やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

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 Twitter等で見かけた話題について、何か思うことがあったら書くカテゴリ。メインコンテンツである作品の感想とは読む層が違いそう。

 

特撮

ほとんどの記事にはこのカテゴリがつくと思う。仮面ライダーはメインコンテンツなのでカテゴリだけでなく総括記事と、感想記事を体系的にまとめた記事のリンクも。

戦隊とウルトラマンに関してはほとんど知らないと言っても過言じゃないので、やるかやらないか、続くか続かないかは未定。

トクサツガガガ

 

仮面ライダー

―――大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想

―――"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として

――クウガ

―――独りよがりな意欲作『仮面ライダークウガ』 本編感想

―――クウガ感想一覧

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―――クウガへのカウンター『仮面ライダーアギト』 本編感想

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―――終わりのない戦い『仮面ライダー龍騎』 本編感想

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―――混沌への挑戦『仮面ライダー555(ファイズ)』 本編感想

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――

―――運命のマッチポンプ『仮面ライダー剣(ブレイド)』 本編感想

―――剣(ブレイド)感想一覧

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―――鬼はそと、福はうち『仮面ライダー響鬼』 本編感想

―――響鬼感想一覧

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―――現代の童話『仮面ライダーカブト』 本編感想

―――カブト感想一覧

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―――手繰り寄せ進む『仮面ライダー電王』 本編感想

―――電王感想一覧

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―――綺麗な物語から汚い現実へ『仮面ライダーキバ』 本編感想

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―――仮面ライダーディケイド暫定的まとめ

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―――手品のような作品『仮面ライダーエグゼイド』 本編感想

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―――どこまで本気か分からないギャグ作品『仮面ライダービルド』 本編感想

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―――仮面ライダージオウ レジェンド編(1〜16話) まとめ感想

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―――ゼロワン感想一覧

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―――セイバー感想一覧

 

戦隊

――タイムレンジャー

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――ゼンカイジャー

 

ウルトラマンZ

 

まとめ感想

 各話感想を全部読むとか相当な暇がないとできないっていうか自分でも読みたくないんで(僕としては、自分が全話見返そうという時におまけとして同時進行で読むのを推奨したい)、1つの作品を通しての感想はこのカテゴリにいれます。映画や小説なんかも"1つ"と数える。後はクール毎の感想とかも一応ここ。僕の感想の要点となる記事とでも言おうか……これらがコアメダルで、各話感想とかはセルメダルって感じ。"毎日更新"の満足感を得たいが為に書いてるみたいなとこあるからね、各話感想は。

あ、各話感想というのは、数話単位でより具体的で細かな感想を箇条書きにしたもの。記事タイトルに何話とか書いてあるのがそれ。ライダーのカテゴリどれかに飛べばズラっと出てくるはず。ほぼ毎日、書き溜めたものを作品順にローテーションで(例:クウガ1話→アギト1話→龍騎1話……)公開していってます。

 

ライダー感想一覧

例えば"クウガカテゴリーを開くと、クウガの話が主ではないが少し触れているだけのものも含めた記事が、新しい順に表示されてしまう。それだと使い勝手が悪いということで、下の画像のように、本編、まとめ、映画、小説、Vシネマ、ディケイドやジオウなど、その作品に焦点を当てた記事を中心に見やすくまとめたのがこのカテゴリ。

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書籍

多分小説版仮面ライダーが主となるだろうけど、一般の小説やその他の本についても時々書く。後は、おすすめの本について話した記事なんかもこのカテゴリに入れる。

 

映画

こちらも主にはライダーの映画について書くことになると思う。ライダーが落ち着いたらいろいろ見ることになるんじゃないかな。以下にはそれ以外の記事を載せます。

―――三葉は宇宙人?『君の名は。』 感想

―――エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想

―――現実と妄想、フィクション。そして自分『ビューティフル・マインド』『Serial experiments lain』 感想

―――本物の月光に見惚れる『BECK(映画)』 感想

―――夢への寄り道と現実回帰『ラ・ラ・ランド』 感想

―――A Clockwork Organ『時計じかけのオレンジ』 感想

 

アニメ

ここについては考え中。もしかするともう更新しないかも。あ、アニメ映画はこのカテゴリに入るか。

ヘボット!

――ヘボット!感想一覧

進撃の巨人

ポケモン

 

ドラマ

昔見て気に入ってたドラマをいくつか見る予定。最近物語ってのが何なのかってことを考えてるので、「子供/大人向け」みたいなうるさい枠を付けられない普通の作品も見たい。

JIN-仁-

トクサツガガガ

LEGAL HIGH

 

玩具

その名の通り、玩具について話す記事のカテゴリ。いわゆるレビュー的なことをするときもあれば"遊び"について考えたりもするかもしれない。この辺はまぁ気分次第。

 

雑記

いつもはTwitterで色んなことをぼやいてるんだけど「記事にするほどの文量にはならないな」と埋もれていくツイートもある。そういったツイートを脈絡なく貼って残しておくのがこのカテゴリの記事。過去に書いた記事を補足するような内容だったり、記事にはしないような珍しい話だったりが読めます。

"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として

「もはやこれは仮面ライダーじゃない」
そんな声を毎年多く聞く。では仮面ライダーであるとは何なのかと問うたとき、仮面ライダーの名を冠する者すべてと過不足なく一致する定義を答えられる人はなかなかいない。

仮面を被り、バイクに乗る。その簡単な2項ですら、少なくとも劇中に描かれる限りでは守らないキャラクター達がいる。
ドライブが乗るのは主だって車であるし、RIDEを日本語の"乗る"と解釈しても、近年ではそもそも"乗り物"を持たない者もいる。直近だとバルカンやバルキリー……はかろうじて変身前に黒いバンに乗っていたが、滅亡迅雷の2人は現状、迅がゼロワンに馬乗りになっていたくらいである。
いわゆる複眼,触覚,Oシグナル,クラッシャーなどの外見的な特徴も、ひとつも持たないものこそなかなかいないが、たったひとつ満たしていればそれで良いのかと思う人も多いだろう。
改造人間であるか否かという点も、放送コードか何かによって守られていない。

現在ある程度の説得力をもって世間に受け入れられているのは、
・同族争い,親殺し,自己否定の3つを満たすこと
・悪の力を善に転用すること(敵と同じ力を使う)
・人間の自由のために戦うこと
くらいのものである。

以上の現実を踏まえた上で、「仮面ライダーの定義」を打ち立てることについて考えていくというのが本記事の主題だ。

 

目次

 

 

 定義とは何か

まずはここを確認する必要がある。言葉の定義というものは、決して客観的に存在するものではない。
定義とは、コミュニケーションをはかる際に誤解が生まれないよう、ある言葉から抱くイメージをひとつに統一しようという目的のもとに、多くの人が参考にできる拠り所を設けようとする行為である。
すなわち、その目的を共有できない人とは話がそもそも噛み合わないこととなる。
そして大前提として、「仮面ライダーとは何か」を考える際に参考となる大きな軸のひとつは、いわゆる"公式"の見解であることも改めて共有しておきたい。
多くの人がその"公式"の言うことにある程度の権威を感じていることは、彼らの持つ影響力というかたちで現れている。我々が受け入れるから彼らは影響力を持ち、その影響力がまた権威となって更に多くの人に受け入れられるのだ。
政治と同じく、公式の持つ権威は一人ひとりに受け入れられているということに基づき、逆に多くに受け入れられているものは公式でなくとも同等に扱う。
「悪の力を善に転用すること(つまり仮面ライダーは善でなければならない)」という定義は公式の言う"仮面ライダー"の多く、いわゆるダークライダーやネガライダーを振り落としてしまうが、僕の見る限りおいてはそこそこ支持を得ているので併記した。
個人としての僕はこれを支持しないが、「受け入れられている」という事実は受け入れているつもりでいる。
どんなに正しそうに見えても、多くの人に支持され共有されなければ「他者と誤解の少ないコミュニケーションをとる」という定義の目的を達成させることは難しいからだ。
(参考:トランス女性(MTF)は女風呂に入れる?/性別とは一体何か)

 


 "仮面ライダー"とは何か

いくつかの平成ライダー作品においては、仮面ライダーという呼称は劇中では使用されない(クウガ,アギトなど)か、出処が不明瞭なまま既知のこととして扱われる(龍騎,剣)。
対して『W』では風都市民が、『ドライブ』ではブレンが、それぞれ"仮面ライダー"という呼称を使い始めたのだと明言されている。
前者はそれでもぼやかされているからなんとか納得できるが、後者の「仮面の……ライダーだ! 仮面ライダーに警戒せよ!」というあのシーンには、強烈な違和感を覚える。
何故あのプロトドライブを見て"わざわざ"、仮面とライダーというその2つの要素を、その表現で、その順番で並べたのか。この疑問が出てくるのは、僕が視聴者という立場にいるからというだけではなかろう。むしろ視聴者でなく仮面ライダーという単語を知らない者こそ、抱いて然るべき疑問だと思われる。
ブレンがあの時あの場所で思い浮かぶ言葉は、それこそマスクドライダーでも、アーマードライダーでも、メットライダーでも覆面ライダーでも、なんでも良かったはずなのだ。にも関わらず(他作品と)示し合わせたように"仮面ライダー"になることに、僕は違和感を禁じ得ない。
市民が呼び始めたというのもブレンが名付けたというのも、どちらも「何故劇中の戦士が仮面ライダーと呼ばれるのか」に対する説明としての機能を持っているが、それは少なくとも僕の「何故"仮面"と"ライダー"の2要素を強調して呼ばれているのか」に対するアンサーにはならなかった。
僕はグローバルフリーズのスピンオフは見てないのでなんとも言えないが、そこではそんなにも"仮面"と"ライダー"を名前に付けたくなるような活躍が描かれているのだろうか?
仮面を強調するならば素面の存在がチラついていなければおかしくて、そうでなければ元よりそういうデザインの機械かもしれない。それでいくとダブルは正体を隠しているはずなので、変身体と別の姿(面)があるという発想を抱く理由が見当たらない。顔が見えない程度に変身するところだけたまたま目撃されたのだというロジックも組めるが、結局実際のところ「仮面ライダーと呼ばれる」という結論ありきなことに変わりはない。
仮面ライダーであって悪い理由はないが、仮面ライダーである必然性もまた、ないのだ。


