚くことはできない気がする。「実は或人の別人格でした!」とかなら多少は驚くかもしれんけど、その後うまく扱えるとは到底思えない。
・アサルトウルフのダメージは克服したはずなのにパンチングコングを使う理由としては、例えば捜査等で疲労が溜まってたなんて可能性がある。万全の体調なら耐えられるけどそうでない場合は不安、と。こういうところを杓子定規に捉えていちいちモヤモヤするのはもったいない。

 

 住田スマイル
・「何故売上を意識しなければならないのですか?」
これはスマイルがどうこうというよりは普通にラーニングの仕方が悪いんじゃないか? 彼女の中で優先順位が低い(価値観の問題)とかじゃなくて、そもそも目的に入っていないような言い方だもん。
悪いというか、ただ売上勝負には向いてないということだけれど。
アークが人間の悪意ばかりをラーニングしているように、ゼアは綺麗事しか知らないんだろうか。
・家を擬人化するのも今回の面白ポイントのひとつだったな。確かにそういう文化あるよな。擬人化と言いつつも本当に人と同程度の権利は認めていないというのがミソで、人がヒューマギアに対して抱くのと似たような心理をヒューマギアが抱くというのは、逆に人間とヒューマギアを同じく扱っているからこそ出てくる発想でもあると思う。
ただその人間というのはあくまでフィクションの中の人間であって……みたいなのも含めて面白い。

 

 新屋敷達己
・「心にもない笑顔しちゃってさぁ!」
営業スマイルはぶっちゃけお互い様よね。ここで書いちゃうと19話のネタが減るのであんまり書きたくないけど、更新が滞ってる今となってはなりふり構ってられん。
そもそもの話、仕事において心のこもった本心からの笑顔が発せられる状況なんてかなり限られてくる。自分が喜びを感じなくてはいけなくて、その上営業スマイルの代わりになる場面となれば、本当に「客の喜びと自分の喜びが合致したとき」しか認められない。
しかも「自分の売上が上がって嬉しい」のような卑近な笑顔でもいけない。
相手に良い家を紹介することそのものに喜びを感じなくてはならない。
前回の文脈を引きずるなら、「自分が自分の立場でいいと思う家しか薦めてはいけない」ということになる。これがどれだけの暴論かというと、例えば客が自分の嫌いなタコを買おうと持ってきたら、「これは美味しくないですよ。それどころか食べたら吐き気がします」という公私混同ここに極まれりといった応対をすることになる。
スマイルのやっていることは、「僕は嫌いだけどこの人はタコが好きで、きっと食べて喜びを感じるんだろうな」というのと同じこと。"相手の立場"という発想が、あの新屋敷の詭弁にはない。本人は「大城様と同じ」と言いつつも、本当に共感できていた訳ではなかったというのも皮肉でいい。
「仕事だから」と我慢している際の人間には、ヒューマギア同様、そのような意味での心はないと言っていいだろう。
「こんなことしたくない」のような自分の気持ちは、自分によって"殺されている"のだから。
僕がこの間記事に書いたような、誰もが仕事において我慢することのない世界が訪れたならまた話も変わってくるが、少なくともゼロワン世界ではまだ成り立たない。

(参考:ニートによる「仕事論」)
・ライズフォン使ってるのはちょっと笑った。プログライズキー同様、ZAIAでもつくってるんだろうか。

 

 大城銀乃丞
・「君は何故家を売る?」
物語的な要請のためにこんな大仰な質問を投げかけているようにも見えるけれど、そういえば僕も実際こんな風に問い掛けたことがあるんだよな。地活のスタッフさんに「あなたはどうして福祉の仕事をしているのか」と。
あの時どんな気持ちだったのかハッキリとは覚えていないんだけれど、「この人は信頼できるのか」みたいなことを考えていたような気がする。バイト中に自問自答したこともあったな。
・確かに「広い家」とは言ってないが、彼は「大きい家」を要求していた。どちらも意味的には大差なかろう。つまり、スマイルは"言葉的な要求"とはむしろ反対の家を紹介したことになる。
これは、自分でやらず他人に依頼することの意味に関わってくる重要なテーマ。俳優さんの圧がすごいから全部分かり切ってたような気にもなるけど、僕にはそうじゃなくて「自分にはなかった視点」を提供してもらえたという流れだと解釈した方が収まりがよく見える。
それこそが必ずしも共感しない、"仕事"だからこその利点なのかもしれない。