では、平成ライダーが"仮面ライダー"と呼ばれるのは「『仮面ライダー』から続くシリーズであるから」で一旦片付けるとして、初代『仮面ライダー』まで遡って、「何故"仮面ライダー"なのか」という疑問の答えを探してみるとどうだろうか。
結論から言えば、見つからない。
開幕早々、画面上に映ったキャラクターに『仮面ライダー』というタイトルが重ねられることで、また主題歌やナレーションを通じて視聴者に対しては問答無用で示され、劇中内では本郷変身体=仮面ライダーであるということは、どうやらほぼ自明のこととして扱われている。
2話で初めて、バイクも何も関係ないのに唐突に「ライダー投げ」という技名らしきものを叫び、3話にて戦闘員がこれまた唐突に「仮面ライダーだ!」と呼ぶ。
味方サイドで自覚的に呼ばれるのは4話であり、少年が自分を助けた"あのお兄ちゃん"は誰かと問うたところ、「あれは仮面ライダー」だと説明される。
漫画版にしても、変身した本郷猛が自分から名乗るというだけで、唐突なことにそう変わりはない。
本郷猛が仮面ライダーと呼ばれるに相応しいかどうか、みたいな段取りは一切なく、なんなら流れとか雰囲気といったもので呼ばれ始める。

劇中で仮面ライダーと名付けられるのは現実世界でそう名付けられたからかもしれないが、更にそこへ「何故」を突きつけることもできる。仮面を名前にチョイスしたのはペルソナをテーマにするためかもしれないが、では何故ペルソナの要素を入れようと思ったのか。何故あのようなデザインになったのか。何故石ノ森氏に依頼されたのか。何故企画されたのか……。
このように、あることを説明するために使った事柄についての更なる説明を求めていくと、無限後退と言われる状態に陥る。
"根拠"とは言葉の通り根っこであり、ある事柄が成立するための前提条件である。無限後退している限りはいずれの前提も無根拠なものとなり、正当性(拠り所)を失ってしまう。


いちゃもんを付けて、否定したい訳では決してない。
ただ、仮面ライダー達が"仮面ライダー"という文字列で表されることに対する明快な"根拠"は、少なくとも劇中では示されていないということは、ひとつの事実として受け止めなければならない。
言語学ではこのようなことを言語の恣意性と呼び、そもそもそこに根拠など有り得ないとしている。

 

 


 意味の逆流現象

前項では「何故」をキーワードにそのルーツを辿ろうと試みたが、失敗に終わった。
ここでは「何故かはよく分からないが仮面ライダーと呼ばれている」という事実を受け入れた上で、それがどのような意味を持つのか考えていくこととする。

仮面もライダーも、どちらも本郷猛変身体という存在を記述するために、その所有物(マスクとバイク)を利用していることが分かる。
"仮面ライダー"というのは、「本郷猛の仮面とバイク」という認識から見て「仮面を被ってバイクに乗った存在(本郷猛)」という認識に主従関係が逆転しているのだ。
これは、世間的にショッカーという組織が「仮面ライダーの敵」と認識されていることと似ている。
ある集合の中の一部が、全体の意味に影響してしまうのだ。


仮面ライダー関連で似たような事例をもう2つ挙げよう。
『ディケイド』における小野寺クウガ。彼が地の石の力によって変身するライジングアルティメットというフォームがあり、それに対して「ライジングフォームはアルティメットの力が漏れ出た形態なので、"ライジングアルティメット"というものは有り得ない」という意見がある。
これはたまたまクウガがアルティメットの力によって力がRiseしている様子をライジングマイティなどと名付けただけであるにも関わらず、受け取り手が勝手にRisingという言葉そのものに「アルティメットによる」という意味を付加させてしまったことによる混乱である。矛盾があるとすれば、更に上昇する余地があるのならそれは"究極"ではなかったのではないか、という部分だろう。まぁそれも「名付けた者が究極だと思った(けど違ったらしい)」で済む話だが。

もうひとつは『フォーゼ』における如月弦太朗。「主人公の髪型がリーゼント」というだけで、抗議の声が殺到したそうである。
あの髪型にすることが直接的な"悪行"ではないはずだが、リーゼントヘアで不良行為をした誰かがいたせいで、髪型そのものに"悪い"という意味が付加されてしまったのだろう。
学校の規則を破ることはよいことではないが、そもそも規則としてあの髪型を禁止する時点で既にその意味の逆流が起こっている。或いは「何故」の通じない、よりプリミティブな不快感に根ざしているか。

このような現象は、我々のそばで日常的に起こっている。

 

 

 大自然が遣わした戦士

"定義"というのは、厳密には対象となる概念と過不足なく一致する必要があるので、これは定義とは少し違う話なのだが、僕の中での"仮面ライダーのイメージ"というのは、「たくさんいれば、色んなやつが現れる」という言葉で表現される。
ショッカーが自らの意のままに動く怪人たちをたくさんつくっていれば、いずれ一人や二人くらい意のままに動かない者が現れる……それが"自然"なことである、という観念。
これを「"仮面ライダー"と呼ばれる者」の定義にしようとすると、例えば本郷を逃がすことに協力した緑川博士の存在も含まれてしまうが、彼に仮面ライダーの名は冠されていないので、矛盾してしまう。

ショッカー怪人なのにショッカーに従わないだとか、仮面ライダーなのに悪人だとか、リーゼントヘアなのに悪いことをしないだとか、ショッカーが脳改造前に本郷を目覚めさせるだとか、実験のためとはいえ本郷に風力エネルギーを与えてしまうだとか、そう言ったことに対して我々が感じるある種の"不自然さ"や"おかしさ"。
しかしどれだけおかしい、有り得ないと思っても、実際に起こってしまっている以上、人間の認識には反していても、この自然世界のルールには反していない。すなわち"自然"なことなのだ。
この文脈でのより大きな"自然"のことを、人間が感じるそれと区別するために、ここでは"大自然"という言葉を使いたい。

 

実際の現象を前にしては、理論的に有り得ないだとか定義に反しているだとかそういったものは意味をなさない。事実こそがすべてであり、大自然の前では我々人間の理屈は常に泣き寝入りをするしかない。
一度雨が降ってしまえば、いくらその日の降水確率が0%でおかしいと感じても、降らなかったことにはできない。
うちの近くのスーパーでは、買い物の際に3円払うと"ゴミ袋"と書かれた袋を渡される。買ったばかりのもの、況してや食料品をその中に入れて持ち帰ることに僕は些かの抵抗を覚えるのだが、勿論"ゴミ袋"と書いてある袋に入れたからと言って、商品がゴミ(もう使えないもの)になる訳ではない。レジ袋として使えばゴミ袋と書いてあろうとも本質的にはレジ袋足り得る。
天気予報が外れることもあれば、ゴミ袋が想定外の使われ方をすることもある。

複眼(たくさんの目)に触角(アンテナ)、そしてOシグナル(第三の目)と、仮面ライダーの記号は「周りの状況を察知する」能力に長けているイメージがある。目は言わずもがな周囲の風景を、触角は温度や音,匂いなどを、第三の目はそれらを超越した直観や霊的感覚などを司り、ともかく全てに共通するのは"探る"のが役割だということ。ついでに言えばマフラーも、風の有無がひと目でわかる。
だから特に近年の仮面ライダーは、流行を取り入れ周囲に合わせ、得てして目の前にある現実を"受け入れること"がテーマ的にピックアップされることが多いのだと思う。

後になって、顔が特徴的なのもその周辺に情報の受信部が多いことも当たり前であって、わざわざ取り上げるようなことでもなかったかなとも思ったが、ご愛嬌。

 

"仮面ライダー"という新しく作られた概念は、何故かもどういう意味かも判然としないままに、本郷猛変身体を指して使われ始めた。
そしていつしか変身者が一文字隼人に変わっても、悪人に変わっても、バイクに乗らずとも続けて使われている。
ショッカー怪人がたくさんいればショッカーに歯向かう仮面ライダーが生まれてくるように、仮面ライダーも規模が大きくなれば色んなやつが生まれてくる。

何事も「もはやこれは〜ではない」と言いたくなる例外的存在は出てき得る。それが"大自然"の掟なのだ。

(参考:大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想)

 

 

 世界の破壊

ショッカー怪人だからと言ってショッカーに与するとも限らないし、仮面ライダーだからと言って正義の味方とも限らない。
改造人間という設定は、人間の体すら究極的には言葉と同じく、交換可能な"仮面"に過ぎないということを表している。
記号と、それによって表される意味。
言語はもちろん、それ以外のリーゼントという髪型や我々の顔のような視覚的な情報、聞こえてくる聴覚情報なども、すべて"記号"に過ぎない。
仮面ライダーのデザインは、どう見ても設定通りの強化された肉体というよりは服なのだが、"改造人間バッタ男"がショッカーの技術で複製可能なのと同様に、容易に取り替えられる衣服もまた人の外見を規定する記号のひとつである。
現代で言うところの"コスプレ"の延長線上に、なりすまし(擬態)はある。
実際、既に整形技術はかなり普及しており、かわいいだとか美しいだとかいう基準に合わせて顔を作り変えた結果、多様性がなくなり「皆同じような顔」になっているというような話も耳にする。
"そっくりさん"はつくれる時代に突入しつつあるのだ。

また俳優の藤岡弘、さんの事故の弊害であるとはいえ、中盤に本郷猛の過去の映像が使い回され、声を別の方が吹き替えていた時期がある。
これも結果的にだが、本郷猛だからと言ってあの声だとは限らないという、声の交換可能性を示す事柄となっている。
というか桜島1号とか新1号とかの登場回も見てみたが、声と同じく見た目が変わったことに対する説明らしきものは一切見当たらなかった。
だがそれらも全部「改造人間だから」で受け入れられてしまうのは、偶然というよりはこの設定の懐の深さを表していると言えよう。
すなわち、"仮面ライダー"の真髄のひとつは、この"交換可能性"という部分にあるのだ。

(参考:仮面ライダーディケイド暫定的まとめ)

 

インターネットが普及し、誰もが簡単に仮面を被ることができるようになった。
ゼロワンの感想にて詳しめに話したが、ゲームプレイワーキングと言って、自覚的にはただゲームをしているだけでその入力が何らかの仕事に変換され、働いているのと同じ成果を得られるようになるシステムというのも考案されつつある。これもまた、見えている世界と実際に意味する世界を乖離させるベクトルの力である。
もはや見た目も声も名前も物事の本質と直結せず、そもそも本質……攻殻機動隊で言うところのゴースト(代替不可能なもの)などあるのかという疑念に駆られるようになる。
だが、それは悪い面ばかりではない。何者でもなくなった我々は、同時に何者にもなれるようになったのだ。
白倉さんによれば仮面ライダーは自らの親を否定するというが、その意味では作品にしばしば登場する"おやっさん"という存在は、言わば親代わりと言える。
加賀美やじいやたちにとって、本来何の関係もないスコルピオワームが神代剣になり得るように、誰もが誰かに擬態できる。
ゴミ袋をレジ袋として活用することも当然できる。

従来信じられていた必然的な繋がりが破壊され記号と意味が分離した結果、「子供たちは仮面ライダーになれる」のだ。
(参考:"純粋"と呼ばれる子供はサンタや仮面ライダーの実在を信じているのか?)