 

 


今回はマギアVSレイダーが見られたので、それだけで僕は満足です。ひとりの人間とひとりのマギアが対等にぶつかり合うというシチュエーションそのものに、令ジェネを見た僕としては価値を感じる。仮面ライダーに選ばれなかった者たちにも変身する権利≒発言権がある。
結果的には強くなければ仮面ライダーに倒され封殺されてしまうのは、其雄の考え方からして仕方ないんだけれども。仮面ライダーシステムはメタ的にも特別感があって、実際強いからね。

 

次話

仮面ライダーゼロワン 第21話「異議あり! ソノ裁判」 感想

 

映画

ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想(ネタバレなし)

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

ニートによる「仕事論」

僕はニートだ。
高2で体調を崩して受験を諦めてから、アルバイトも1ヶ月以上続けた試しがないまま20歳になり、先日成人式及び同窓会に参加して「今何してるの?」「何もしていない」というやり取りを繰り返し、自分の無職ぶりを痛感している。

ギリシャの哲学者達は、奴隷に労働させて空いた時間を思索にあてていたと聞く。
そんな彼らよろしく、僕も父のおかげで持て余した暇をもって日々色々なよしなしごとについて考えさせてもらっている。僭越ながら、少しでも労働に従事している多忙な方々の"代わり"になればと思い、こうしてブログというかたちで発信をしていたりする。
自分の生活や経験から得た知見なので、いわゆる自分語りが必要に応じて挟まることは先に断っておく。

 

目次

 

労働の義務は何のため

当然といえば当然のことだが、金銭的な意味で親にすべてを頼っている生活をしている(そしてそれを肯定している)と、色んな人から「お前はクズだ」などと言われることがある。
その際に根拠とされるのは、概ね「勤労の義務を果たしていない」ということだ。
ただ、ここでは実は国家に対する義務であるとかいった細かい解釈の話は一旦置き、多くの人がイメージする「人は働かなければならない」という道徳律に近いものを扱うこととする。

「その義務は何の為にあると思うか」と問うと、大抵はまず「納税の義務を果たさせるため」だと返ってくる。
だが、僕は別に脱税をしている訳ではない。国の定めるところに従い、所得税は所得が基準を越してないので払わなくてよいし、住民税などは父がではあるがきちんと払っている(はず)。ちなみに年金はとりあえず納付猶予ということにしてもらっている。納税の義務を根拠に、「ニートたる僕に対する嫌悪感」を説明することはできない。


僕自身は、労働の義務とは「社会の構成員として、何らかのかたちで社会に貢献する(働きかける)義務」だと感じている。
そしてその意味では、微力ながら僕も"働いて"いる。
まずこのブログ。自分自身に収益が入るようには設定していないが、表示されている広告によって"はてな社の広告収入"の一助となっているはずである。Twitterでの活動も同様にカウントできる。
また、僕は日中「地域活動支援センター(通称地活)」という障害者のための施設に通っており、むしろ利用料100円を払った上で、皿を洗ったり洗濯物を畳んだりといった簡単な作業を好んで手伝っている。他の利用者にスマホの使い方を教えたり、勉強中の手話で聴覚障害者への簡単な通訳をした場面もある。
あと細かいところだと、道に落ちてるゴミを拾うことも割とする方だと思うし、スーパーや本屋で陳列が乱れていたりすると直したくなる性分なのでそれもよくやる。この間は道に迷った観光客を、30分ほどかけて駅まで案内してあげたりした。
文章の執筆や家事めいたこと、手話通訳にゴミ拾いに陳列棚の整理など、有り余る暇を利用して"仕事"となり得る活動自体は、人よりは少ないかもしれないがしているし、僕はこれらの行動に少なからず"やり甲斐"を感じて、そこそこに充実した日々を送れている。

 