 


 自らを由とする

記号と意味の繋がりが断ち切られ、破壊された世界では、存在はその背景や根拠,ルーツを失う。

人はそういった後ろ盾を持たない者に対して厳しい面がある。「ジクウドライバーはどこから来たのか」「ギンガって一体何だったのか(何年のミライダーで変身者は誰なのか)」などという疑問はいい例である。ビルドドライバーは、エボルドライバーを参考に葛城親子がつくった。だが、そのアレンジの発想の元や、そもそものエボルドライバーはどこから? と言った"由来の由来"、すなわち祖父母にあたる疑問は、目を向けられないことが多い。なんなら仮面ライダーの力の源について「現代の科学では説明できない不思議なパワーなのだ」という説明する気がない説明でも、何も言われないのと比べればそこそこ落ち着くだろう。

これを端的に表しているのが『龍騎』だ。
「映画は本編に繋がるループのひとつである」という言説は、それだけでは説明になっていない。何故ならタイムベントで時間を巻き戻す当事者である士郎が死んでいるので、単純には繋がり得ない。もちろん、他の誰かが神崎の研究資料を見てやっただとか、それなりに理屈を通して繋げることは不可能ではないが、上記の説明だけで納得している人は明らかにそこまで考えていないだろう。

ジオウ同様に説明不足も甚だしい電王が成立しているのは、例えば「教養の差だ」みたいな"説明してる風"のセリフがあるからだろう。
我々が抱く「何故?」とは、その程度の近視眼的で適当なものなのである。
親世代が無根拠であることを容認されるのならば、子世代が無根拠であることも理屈としては大差ない。


要するに、エボルドライバーの出自が気にならないのにビルドドライバーやジクウドライバーの出自だけを気にするのはナンセンスだ、という話。エボルドライバーの出自が宇宙のどこかの知性体だとするなら、その知性体のルーツも探らなければならない。これは先ほど言った無限後退である。
無限後退をしないのであれば、我々はいつか、背景を持たず無根拠で、他者との関係によって記述されない"孤高の存在"を受け入れねばならない。実際にそうであるかは関係なく、我々の認知の限界として"ナマの事実"は現れてくる。もしくは循環するか。

人は自分のルーツを求めて宗教による"説明"をしようとする。
だが無宗教の人が存在するように、また人をつくった神のルーツ(のルーツ)が語られないように、根拠など分からずとも存在できてしまうのが実情である。


従来は「自分は男だから力が強い」という文章が意味をなしたが、男だからと言って力が強いとは限らないことが分かると、男であることは根拠として機能しなくなる。
そこにあるのはただ「自分は力が強い」という事実のみである。
これは、"それまでの定義からの自由"を意味する。
定義がもたらす「男である→力が強い」「仮面ライダーである→正義の味方」「すずきやまとである→葛葉紘汰ではない」などの不自由から解放され、すずきやまとであった背景をかなぐり捨て葛葉紘汰になることができる。
これこそ、世界の破壊がもたらす恩恵である。

僕のハンドルネームである"やんま"は、由来としては所謂リアルにて友人にそう呼ばれていることが挙げられるし、更にその理由を求めると例えば眼鏡をかけていることだったり本名とも少しかかっていたりということになってくるのだろうが、そんな背景はお構いなしにネット上では"やんま"として、なんなら"やんまヘボ"として定着しつつある。
そう、例え一切根拠などなくても、名乗ること/呼ばれることによって名前というのは"定着"するものなのだ。


先程からキーワードをちょろちょろ出している『ディケイド』を絡めて説明するならば、士が世界によって役を与えられることを"役者"に見立てたとき、同じ現象が起こっていることが分かるだろう。
井上正大さんは門矢士に変身する。「門矢士として生きてきた背景」を当初の彼は持っていないが、撮影が始まれば門矢士になりすます。
しかし背景を持たないからと言ってその存在(井上氏演じる門矢士)が成立しないとか価値がないかと言えば、そうはならない。彼の声、表情、身のこなし……その一挙手一投足が"門矢士"として新たな価値を生み出し、定着していく。
『ディケイド』を好きじゃない人も自分の好きなキャラクターに置き換えて見れば共感できるだろう。仮面ライダーシリーズにおいてノンフィクションだった作品というのは現状ない。
背景の破壊というものを自覚的に扱った作品として、もうひとつ『電王』がある。味方側のイマジンズはルーツである"カイの未来"がなくなったことによって消えるはずだったが、そんな根拠などなくとも「いるものはいる」ということを示した。同時に良太郎のイメージを借りた存在でもあるが、後々良太郎がいなくても登場したり変身できたりするようになったのも、その傍証であろう。良太郎に両親がいないのもそれを思わせる。

 

悪の仮面ライダーや暴走するアナザーアギト(アギト)の存在によって、正義の仮面ライダーや木野アギトの名誉が脅かされるという意見がある。
だがしかし、"仮面ライダー"の称号という文字列や、アナザーアギトのような見てくれひとつにすがらなければ瓦解してしまうほど、彼らという概念は弱いものなのか。その個体が持つ要素の中からそれだけを抽出して、あとは"ないも同然"にしてしまうのか。
それらひとつひとつは所詮借り物の記号による一部分に過ぎない。例えばクウガのガワにも小野寺が出て来る前から先代という別の所有者がいるし、アギトの力もまた他の変身者が多数いるものであり、翔一と同型のアギトが存在し得る以上、個体差の問題として木野のものとよく似ているか全く同型のアギトが生まれる可能性がないと言い切る根拠はない。木野薫という名前にしたって、それほど珍しい訳でもないし、同じく木野という苗字の人間が悪事を働く可能性は十分にある。だがだからといって「木野薫に失礼」という立場からの批判はナンセンスだろう。決してこれらは専有物ではない。

では木野薫という概念とは何なのかをきちんと説明しようと考えると、"生き様"とでも言えるような網羅的なものでないといけない。
それをたった一言で表現しようとするならば、木野薫とは木野薫であり、仮面ライダーとは仮面ライダーである……という、トートロジーに落ち着くことだろう。

下の記事の"テーマ"という項で、ダークライダーの存在意義について詳しく書いてるのでそちらも是非。
(参考:仮面ライダーディケイド 6,7話「バトル裁判・龍騎ワールド/超トリックの真犯人」 感想)

 

先に用意された仮面ライダーという集合の"定義"に構成要素たる本郷猛たちが従うのではなく、その名を冠する者たちの生き様そのものが逆流し"仮面ライダー"という概念の意味をつくりあげていく。
それがこの"定着"という現象の意味するところだ。

名が体を表すのではなく、体が名を表す。
彼らに背景の有無は関係なく、仮面ライダーだから仮面ライダーなのだ。

そういう意味で、とにかく顔に「カメンライダー」と書いてあるから仮面ライダーであるというジオウの(言語学的な)スタンスは子供向けとしても至極真っ当と言える。

 

 

 

 仮面ライダーの敵

既存の定義にもあるように、仮面ライダーの敵はそのルーツである場合が多い。このことからも、仮面ライダーの無根拠性が顔を覗かせる。

敵組織の中でも最初の敵であるショッカーに注目すると、「ナチスドイツの残党」という点がひとつ挙げられる。
あいにく僕は社会科、とりわけ歴史を毛嫌いしているので詳しいことは知らないのだが、ショッカーとの類似性という視点から語る上で重要になるのは、やはりその優生学的な側面だろう。
改造手術によって動植物の特徴を移植し、強化された人間をつくる。そしてそれに適応できない者は(強制労働の末に)殺されてしまう。

ここに現れているのは、超人的な人間だけによる無駄のない世界にせんとする、息の詰まるような思想だ。
僕は発達障害を持っていて、最近は同じ障害者(身体精神など問わず)が集まる施設に通っているのだが、自分も含め、我々障害者が他人と関わりながら迷惑をかけずに生きていくことがなかなか難しいのは、悲しいかな事実ではある。
そういった負の面を日々感じている身からすると、「人類全体のことを考えたら障害者はいない方がよい」という意見を、無下に扱うことはできない。

障害者に限らずとも、例えば一部の犯罪者などは今でも実際そのような判断を下されて死刑となってしまっている。

健常者も他人事ではない。日常生活は問題なくおくれていても、人類全体というマクロな視点に立った時には、一挙一動がバタフライエフェクト的に損をもたらしている可能性はあり得る。例えば安くて質の悪い商品を妥協して買う判断は、技術の発展を遅らせている一因であると言えるかもしれない。より高く質の良いものに需要をもたらすためにはよりお金を稼ぐ必要があり、その為には自らもより質の高い生産をしなくてはならないというスパイラルに陥る。その先にあるのは、小さな幸せに満足することなど許されない世界だ。
(参考:エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想)

以前の記事にも書いたが、僕は人類に与えられた自由があるとすれば、それは「最善を尽くさない自由」だと思っている。
将来のことを考えたら何か身になることを勉強した方がいいと思いつつ、漫画を読んだりテレビを見る自由。もう少し痩せた方がいいと思いつつ、お菓子を食べる自由。選挙に行った方がいいと思いつつ、行かない自由……。

"正しいこと"という概念は、人の自由を奪う。僕は「自分の意見が正しい」と感じているとき、きちんと説明して伝われば、遅かれ早かれ全ての人が同じ考えになると信じている。この「全ての人が同じ考えになる」ことこそ、"世界征服"そのものである。

そしてそれはとりもなおさず、冒頭で示した定義という行為(ある言葉から抱くイメージをひとつに"統一"する)に繋がってくる。

 

それと敵対することから、「(誰かにとって)正しくなくてもよい」ということを示すのが、仮面ライダーであるとも言える。
ショッカー首領にとっては、全ての人間が改造され自分の意のままに動くことが"最善"なのだろう。だがそうでなくてもいい。例え自分に不利益をもたらすことであってもそれをする(利益をもたらすことをしない)自由、すなわち愚行権の許容である。
逆に仮面ライダーが次々と生まれるように、同時に敵組織も毎年生まれている。これが許されるのは、敵組織も仮面ライダーにとって正しくなくてよいということを認めなければならないという矛盾を孕むからだ。

この"矛盾"という言葉についても少し考えてみたい。
この熟語の由来は「どんな盾でも貫ける矛とどんな矛でも貫けない盾があったらどうなるのか」ということに対する違和感を表したものであるが、一度立ち止まって考えたとき、この矛盾という現象は、言葉の上でしか起こらないことが分かる。
この自然世界では、どちらかが勝つとか、確率的にどちらが勝つか決まるとか、対消滅するとか、何かしらの結果が必ず出る。
このようにきちんと結果が出たならばそれは矛盾とは言わないだろう。
すなわち、矛盾というのは何かしらの「人間の勘違い」に基づかなければ成立しない概念なのである。不自然なことなど、起こり得ない。

フィクションの設定についても同様のことが言える。
"設定"というのはあくまで現象に対する解釈に過ぎず、たまたま創作物ではそれを先行させることができるように錯覚してしまうだけ。
少なくとも今の僕は、既に起こってしまったことを前にして「有り得ない」などと言うのはナンセンスに感じるので、現象ありきで考えることにしている。指摘したからと言って撤回される訳でもないし。
「人間にとっておかしく見えること」など、大自然にとっては問題ではない。
自分のおかしいと思う基準(正しさ)を大自然に対して押し付けることは、できない。仮面ライダーはそれを体現する存在なのである。

 

 

 

 "仮面ライダー現象"/自然と自由の象徴として

長々と語ってきたが、一言でまとめるのならば「分かったような振りをして定義することによって仮面ライダーから自由を奪うこと自体が、仮面ライダーの理念に反している」ということになる。
人間はこうして短くまとめてもらわないと、脳の処理能力が追いつかなくてなかなか理解できない。書いてる僕本人でさえ全容をきちんと把握しているか怪しい。
だからいくつかの事実を"例外"として目をつむり、より簡単でキャッチーな理解をしようとする。
"仮面ライダー"とはそういった規格からはみ出るものが現れる"大自然の掟"そのものであり、現象の名前であると僕は捉えている。その名を冠するキャラクター達はあくまでその現象の代表として、象徴として、表舞台に立つだけであり、緑川博士やイマジンたちも"現象としての仮面ライダー"には含まれる、というのが持論である。


しかし、その人間の限界もまた自然なこと。
最初に挙げたいくつかの「仮面ライダーの定義」は、既にある程度定着している。定義というものはそのように人々の間でイメージが共有されなければ目的を果たさない。
ゴルドラとシルバラがいくつかの媒体で仮面ライダーの名を冠されたが現在あまり定着していないように、仮面ライダー足る資格というものがあるとするなら、それは人々に広く受け入れられるかどうかということになるのだろう。
そういった意味で、悪人を仮面ライダーとは認めないとする者が生まれるのも自然なことであるし、逆に認める者が生まれるのも自然なことだ。もちろん制作側があるキャラクターに仮面ライダーの名を付けようと思うこともその範疇であるし、そういった人たちが自由に議論を重ねることもまた、仮面ライダーという概念をつくりあげていく自然選択のひとつである。


現象としての仮面ライダーには、我々も含まれている。
我々もまた大自然に遣わされた存在として、自由に生きることができる。
仮面ライダーの定義を決めるのは、石ノ森先生や本郷猛、白倉さんや況して僕ではなく、その全員を含めた集合知としての大自然であろう。

 

 


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『人が人を罰するということ(ちくま新書)』 感想

先日なんの気なしに図書館へ立ち寄った際、新着コーナーにあった『人が人を罰するということ ――自由と責任の哲学入門』というちくま新書が目に付いた。
今回はその本の感想を、筆の向くまま書いていきます。
……と言っても「面白かった」「ぜひ読んでください」というポジティブなものではなく、端的には「クソつまらなかった」という話ですので、ご注意を。

 

この本に興味を持ったのは、"罰"というテーマは僕が好んでいる仮面ライダーシリーズを始めとする特撮というジャンルが、常に直面し続けている問題のひとつであるからだ。
少数の例外を除き、仮面ライダーは警察や裁判所、刑務所などの社会的な懲罰システムとは無関係に、よく言われるところの"私刑"というかたちで怪人を懲らしめ、少なくない場合において相手の命すらも奪う。
この行為を批判するにせよ正当化するにせよ、タイトルにあるような罰することや、自由意志と責任の問題については折に触れて考えざるを得ない。
どうやら著者の山口尚氏が別の本で取り上げているらしい國分功一郎氏の『中動態の世界』を読んだときなどは、元々自分の持っていた感覚に近いものをベースに、更に新たな発見もきちんとあるよい時間を過ごせた。

 

もっとも、当書に対してそれに匹敵する体験を求めていたかと考えるとそんなことはない。本当に漠然とした経験則として「こういうタイトルの本は内容がないことが多い」と直観していたので、普段読みたい本を読むときは目次など飛ばしてさっさと読み始めるのだが、最初に目次をチェックし、あとがき……もとい"おわりに"を先に読んでみた。

まず目次に関して、このテーマなら絶対に扱いそうな(そして扱うことを期待されそうな)死刑の問題について触れていないことが気になった。
僕は当書を読んで「無駄な時間を過ごした」と思う人が減るといいなと思っているので言ってしまうが、死刑について何かを論じている箇所はこの本の中には一切ないので、そういったものを期待する人は手に取らなくて良い。

ついでにもうひとつファーストインプレッションを述べておくと、"自由否定論"という言葉選びに違和感を覚えた。よくある表現でいえば決定論と呼ばれることはままあるし、実際この本の中でも同じものを指して決定論という言葉が使われているのだが、少なくとも僕はそれらを指して自由否定論と表現している文章を寡聞にして知らない。あまり聞かない表現をするにしても、僕ならば自由意志否定論とか、責任否定論などといった書き方をすると思う。
ここに対して、一般にポジティブなものとされている"自由"を"否定"する論と呼ぶことで読者の素朴な悪感情を誘おうという、姑息な印象操作を試みているような意図を感じたことも、当書への期待を下げる要因のひとつになった。

"おわりに"に対しては、実は興味を唆られた。この本が行っている議論というのは「第一に《自由な選択はない》と主張することは矛盾を含む。第二に《責任は虚構だ》と述べることは必ず何かしらの自家撞着を生む。」という部分に集約されていると思うが、このたかだか60文字の文章だけで言わんとしていることはおおよそ想像がついてしまう上に、もし想像した通りの話運びをしているのだとしたら、250pもある本にする内容としてはあまりに薄く幼稚すぎるのではないかと思い、"そうではないとしたら"一体どのような話が展開されているのかと少し気になってしまったので、この本を借りることにした。

 

しかし結果を聞いて驚くなかれ、この本の中で綴られている筆者、及び筆者が主に参考にしたとされるピーター・ストローソン氏の主張・考え方というのは「今の世の中では人が何か悪いことをした人に対して罰を与えようとする営みはごく一般的なものですよね」という、あまりにも素朴すぎる現状確認にすぎない。
また、事実確認といえども極めて精緻に行われ、読者が意識できていなかった新たな認識をもたらすようなものであれば意義もあろうが、当書は『人間の生の一般的なフレームワーク/枠組み/形式』なるキーワードを使って、ただ読者の共感のみを頼りに話を展開する。
これが何を意味するかといえば、すなわちこの本の主張に納得するためには、読者の中にそれに共感しうるだけの同じような実感がなくてはならないということであり、裏を返せばこの本を読んで"新たな知見"を得るということはまず不可能であるということだ。
人を責めたり罰したりすることを無意味なことだとする主張に対して反駁することを"本書の目的"として据えながら、筆者と異なる意見を持つ読者を説得し得るような材料は250pを通して全くと言っていいほど提示されない。そのような日常感覚に訴えるだけの文章ならば僕でも書ける。
もっとも何か書くとしても「我思う、故に我あり」とか積極的虚無主義とか、そういう一言で済んでしまうだろう。

 

そして説得力がないだけに留まらず、他人の主張に対し矛盾を指摘していながら、本人の主張も大きな矛盾をはらんでいるように見える。
筆者の論理展開を僕の言葉で要約すると、大雑把には以下のようになるだろうか。

 

「(ウェグナーや小坂井は)人間には自由な選択やそれに伴う責任などというものは存在しないと主張するが、彼らがそういった文章を書くなどという形で"主張をしている"、あるいは"ものを考えている"という時点で、主体が自らの意志で行為するという前提に立っていることを認めざるを得ない」

 

……理解できただろうか? 筆者は更にこう続ける。

 

「それは、人が人に対して罰を与えようとする営みは"人間の生の一般的なフレームワーク"に属するからであり、このフレームワークからは逃れることができない。なぜならそれが人間にとって"自然なこと"であり、そうなるようにできているからである。
ゆえに、刑罰という人間社会の制度を廃止するか否かということは語ることができるが、人間生活における罰一般について無意味だからやめるべきだなどと議論するのはナンセンスである」

 

もう一度訊く、理解できただろうか???