抑圧されるマジョリティの悩み

話を「ニートに対する嫌悪感の根拠」に戻すが、僕に思い付くのはあと2つ。
まずひとつは「みんな我慢して働いてるのにお前だけズルい」という嫉妬。

これはここで扱うには根深過ぎる問題だ。
正直、「働きたくない」なんて全人類が思っていてもおかしくないだろう。
よくマイノリティがマイノリティ故に苦労するという話が取り上げられる。これは言わずもがな「少数者のためにわざわざコストをかけることに対する抵抗感」がもたらすものであるが、見方を変えれば対象が少数ならばかかるコストも高が知れており、その気になりさえすればなんとかなる可能性が高いということにもなる。
逆にこの「働きたくない」という悩みは、マジョリティ故に抑圧されてしまう。そう思う全ての人がいきなり働かなくなったら、この社会は立ち行かなくなってしまうだろう。
マイノリティは「みんな我慢してる」の"みんな"に含まれていないという点でこれを逃れ得るが、マジョリティに逃げ場はない。
ニートに限らず不労所得や莫大な富を得た故に働く必要がなくなった人たちにまで、その「ズルい」の牙は向けられる。

余談だが、以前プリキュアシリーズにおいて初となる"男の子が変身するプリキュア"が生まれたことがあった。その際、一部フェミニストから「結局救われるのは(男児向けアニメを好む女の子ではなく女児向けアニメを好む)男の子で男尊女卑的」という声が上がったのを覚えている。
女性仮面ライダーは一応だいぶ前からいたなどという話はさておき、差別されてきた誰かが救われることに対してまで「ズルい」は付きまわる。
女性が救われるまで他の誰も救われたらいけないって一体どういうことなんだろうね。できるところから少しずつ助けていけばいいのに。
性別にとらわれない生き方をできる人が生まれたことは、少なくとも男女平等を願うなら喜びこそすれ、批判するようなものではないと思う。僕はそういう意味で、自らを平等主義ではなく"女性主義"と呼ぶ人たちのことをあまり好んでいない。

 

おそ松さん現象」

これらの「ズルい」という感情に対する根本的な解決は、技術の発展に期待するしかないように思う。
世界の需要と供給の接続効率を高めていくことで、まずはやりたい仕事に就きやすくする。例えばギターを求めているバンドと、バンドを探しているストリートミュージシャンを繋ぐようなイメージ。従来あった物理的な距離の問題なども、通新技術の発達によって解決し得る。北海道にいながら沖縄の会社に務めるようなことができるようになれば、就ける職の選択肢は広がり、仕事への不満は徐々に減っていくことだろう。すると「自分は我慢している」という感覚が緩和され、働いていない人への嫉妬心も減る。

最終的には、"仕事"という概念自体の解体が予想される。
上述した需要と供給の接続効率が極限まで高まると、「おそ松さん現象」とでも言うべきことが起こる。
おそ松さん』とは赤塚不二夫の『おそ松くん』を原作とし、ニートとなった6つ子の日常を描くギャグアニメであり、かなりの人気作となった。
もちろん『おそ松さん』自体はアニメスタッフが仕事として意図的に人気を取ろうと制作したものではあるが、例えとして「ニートの日常風景に需要が生まれる」というのは非常にキャッチーで分かりやすいのでこう呼ばせてもらう。
人の好みは千差万別なので、あなたの声や容姿、挙動や発言に至るまで、全てのものに「誰かが好む可能性」はある。
既にYouTuberなどというかたちで一般の人がアイドル的な人気を得る事例は起こっているが、それがもっと日常に溶け込むイメージ……というのは逆に分かりにくいだろうか。
「好きなことをして生きていく」なんて標語の通り、自分がやりたいことをやっているだけで、誰かがそれに価値を感じ、面白がったり必要としたりしてくれるようになったら、きっとみんな幸せだろう。
イメージはしにくいだろうが、例えるならば障害者アートの方が適切ではある。
重度の知的障害がある人でも、何らかの生産的な活動をすることはある。絵を描いたり砂場で山か何かをつくったり、気に入ったものを集めて"巣"のようなものをつくったり。そういったものを取り上げてみんなで面白がろうという取り組みだ。それが健常者にまで一般化されるような感じ。
趣味で書いた絵などに誰かが投げ銭をしてくれて、自分も気軽に他人の何かに投げ銭をする。
絵でもまだハードルが高く感じるなら、最近あったエピソードなんかでもいい。「今日こんなことがあってさ」「昨日こんなミスしちゃったんだ、笑えるよね」なんて他愛のない話にだって価値は生まれ得る。場合によってはそういう細かなエピソードを創作のネタとして買う人も出てくるかもしれない。実際、実話を漫画とかにしてる人いるものね。『私のおっとり旦那』とかかわいくて好き。
"苦労して我慢して手に入れたお金"でないのなら、そういったものに払う抵抗も減ることだろう。
詳しくは鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』という本の、中でもゲームプレイワーキングという話題についてを読んでみるといい。