筆者は、筆者とストローソン氏の少なくとも2人が「人が人を罰するのは疑う余地もない自然なことだ」と思った……ということのみを根拠に、"人間の生の一般的なフレームワーク"という用語をでっちあげ、人が自由意志によって行為するという認識や人が人を罰するという行為を、是非を語ることができないいわば"神域"として扱うと宣言している。
そう、勝手に宣言しているだけ。こちらを納得させようという気はまるっきり感じられない。

面白いことに、この話をするために「学生時代に理系だった私は(例えばラプラスの悪魔に代表されるような)決定論的世界観に説得力を感じる一方で、自らの行為は自らの意志で決定しているという素朴な直観との間に葛藤を覚えていた。しかしそういった苦悩は自分でもよく分からないうちに消え、いつの間にか自信をもって《それでも人間は自由な選択主体だ》と言えるようになった」という筆者自身の体験談が挟まる。

 

2つに分割して要約したが、ひとつずつツッコミどころがある。
まずウェグナーや小坂井の行為に対して、自由意志や責任を勝手に見出しているのは明らかに筆者であって、彼ら自身ではないという点。
ここを指摘するためには筆者が混同しているいくつかの概念について腑分けをしなくてはいけない。まず取り上げるべきは、決定論的世界観は決していま"行為"と呼ばれている現象を否定しない。

何故なら論点になっているのは「行為(と呼ばれるもの)が何によって生じているか」であって、「行為が生じるか否か」では全くないからだ。決定論的世界観においても、思考や主張という行為は存在する。

自由意志や責任を虚構と切り捨てた上で人間が生きる世界観というのは、ただ自然現象が起こるようなイメージではなく、野生動物が生きてうごめいているようなイメージの方がより近い。現在の人間のパースペクティブでは動物に対しても行為主体であるかのような見方をすることがあるが、この本の中でも少し触れられているように行為主体ではないと捉えることも可能なはずで、その時に起こる認識の変化をそのまま人間に適応すればよいだけだ。

猫が猫じゃらしにじゃれ、昼寝をし、時に虫を殺し、肉を食べる。だがそれらは猫が「そうしよう」という確固たる意志のもとに行為しているというよりは、胡乱に、あるいは自然に、ちらつく虫といった外部の環境や、空腹という自身の内的状況などに対し、反射や反応を繰り返しているに過ぎない。

 

人間の行為もそれと同じだ。例えば今この文章を"書いている"僕自身が、そういう風に感じている。僕は自らの中にある確固たる意志によって文章を書いている、訳ではない。
記事の頭に「筆の向くまま」と書いたように、この本を読んだことに反応して"勝手に"湧き出てくる言葉を、僕はさながら書記のように書き留めているに過ぎない。
書記のように書き留めるという部分でさえ、それほど意識的に行っている訳でもない。英語で書けとでも言われればまた話も変わってくるが、僕は人並みにデジタル中毒なので、頭の中に浮かんだ言葉をタブレットに打ち込むことなど息をするようにできてしまう。呼吸することを"行為"として取り上げることは、深呼吸のような例外を除いてまずないだろう。それは"自然に"行っていることだからだ。

僕はなんとなく図書館へ入り、たまたま目に付いたからこの本を手に取り、他にすることもなかったから仕方なくつまらなそうなこの本を読み、その内容のバカバカしさに呆れやイライラという感情が誘発されているに過ぎない。自慢じゃないが僕ほど何も考えずに、ボケーッと流されるまま生活している人間もなかなかいない。仮面ライダーを見ているのだってよく言えば習慣、悪く言えば惰性だ。
当書の中でも引用されているリベットの実験が、被験者の自認によって成立していたように、僕自身がこれらの行動にさほど自らの意志というものの力動を感じていない以上、そこにいちいち自由意志による選択を仮定する必要はないだろう。

 

そして"行為"と呼ばれ得るものが意志や責任の不在とは無関係に存在できるのと同じく、"意味"と呼ばれ得る概念もまた自由意志による選択の有無とは心中しない。
ここで便宜上"意味"という言葉を簡単に、ある物体が何かへの反応として発した行為によって、他の物体が反応し何かしらの影響を及ぼすこと……だと定義する。
雷が落ちたことに反応して木が燃える、猫の攻撃で虫が死ぬ、誰かの書いた本を読んだ人間が感想を述べる……などといった現象は、ここでは意味があるということになる。
日常感覚に寄り添って説明をするなら、裏返してみるとよい。食事をしたのに腹が満たされない、ゲームをしたのに退屈がぬぐえない、本を書いたのに誰も読んでくれない……など、行為によって変化が起こらない(と感じる)場合は、その行為には意味がなかったということになる。

ウェグナーや小坂井が「人間には自由な選択やそれに伴う責任などというものは存在しないと主張している」からには、そう声高に主張せざるを得ない何かを見て、それに反応しているだけであると捉えても全く構わないはずである。今の僕がそうであるように。
そして彼らの発する音や文字が単なる物理的な現象である以上の意味を持つことは、必ずしもそれが自由意志などというものを介していることを意味しない。
我々が意味を持って言語を使用する際、ハッキリとした意志によっていることが一体どれだけの割合であるだろうか。例えば日常会話のほとんどは、後から思い出そうとしても全く記憶に残っていない。それだけその場のノリに任せてテキトーに喋っているからである。少なくともそういう場は容易に想定し得る。しかしそこで発されている音声が"意味を持たない物理現象"として理解されることはまずないだろう。
自らの言葉に意味があり、相手もまたその意味を感じ取ってくれると期待して言葉を発することは、必ずしも自由意志による選択を必要としない。
筆者は意志が存在することと意識が存在することを全くイコールの問題として扱っているきらいがあるが、そこはなんの論証もなしに自明として扱っていい部分ではないように思われる。自己意識もまた脳味噌の内部で起こっている物理現象や外部からの刺激に左右されているはずで、あらゆる環境と無縁に自らを由とする存在であるとは到底思えないからだ。

そこに自由意志による選択などというものが"必ずあるに違いない"と断じるのは、単純に筆者が結論を先取りしているからに他ならない。

 


2つ目のカッコへのツッコミどころは、まさにお手本のような自己矛盾に陥っているということ。
「人が人に対して罰を与えようとする営みは"人間の生の一般的なフレームワーク"に属するごくごく自然なことであり、日常に存在する全ての罰を取り除こうとすることは、どだい不可能なことである(※)」というここでの筆者の主張は、本全体の結論である「人間は自由意志によって選択できる主体であるので、責任という概念は無意味化しないし、罰するという行為そのものを取りやめるべきという論調もまかり通らない」と正面衝突する。

筆者が言うところの"自由否定論者"が「人が罪とされることを犯すのは、周りの環境などのどうしようもない何かのせいであって、当人の自由な選択によるものではない。故に罰を与える正当性もないのだ」と主張するのと全く同じように、筆者自身も「人が誰かを罰するという行為をするのは、人間の生の一般的なフレームワークというどうしようもない何かのせいであって、当人の自由な選択でどうこうできるものではない。故に責められる筋合いはない」というロジックを利用している。
これが矛盾でなくて、自家撞着でなくてなんなのか。

 

 

筆者が本気で人間の意志は選択において自由を有すると信じているならば、導き出される結論は「その気になれば罰は廃止できるので、そうすべきであるか活発に議論すべし」でなければならないはずなのだ。
つまり筆者も述べていたように、真に語るべきはまさに"赦し"の問題でしかありえない。

そのような強い意志も持たないまま、"自分でもよく分からない"うちに得た「人間は自由な選択主体であり、罰は廃止すべきではない気がする」という極めてふわふわとした直観に従い、結論ありきで中途半端な論を組んで生み出されたのが、矛盾を含みつつも、ただ(意志の弱い)読者がなんとなくその気になるように同じようなことを繰り返し繰り返し連呼するだけのプロパガンダのようなこの本なのだろう。

 

僕のような無知蒙昧の輩をしてここまでハッキリと矛盾が見えるというのは、本当に呆れるほかない。京大卒だろうがなんだろうが現に目の前にある本がしょうもないことしか言ってないんだから仕方ない。
この記事は筆者を"責めようとしている"訳ではない。なぜなら"できが悪い"ことは別に罪じゃない、故に責める謂れもない。自由意志という観点に立ったとしても、名前を出している以上、自らの名誉に対する相応のリスクは無視できないし、世間に対する悪意をもってわざとデタラメな本を出版するというのは考えにくい。つまり過失である。
僕は、基本的に過失は責めるべきではないと思っている。
だからあくまで、この本を読んで感じ想ったことをただ述べ説明しただけである。
時間を無駄にしたくないから読まないというのもひとつの手だし、そんなにデタラメなら逆に気になるから読んでみようというのもまた一興だろう。まぁご自由に。

 

 

※他の要約箇所と違い、ここはある程度短い区間で抜粋することができるので、参考までに原文を載せておく。筆者は終始このような調子だ……。

「たしかに刑罰という制度にかんしては《廃止するか否か》のオプションが存在するが、〈罰すること〉一般についてはそうではない。なぜならそれは人間の「自然な」あり方の一部だからである。より正確に言えば、《一方的に他人を害したひとを不問にはできない》といういわば「応報的な」関心は人間の生の一般的な枠組みの一部をなす、ということだ。これはじっさいにそうである。具体的には、他人のものを盗んだひとにたいしては、一般に、みんな何かしらの次元で罰する(例えば、グループから排除したり、親密な関わり合いから疎外して距離をとったりなど)。逆から言えば、不正を犯したひとにたいしていかなるネガティブなリアクションもとらない社会は、可能なあり方の社会ではない(そんな社会では「不正」という概念すら無意味なものになる!)。こうした意味において〈不正を犯したひとを罰すること〉は私たちにとって「自然な」ことなのである。」
216,217p

仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド 感想

今回は『仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド』を見てきたので、ふせったーに書いた感想をまとめておきます。

 

 


続編の扱い

タイトルバックで本編とパラロスの映像が流れてたのを見て、作品同士の繋がりってハッキリ地続きであることが当たり前じゃないよな、と思った。
続き物として見るなら、本編とパラロスどっちの続きなの? という二者択一になるけど、そういうことじゃないというか、あえて言うならどことも繋がらない、555という概念を使った新作がパラリゲなんだろうし、復コアのことも(パラレル解釈とかそれ以前の問題として)そういう風に見られるのかもしれないと。
記憶の印象が正しければ電王の続編なんかまさにそんな感じで、こういう展開があったからこそ今回はこう……みたいな繋がり重視というよりは、繋がっているような独立しているような、どっちでもいいひとつの作品。


パラリゲを見て、改めて本編の真理ってふっくらとした感じがすごく幸せそうというか図太そうというか、ちょっとやそっとじゃめげない強い女の子って感じが出ていてよかったなと。
パラリゲの真理はほっそりとしていてすごく幸薄そうな感じが出ていて、作品の雰囲気にも合っていたように思う。


仮面ライダーミューズの活躍を最初に持ってきてくれてたのもよかった。せっかく新ライダーが出るからにはカッコよく活躍してほしいと思うタチなので、最初から敵として出るよりも人を襲うオルフェノクを倒す正義の味方としての活躍も見られて。


胡桃玲菜さんが恥ずかしがるのはなんなんだろね。恥ずかしくなかったときとの違いを考えるなら、やらされてる感があると嫌なのかね。確かに仮面ライダーのスーツってぴっちりしてて体のラインとか見えがちだし、コスプレさせられてるような感覚なのかも。555は1話でも
パンツパンツと言ってたけど、変身ツールと恥じらいは555においては不可分なのかもしれない。どちらかと言うとスーツを装着するんだから恥ずかしさは減るんじゃないの? と、素朴には感じるけど。
生命を殺すって行為に何らかのエロティシズムを感じているから……というような気もするが、うまく言語化できない。『傷物語』で、キスショットが人を食べるところを見られたくなかったようなイメージ。


おばあちゃんが通報するシーンなんかは、パラロスがあったからこそ感じるものがあるシーンだったな。令ジェネなんかもそうだけど、人間がマイノリティになるって構図は反転可能性テストとして必要ではあるだろうけど実情とはかけ離れてる訳なので、それらを踏まえた上で、改めてこの世は人間が"支配"してるんだよっていうのを突きつけられた感じがして。


パラリゲ見てて一番おかしいでしょと思ったのは、催涙弾的なものを投げ込んどいてマスクも無しに突入してくるスマートブレインからの刺客たちなんだけど、あれは全員アンドロイドだったってことなのか、それともただの煙(意味ある?)だったのか、あるいはオルフェノクだけに効く何かしらの成分だったのか。

 

巧はなぜ生きていた?

初めて出てきた巧がオルフェノク殺すマンだったのは、やっぱりオルフェノクを狩り続けることでしか自分は人間のコミュニティにはいられないと思ってるからってことでいいのかね。泣いた赤鬼じゃないけども。
本編を見返してても、巧が長田と知り合ってオルフェノクを倒せなくなったタイミングで、真理から「マジでおしまいかもしれないね、私たち」と告げられていて、本人の意図はどうであれ、巧的には結構グサッとくる言葉で心に残ってたのかな、と。


ちゅーか、パラリゲの草加や北崎がアンドロイドとして新生スマブレに生かされてたというのは分かったけども、だとしたらじゃあ巧がオルフェノクとして生かされ続けていたのはなんでやねんって話ではあるよな。
人間の性として、オルフェノクという珍しい生き物を完全に根絶してしまうのはもったいないので、大抵どんなことがあっても人間の味方をしてくれるという実績がある都合のいい個体だけは、お目溢しで生かしといてやろうみたいなそういう判断なのかな。


パラリゲはむしろ同窓会だった

「パラリゲはむしろ同窓会だった」と言ったのは、まぁファイズにそれなりに詳しい人には伝わったんじゃないかと思うけども、よく知ってたはずのやつらが歳月とともに変わってしまったことを思い知らされる"怖いもの"であるっていう文脈を元々持ってるよねって話ね。

加えて、その意味ではオルフェノクになることが老いの象徴に見えたのも面白かった。真理なんて見た感じ美容師もやってなさげで、夢を追っかけるような情熱が枯れちゃった感じが。
本編でも「今は美容師になる夢のほうが大事だから誰かと付き合うとかそういう気分じゃない」みたいなことを言ってたけど、相変わらず距離が近い草加クンの肩に凭れてみたり、巧とのことといい、自分一人が満足するための夢・自己実現よりも、誰かと一緒に楽しく暮らすことの方が優先順位高くなってるんだろうなと。"老後"とでも言えるようなその振る舞いが興味深かった。これはあれかな、僕ができたら30歳でぽっくり死にたいとか思ってるのもあるかもしれん。それ以上ダラダラ生きてもみっともないだけだし、って。

確かに、巧,真理,啓太郎と比べると木場,長田,海堂のオルフェノクトリオってややアダルトな感じがしてたなぁと。もちろん設定的には長田は高校生だし木場と海堂も青年の域は出てないんだけど、そもそも名前の呼び方からしてきっぱり分かれていて、ファイズ組はお互い名前を呼び捨てにしてる(草加だけはくん付けされてりさん付けされたりしてるが)のに対して、オルフェノク組はお互い苗字で呼び合ってて(海堂って長田のこと呼んだことない……? パラロスでは結花呼びだったけど)、その距離感も含めて絶妙に大人っぽい。
巧にもどこか達観した感じがあるし、そういう見方をしてみても面白いのかなと思った。もちろん今回の新キャラたちは若々しいけどオルフェノクじゃんとか鈴木照夫とかいくらでも反証しようはあるけども。


パラロスと対になってるシーン

でもって問題のベッドシーン。今まで僕はフォロワーさんがたまに言ってるパラロスバッドエンド説っていうのを「そういう見方もできるのかなぁ」くらいに思ってたけど、今回ちょっとだけ分かった気もする。復コアと同じ組み立て方をしてるなって思ったのもここで、要はパラロスにおいて巧に対して救世主であることを押し付けてた真理が、パラリゲでは巧の弱さを受け入れて、草加や巧に求められたような母性的な役割を引き受けることになるって展開が。
確かにこういうのは見ようによってはバッドエンドだし、なんなら直前に海堂から「お前が一発やらしてやりゃあこんなことにはならなかったんだ」って言われてる分だけこっちのが見た目酷い。

でも、やっぱり僕は555的にはそれって必ずしも悪い結論じゃあなくて、他人から求められる理想像を背負って生きられるのは強いこと、尊いことだよねっていう描き方をされてるように思うんだよな。井上敏樹の世界観的にも、最初から"自分が本当にやりたいこと"を明確に設定してて、ブレずにそれだけを貫くキャラって、魅力的ではあっても模範的なキャラクターとしては描かれないことが多い気がするし。555でいうならむしろ草加とかのポジションな気がする、それは。
これは僕がなぜカブトを結構好きかってところにもかかってくる話だけど。


更に言うと真理の場合はもうちょっと事情が入り組んでて、まずそもそも真理は別に母性的な女性ではないでしょということを言っておきたい。確かに口うるさいかーちゃん気質なところは海堂の前で見せてるし、菊池クリーニングでも草加が来るまではごはんつくってたりもしたけど、僕にとってはやっぱり1話が強烈なのかな。
ナンパしてきた男が引いちゃうくらい、世間の言う"女性らしさ"を気にしない。飾らないし媚びもしない、我が道を行くキャラっていうイメージがあって、だからステレオタイプな母性とはあんまり相性がよくない。
草加が勝手に、本当に勝手に自分の理想を投影した結果「母親になってくれるかもしれない」なんていう幻想を押し付けてるだけで、真理はそんなガラじゃない。その証拠に真理は草加の好意を突っぱねている。

澤田だって、心の中ではオルフェノクになった自分を受け入れてくれるかもしれない(だから殺さないといけない)って思ってた訳だけど、巧の正体に気付いたり自分がオルフェノクになるかもって啓太郎に言われたときに人並みに動揺して受け入れたくないと悩んでたことからも、別に真理はなんでもかんでも受け入れてくれる温かい心の持ち主って訳じゃなくて、澤田がオルフェノクでも人間の心を持ってると信じたいと思ってたのは、単にそこまで近い間柄じゃないからというか、ひとつ屋根の下で暮らす訳でもないんだし、危ないときに颯爽と現れて自分のこと助けてくれる"だけ"なら、オルフェノクでもいいんじゃない? って思ったっていうだけの話だと思うんだよね。
ロリコンは生きてちゃいけないとまでは言わない」「でももし自分の旦那がロリコンだったら死ぬほど嫌」みたいな。こらそこ、"旦那"になれてる以上そいつはロリコンとは言えないとか固いこと言わないでください。

何が言いたいかというと、巧が救世主なんてガラじゃないのと同じように、真理は母性なんてガラじゃないという前提があってこそ、真理が巧を受け入れるシーンはドラマとして成立し得るはずなのよ。
パンフレットの「真理って気が強いし、いわゆる「あざとい」タイプでもないじゃないですか。「モテている」というのとは、少し違うような……(笑)」という話を読む限り、演者さんはなんとなく似た違和感を持っているんじゃないかなという気がする。
今は便宜上受け入れたと書いたけど、どちらかと言うと「断りきれなかった」っていうニュアンスの方が強い気がする。小説版なんかはまさにそうだったからというのもあるけど、母性なんていうポジティブなものじゃなくて、ただ押しに弱いだけのネガティブな行動が、巧にとってはひょっとすると母性的なもののように錯覚したのかもしれない、というこのすれ違いが555のミソというか醍醐味だと思うんだよな。

そもそもオルフェノクにとって生殖行為なんてものは意味がなくて、未来を担う子供を生み出すことなんかもうできなくなって(この辺も"老い"のニュアンスよね)、できるのは使徒再生だけ……それでもその全く意味のない触れ合いに何かを求める弱さこそが、あの2人を人間たらしめるひとつの証明になっている。
それでようやく、巧はオルフェノクなんか狩らなくても、真理は人間じゃなくなっても、お互いにお互いの存在を認め合えるんだと確信することができるようになると。
悪い話じゃあ、ないじゃない?