 


プレゼントは一方通行

次に検討したいのは、当人が働かないぶん他人……親だったり国だったりが負担を被ることに対する義理の感情。

親に(強い)自由意志というものを認めるならば「義務の範疇を超えて養うのは個人の自由であり、他人が口出すことではない」で片が付いてしまう。国についても自ら勝手に社会福祉という制度をつくり、対象者も自ら吟味しているのだから同様のことが言える。
だがそれで終わってしまってはつまらないので、ここでは返報の是非について取り扱ってみることにする。


お返しをすることに非などあるのかと思われるかもしれないが、少なくとも僕は日頃から感じている。
至極単純な話だが、せっかくあげた厚意を、何が悲しくて熨斗つけて返されなければならないのかと、そう思うのだ。
例えば誕生日プレゼント。"交換"してしまうと、どうしても"チャラ"になってしまう感じがする。「それなら自分で買えばいいじゃん」なんて言う人(僕だが)が出てくるのが何よりの証拠。
「今月ちょっとお金ないからプレゼントってことで買ってもらって、相手の月までにゆっくり貯めよう」
「今月ちょっと余裕あるからプレゼント買って、忘れた頃に返してもらって喜ぼう」
みたいな風に考え始めると、実質的にやっていることは"お金の貸し借り"でしかなくなってしまう。


プレゼントとは本来、相手に得をさせたいという感情から発生するものであり、対価を求めると意味が違ってしまう。
もちろん、お互いがお互いにプレゼントしたい気持ちを持った結果として交換のような様相を呈すことはあろうが、重要なのは本人たちにその意図があるかどうか。
それが本当にプレゼントであるならば、その矢印は一方的なものでないといけないのだ。
だから……という訳ではないが、僕は昔から人からの厚意(特にモノ)に対しては、少なくとも意識的にはほとんどお返しをしてこなかった。
バイト先で差し入れを貰ったときも「ありがとうございます、いただきます!」以上のことが湧いてこない。今度は自分が……なんて、何年経っても出てこない気がする。
そろそろシーズンのバレンタインチョコなんかも、考えてみるとお返ししたことが滅多にない。人生で一回だけかもしれない。まぁ大抵はあげようかって言われたときに「ありがとう。でも、何も返せないけどいいの?」って言ってるからいいんだけどさ。……いいのか? 僕にとってはそれが普通なんだけど。おいしくいただいて、嬉しいなって感じて、それを伝えて終わり。
まぁ、くれるって言われたときの第一声が「何も返せないよ?」なのはちょっとオカシイ気もするけど。相手が見返りを求めてる前提の返事だもんな。ホワイトデーという文化があるとは言え。
でも見返りもなしに何かをもらえる前提なのも傲慢だし、ここは悩ましいところか。


そのような対応をしていて相手にどう思われてきたかは僕には想像することしかできないが、少なくとも僕が相手に厚意を与えた際は、それを返されてしまうと自分の厚意をなかったことにされたような気がしてモヤモヤする。
分かりやすさを重視して現金な表現をすれば、相手に5000円分の得をさせたかったのに3000円分のお返しをされてしまっては、相手の得は2000円に留まってしまう。それは自分の本意ではない。
上述した皿洗いや洗濯物、手話通訳に道案内などと言った行為がいい例だ。僕は直接的なお返しを得ないからこそ、そのような小さなことに"やり甲斐"を感じられる。これは相手から与えられるものではなく自分の中から湧き出るものであるので、「相手に得をさせたい」という目的に反しない。
あと、「ありがとう」も別に言って減るようなものじゃないので、僕はここで言っているような"お返し"には含めて考えていない。