ここらで映像的な部分に抱いた不満の話もしておくと、1カットに複数の情報を詰め込んでいたのがすごくダサかった。どっかの何かで「監督は年を取ると長回ししたくなる」みたいな話を聞いたような気がかすかにするんだけどさ。

具体的に思い出せるのは、巧と真理が話しているのを柱の後ろで聞き耳立ててる玲菜と、高架下で死にかけてる巧の元に北崎が車でやってくるところ。あと中盤のカイザとミューズが戦闘するあたりのシーンでも一度感じたかな。
どっちもカメラの角度を変えて別のカットとして差し込んでくれれば何も違和感はなかったと思うんだけど、なんでなのかカメラがだんだん引いてったら玲菜(北崎)が映るという撮り方になってて、これはもうとにかくダサいとしか言いようがない。
「芝居を撮っていても、あまりカットを割りたくない。みんな、感情をキープできる力がついているから、それを活かす方向で撮りたくなりましたね」という話はパンフレットにあるんだけども、それとこれとはまた別の話のように思える。だってそのいい芝居とやらからピントが外れて別の話が始まってるんだから、別のカットでいいじゃん。


「やっぱりたっくんはファイズじゃないと」

ラストバトルの良かったところで言うと「やっぱりファイズはたっくんじゃないと」だったのがパラリゲでは「やっぱりたっくんはファイズじゃないと」に逆転してたところだろうか。
パラロスがそうだったように、本編では色々あったけども、映画という媒体においては分かりやすいように他の人間がファイズになったりはしないで、ファイズの変身者は巧ひとりに絞られてるのは意図的なものなのかね。
僕としては見栄えがすごくREAL×TIMEだったので、真理が変身しててもいいんじゃないかという気はしたが、でもそれこそ見栄えで言うなら仮面ライダーと怪人が共闘してた方が分かりやすくはあるよね。
結局オルフェノクオルフェノクが共闘してるだけじゃんという声も見たんだけど、555最終回を見返したらそんな言い方はできないと思う。巧と木場の共闘だって要はそうなんだから。

ファイズのスーツはフォトンブラッドのラインだけ塗り直したのかすごくテカテカしてたのが気になったけど、見ようによっては黄ばんだ……じゃなくて金色の特別なミッションメモリーを使って変身した俗に言う"最終回フォーム"みたいな味もして面白かった。
おそらくAIによる戦闘補助機能がついてるネクスファイズと違って、ファイズの動きは人間臭い不合理な戦い方だからAIじゃ予測できなくて勝てるっていうのも良かったよね。
変身者が人間の玲菜だったらまだ対応もできたかもしれないけど、アンドロイド北崎には理解できない。


人間とオルフェノクの共存

真理は人間とオルフェノクの共存がどうのって綺麗事を言ってたし、平成2期を超えて令和ライダーまで見てる我々もついそう言いたくなるけど、少なくとも555の最終回ではそんな綺麗な結論は出してないのよね。
オルフェノクの王を殺すべきかどうか」という葛藤は、共存というテーゼのためにはほとんど何の役にも立たない。
だってオルフェノクの王は劇中で描かれる限りにおいては、他のオルフェノクと違って人間を襲うようなことはしていなかったので、別に倒す必要はそこまで強くある訳じゃない。
むしろ彼を殺すことは、人間を襲う可能性のあるオルフェノクなんて不死になんかならずさっさといなくなって、人間だけの世界になればいいという決意の現れでしかない。それって共存とは全然違う。
せいぜい"オルフェノクの余生"という短い間だけなら共存も可能かもしれない……という、すごくドライな結論。
それをそのまま再提示したと見てもいいし、現代風にひっくり返したと見てもいい。好み的には長生きの方だけど、555には前者の方がしっくりくるってのが僕的な結論だろうか。

今回ラスボスとして倒したアンドロイド北崎をアークオルフェノクと同じような文脈で読むなら、オルフェノクをより早い段階で殺す存在ってことになるんだろうね。
寿命より長生きさせるアークオルフェノクも、寿命より早く殺すアンドロイド北崎も否定して、あくまで自然に覚醒したオルフェノクが自然に死ぬまでの間は、共存できたらいいねというオチ。


「反転させる」という復コア的手法

パラリゲのラストシーンについて僕が最初に思ったのはそれこそ「復コアみたい」だった。これはすごくひねくれた見方かもしれないけど、本編のあの後絶対すぐ死ぬじゃんっていう最終回から逆にそこそこ生きてたんだから、今回の「生命線伸びてる!」からは逆にすぐ死ぬんだろうなと。

巧はアンドロイド北崎がスマートブレインを牛耳るまでのそこそこ長い間生きたんだから、最終回で打たれたあの死ぬのを早める注射がどうやら意味なかった、つまりスマートブレインの医療班もそこまで完璧にオルフェノクの体の仕組みを理解はできてなかったってことなんだろうけど、このパラリゲでそういうことにしたからには、今回打った寿命を伸ばす薬も大した効果はなくて、思ったより長生きしたけど今度こそ本当に死にますよっていうパターンな気がした。
主人公を死なせるという意味で制作者のやりたいことは同じだけど、復コアは"見せ方"が特に良くなかったので、パラリゲでは見え方的には底抜けのハッピーエンドに見えるようにつくって、でも実は……っていう構成にしてみせたんだと思うと、流石だなぁと。
別に僕的にはそういうの全部取っ払って長生きしてもらっても全く構わないんだけど、もしそこに不満を覚える人がいたのなら(まぁ復コアの流れがあった上で主人公が死なないことに文句を言うなんて、思ってても口に出すのは憚られそうだが)、勝手にそういうことにしておいてもいいんじゃないかな。

 

猫舌は幸せの象徴?

巧が猫舌なのって、温もり(≒幸せになること)が怖いってことの表現だと思ってて、だからパラロスで記憶なくしてるタカシの状態だと湯気の出てる飲み物を平気で飲んでるんだろうなと理解した記憶があるんだけど、パラリゲではラストシーンでも猫舌設定だったよなぁと。
別にもう怖くはないけど、ふーふーしてもらっていちゃいちゃしたいがために猫舌キャラを演じてるのかもしれない。
戦いなんてしないで、あぁやって楽しく暮らしてそのうちぽっくり死ねれば一番いいんだろね。

 

86ma.hatenablog.com

One Japanese's Thoughts on "Godzilla Minus One"

This blog was translated by a Japanese English learner for study, so it may not be appropriate. Sorry.

 

 

 

I discovered a playlist about the Pacific War by NHK*1, so I'm watching it.

About war, I feel ashamed that my ignorant self pretends to think, and I feel like I shouldn't think or write.

*1 NHK is the Japanese initialism for Japan Broadcasting Corporation(Nippon Housou Kyokai) and it is one of the TV stations.

youtube.com

 

This tweet is recent. I'm ignorant of history. So maybe I shouldn't write half-heated things.

If you want useful information, please look at the playlist, not this blog.

 

 

From here, I, a 24-year-old brat, will write what I honestly thought seeing this movie.

 

I haven't read some interviews yet, so maybe my thoughts are different from the creator's thoughts, I understood that Godzilla in this movie is a punisher targeting the Japanese for starting the war… Or rather, a metaphor of the Japanese ourselves sense of guilt.

In the opening scene, Koichi Shikishima was blamed for not making a suicide attack or told that it may be good.

On that premise, in the face of a powerful existence that could threaten them(Godzilla ≈ America), Tachibana entrusted Shikishima with a preemptive strike by fighter jets. ……だが敷島は勇気が出ずに攻撃をしなかったことで幸いゴジラの攻撃対象にはならず、逆に先制攻撃を始めてしまった塹壕(?)の中の整備士たちは橘を除いて全滅した。
このシーンをいきなり見せることは観客にゴジラをお披露目するという意味を超えて、今回のゴジラは日本が戦争を始めたことを憎む者だと説明する意味があったんだと理解した。

 

日本人を核爆弾の、或いは震災の「被害者」としてではなく、あくまで「戦争(攻撃)を始めた罪人」という視点からゴジラを描く……ゴジラシリーズにおいてそれがどのような意味を持つのかは僕には知り得ないが、初代『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』くらいしかまともに見たことのなかった自分にはこれがひとつ衝撃的なことだった。
しかもその上で、政治劇だったシンゴジとは対象的に、とにかく敷島というひとりの男の個人的な物語にフォーカスするという手法が取られる。これもまた驚きだった。
そしてそれの恩恵というべきか、戦争という国家レベルの問題を個人の葛藤の問題に落とし込むために、この戦争の罪悪感というファクターは一見「仲間を救えず自分だけ生き残ってしまった罪」にすり替えた形で提示される。

 

僕は最近、フィクションで戦争というものを扱うとどうしても話がややこしくなってしまうらしい……ということを無知なりに実感してきていて、『キングオージャー』で国家の重大な危機を乗り越えるために国民全員に対して協力を要請し、その結果大団円となった描写に対して「これではまるであの戦争を美化しているのではないか」という批判を見て、それを経たことで自分の中でも『ハリケンジャー』の「戦争で死ぬのはおじいちゃんだけで十分、だからお前は戦うな」と言う祖母が出てくる回において「絶対なんとかなる、なんとかしなくちゃいけないんだ! 俺たちの親や、そのまた親や、ずっとずっと昔の人たちが守ってきた、この星を守るために!」と叫ぶ描写を見て、対象は"星"にすり替わってるとはいえ、戦争という文脈を提示した上で「守ってきた」と表現するのは、先制攻撃した事実をなかったことにしてるようで、そういう詳しい人たちからすれば良くない話の運び方なのではと思ったりもした。
最近アニメが終わったことで話題の『進撃の巨人』なんかとんでもなくて、最近はともかく序盤の方などは決死の特攻を美談として描く傾向がかなり強いし、何より調査兵団は「自分たちの領土を拡大し進撃すること」を目的として存在している。しかも舞台はドイツをイメージしているということもあり、実際の戦争と照らし合わせるとかなりセンシティブな問題に首を突っ込んでいて、僕みたいな門外漢はそれでも好きだがそういった"問題作"がここまで人口に膾炙しているという事実を結構不思議に思っていたりもする。
またシンゴジにおいても「一方的な注文ばかりだな、かの国は」とアメリカを揶揄するような描写があり、現実における国同士の関係に何らかの悪影響を及ぼさないのかとやや心配になった。

 