うちには祖母がいるのだが、最近人並みにボケてきている。そんな彼女も必要とされたいのか、僕の洗濯をやりたがる。ボケのせいなのか彼女に任せると高頻度で靴下や肌着がなくなってしまうので、正直に言えば自分でやった方がはやい。だから彼女に任せる際は、自然と「やらせてあげてる」という認識になる。
父もそうだ。彼は僕の苦手な食べ物を知らないので、食事の用意をしてもらうとこちらも不満が溜まるし向こうもせっかくの厚意が無駄になってしまう。そういった理由から普段は食費という形で貰って自分で用意しているのだが、時たま「食費を与えた上で用意したがる」時がある。自分の子供の食べるものを管理するというのは、支配欲を満たしてくれるのかもしれない。ここでも僕は「やらせてあげてる」と感じる。食べられない訳ではないのなら、我慢して食べてあげる。
僕がやり甲斐を得たくてやっている行為と同じように、「本人がしたくてしていること」ならば、見かけの恩に関わらず負債の感情を負う必要はないだろう。
有り難い(≒珍しい)ことだとは思うものの、仮に相手が対価を求めていても、これらに関してはとても返す気にはならない。

 

以上の内容を踏まえて考えたとき、対価を得て相殺されていない分、ひょっとすると僕はそこらの働いている人よりもむしろ社会に対し"生産的かつ貢献的"に活動していると言えるかもしれない。
さながら、無償で僕の生活費を負担してくれている父のように。

人は誰しも、20年近く与えられっぱなしで生きる。その負債の感情を、今度は自らが次世代を育てることで精算しようとする。
そんなような話を、この間ご老人から聞いた。
人と人との支え合いというのは必ずしも2者間で循環させるだけではなく、よりマクロな視点で人から人へ、更に人から人へと巡り移ろってゆくものなのではないだろうか。

 


"働く"とは

現在市場にある多くのものは、生きることに必要とは言えない嗜好品である。
そういった重要度の低いものを生産することに価値が見出され、あなた方の"働き口"が確保されているのは、緩やかな「おそ松さん現象」によるものだ。社会の余裕が増えれば増えるほど、それまで価値が見出されなかったものにも目を向けるようになる。
髪の毛にフケが付いてるなんて、シャンプーなどなかった昔にはきっと誰も気にしていなかったことだろう。放置したからといって大した害がある訳でもあるまいし。
しかしそれを勝手に取り沙汰してお金をかけるようになる。
化粧などもそう。自分たちで「やらないといけない」という空気を醸成してお金を浪費する。
人の需要なんてその程度のくだらないマッチポンプなのだ。
たまたま今の時代に必要とされていない、日の目を見ていないだけの生産活動はごまんとある。それらを「価値がない」と切り捨てることは、諸刃の剣だ。自分たちのやっていることも、他人からそう言われてしまえば簡単に瓦解してしまう砂上の楼閣なのだから。


「生きるために、生きるのに不必要なことをする」というこの大きな矛盾が、当たり前のこととなって久しい。
今日の食料を求めて狩りをするような、従来確かにあったはずの必然的な結び付きに基づいた生活に戻ることはもはや不可能と言っても過言ではない。
であるならば、まだ価値を見出されていないだけの人々をむやみに否定せず、無意味なことにも意味が生まれ得るということを認めていくほかない。

 


働いていないことの何が悪くて、働いていることの何が善いのか、少しでもこれまでと違った視点を提供できただろうか。
最後に、何故僕が働いていないかという話をしよう。
スーパーでアルバイトをしていた頃、自分の働きに時給800いくらの価値が果たしてあるのかと自問自答した。
正直、ないと思った。
ミスも多ければ手際が良い訳でもない。障害特性によって自覚なく迷惑をかけているかもしれない。
お金が欲しいだとか親に対する申し訳なさを解消したいとか言った自分の都合を職場に押し付けておいて、自分は一体何を返せているのかと。
給料という形で対価を求める限り、自分はそれに見合った働きができているのかという悩みはついて回る。
そこから逃れようとした結果が、対価を得ないという比較的な安全圏から人の役に立ちそうなことをするという現在の状況になる。
祖母や父のエピソードのように、「相手のためだと思っていても実はありがた迷惑かもしれない」という不安は残るものの、大分気持ちは楽になっている。

僕にとっての「働かないこと」というのは「自分が得をしないこと」であって、それすら責められるといよいよもう行き場がなくなってしまう。
これまで綴ってきた内容は有り体に言えば、僕がそういった罪悪感から心を守るための詭弁に過ぎないのだが、そういったものにだって幾許かの価値は見出されるかもしれないという期待を込めて、記事として残しておく。