その点において本作はかなりクレバーというか、アメリカの存在感をほとんど感じさせず、徹底して「日本人の日本人による内省と葛藤」にだけ焦点を当てていて、しかも必要以上にジメジメ悩んだりとかもそれはそれでないので、見ていてノイズを感じることもなく、エンタメとしてとても気持ちよく見られた。
さっき罪悪感というテーマは敷島においては一見「仲間を助けられなかった(攻撃できなかった)罪」にすり替えられているといったけど、敷島だって「こんなことになるなら先制攻撃なんてしなければ」と思っていただろうし、実際そういう気後れする気持ちがあったからこそ特攻を放棄していたんだろう。
だからどちらかと言えば、彼を縛っているものの重心は「生き残ってしまった罪」の方にある。
僕は本当に歴史には詳しくないのだけれど、それでもなお知ってはいる満州事変のこととか、真珠湾攻撃とか、なんか昔の日本はどうやらすごくズルい戦い方をしてたらしいというぐらいのイメージはあって、そういう罪深い"日本人"として、のうのうと幸せに生きててもいいんだろうかという葛藤。
最初に貼った再生リストの中で、自爆覚悟で挑んでくる日本軍の狂気を見たアメリカ軍兵士が「日本人はここで殲滅しなければならない(I believe that the japanese, as a race, must be crushed so utterly)」「やつらが我々の子供たちに二度と立ち向かえないように(that they will not be able to rise again to make war against our sons.)」と述懐しているのがとても強烈に印象に残っている。まさに『進撃の巨人』でエルディア人が受けていたような視線を"ジャップ"は向けられていたのだという事実を知って、よくできてるとは言っても所詮はフィクションとして消費してきた『進撃の巨人』に初めて生々しい実感というか実在感みたいなものを感じた。
(参考:https://youtu.be/RfY4ABSdz98?si=KHclwmOW7rj40wXy)
実際の歴史では戦後に高度経済成長とやらがあってバブルがあって、まぁそれなりに豊かで幸せな国になってしまった訳だけど、本当にそれで良かったのか。
少なくとも敷島は自分を許すことができずに、色んな手を使って橘を呼び付けてまで、彼に自分が死ぬ様を見てもらうことで許して……というよりは裁いて欲しかった。彼はずっと罰を欲していた。そもそもの発端として命の保証がない危険な仕事を選んだのもその表れだろう。

 

ゴジラは日本人の罪悪感の化身なので、彼(と敢えて個人的な人間であるかのような表現をする)は日本人の死滅を望む。
それに唯一対抗できるのは、決死の突撃などでは絶対に絶対になく、ただ素朴に一個の生命として"生きるために"戦う者だけ……。
この結論がもう本当に、たまらなく感動した。我々日本人の罪は、むしろ"死を受け入れたこと"にこそあるのだという発想の大転換。
そしてその先に、典子が実は生きていたという"ご褒美"がある。もう、本当、ここのシーンは人生で見た映画の中で一番泣いた。しばらく画面が見えなくなるくらいボロボロに。
放射線の影響で幸せ100%とはいかないかもしれなくても、生きてさえいれば――。

仮面ライダーランダム視聴 16週目

 

106日目

ビーファイターカブト 第5話「大逆転去りゆく君へ」(メタルヒーロー)

・学生設定のヒーローは戦隊にもいるけど、この甲平くんはもう一段,二段くらいきちんと学生っぽい青さを感じる。
僕が知らないだけで、まだまだ色々と面白い作品があるもんだなぁ。
・カラーリングも金と黒ってヤバすぎる。ありえんかっこいい。
・幼馴染と引っ越しっていう題材も、青春だよなぁ……めっちゃいいわ。

鎧武 第22話「7分の1の真実」

・立ち止まって考えてみると、錠前,フルーツ,鎧武者ってモチーフとファスナーって何か関係あるのか? 何とも関係なさそうなのにクラックっていうめちゃくちゃ重要な概念として居座ってるのがなんか不気味で気持ち悪い。
スカラーシステムってどういう名前なんだろうと思ったが、ベクトルとの対比としてのscalarじゃなくてGoogle Scholarとかのスカラーで学者って意味らしい。偉い人たちが机上の上で考えた非常なシステム……みたいなニュアンスなのかな? 本人たちが名付けたにしては皮肉が利きすぎてるが。
・たまたまクラックの出現が多い沢芽市にユグドラシルがやってきて計画都市にしたって流れなのか?
・証拠隠滅のために街ごと吹き飛ばすつもりなのに住人をシェルターに避難なんかさせたら「何かあったらしい、しかも事故とかじゃなくユグドラシルは察知してたらしい」ことは確実に周りに伝わっちゃうじゃん。中途半端だな。
・自分の行為に"責任を持つ"ことが大人の条件のひとつだと思うが、それを強調して重すぎる罪の責任を背負う覚悟が決まっていることを大人の特徴にするのは面白いな。

 

107日目

X 第6話「日本列島ズタズタ作戦!」

・子供を助けるためだけに変身するのいいな。クウガのドラゴンフォームみたいな。
・なに、おやっさんって保護施設みたいなのを経営でもしてるのか? それとも前作以前での少年ライダー隊のことを言ってるのか?
・涼子さんとやら、昭和対平成の昭和ライダーみたいな役回りなのかな。

バイス 第5話「世直しライダー! 裏切り者は誰だ!?」

・「俺がやるよ」と簡単に言うが、ブラック企業の世直しなんて仮面ライダーと関係ないだろ、どうする気なんだ? 世間にどれだけあると思ってるんだ。
・「そんなに難しいこと考えなくていいの」というのは、なんかイヤ〜な感じだよな。強くはならないで〜♪
・ちょっと手伝ったくらいで更生プログラムを免除しちゃダメだろ。悪魔がいなくなって心のバランスが取れてない状態なんだろ?


108日目

じゃあまん探偵団魔隣組 第5話「恐怖の実験室」(不思議コメディー)

松田聖子の本名って、めちゃくちゃ時代を感じるなぁ……しかもアイドルは恋愛禁止みたいなイメージがあるけどこの時点でご結婚なさってるのね。
・泥棒心は誰にでもあるからジゴマ探知機を盗もうとするっていう話、どういうところに着地させたいんだろう? 博士の正体はジゴマで、実は探偵団を悪の道に誘おうとしているとかそういうことがあるのかなと思ったが、ジゴマはむしろその博士から助けてくれるダークヒーローみたいな立ち回りをしてて分からない。気になる。
・でも身近な人の泥棒心を測る玩具っていうのは面白いな。子供たちが襟を正すきっかけになるかもしれないって意味で。

ウィザード 第49話「サバトの幕開け」

・再びってことは、本編前の晴人が巻き込まれたサバトの時にも魔法使いが何人かいたってことなのか? 強制的に魔法使いになれる人間を選び出す儀式と、生み出した魔法使いでコヨミを蘇らせる儀式の両方ともサバトって名前なんだとしたらややこしいぞ。
・あぁ、前回は魔法使いがいなかったせいでコヨミの錬成が不完全なかたちになってしまったので、改めてやり直そうとしてるってことなのね。
・自分が人柱になってコヨミが蘇るならそれはそれでいいという話、他の3人を巻き込んでることを一旦棚に上げていいなら、復コアみたいなこと言ってるな。
・子供は親にとっての希望なので取り戻したいと思う……という話を、悪役の思想として子供に見せることで制作陣は何を描きたいんだろう。『クレしん 超能力大決戦』を念頭に。
・東京の住人から出た魔力じゃなくて、日蝕を引き起こしてサバトを行うために使っていた笛木の魔力を食べたってことなのかな?

 

109日目

RX 第10話「ニセ者でドッキリ」

・光太郎がRXってことは知らないのかな。知ってたら普通、真っ先に相談するよね。
・佐原夫婦だけノリが不思議コメディーシリーズなんだよな……。
・しかし光太郎、居候してたら周りの人たちに危害が及ぶことは自明なのにどういう都合でこの家に居続けるんだろう。そりゃ狙われて迷惑だから出ていけとは言われないだろうしそうする義務があるとも思わないけど、前作ではこんな風に群れたりはしてなかった気がするだけに気になる。
・まぁ「離れるよりも側にいて守れよ」ってセリフもあるし、別に文句がある訳じゃないんだが。

555 第6話「3人×3人」

仮面ライダーが平気で泥棒しようなんて、っていうか仮面ライダーじゃなくてもドラマの主人公に泥棒させようなんて普通思わないよな。
・野良の人間があくどいのはドンブラまで続く定番だけど、その悪人を怪人が処刑して、それを見たヒーローが人間が襲われてると誤認して処刑しようとして……って流れは今見ても完成度が高いなぁ。

 

110日目

スカイライダー 第48話「4人のスカイライダー 本物はだれだ?」

・初代も偽ライダーに黄色をあてがってたけどなんでやねん。そんなに黄色が憎いのか、警告色だから? こういう文脈の上で敢えてゼロワンが黄色を採用したことには、きちんと令ジェネと関連した意味を見出せそうだな。
・今作のおやっさんってこんなワイルドだったんだ。これはこれでいいな、好きだ。

ジオウ 第13話「ゴーストハンター2018」

・ソウゴの覇道に存在するはずがなかったゲイツの名前が逢魔降臨歴に載ったというのは、リバイブ世界線が生まれる端緒ってことなのかな。ウォズはそれを危惧していると。
・なんだかんだジオウ組でその後よく見かけるのは、ソウゴよりウォズより、ウール役の板垣李光人くんな気がする。僕が見てるやつにたまたまよく出てるだけ?
・しかしウォズの衣装って実際タイムジャッカーのそれと似てるけど、結局どういう関係なんだろうな彼らって。
・アナザーゴースト、時期的にもすごくハロウィンって印象を受けたのをよく覚えている。髪の毛があるのは初代オマージュなのかな。意外とゴーストって原点回帰色強いし。『1号』とかあったし。


111日目

スーパー1 第42話「悪魔元帥の大仮装パーティ」

・555でもあったけど、みんなでバスケットボールをぶつけるっていじめは昔からよくあるのか?
・『AKIRA』に出てきた博士にめっちゃそっくりなやつがいたな。
・スーパー1の仮装で出席するの度胸ありすぎだしシュールすぎる……とか思ってたら誰!? ガチ仮装だったのか。
・しかし、罠でもなんでもなく普通に仮装ダンスパーティーを楽しんでたってことでいいのか? なんて緊張感のない……。

ドライブ 第3話「だれが彼女の笑顔を奪ったのか」

・どんより、エフェクトも含めてタイムジャッカーの力にやや似てるな。なんか関係あるんだろうか。
・占いの結果を重んじてる本願寺、ふざけた感じが東品川の母に少し似てるかも。
ロイミュードは(多分"はたらくくるま"という表現からの発想で)職業モチーフらしいけども、特定の職業を悪く描く癖はこの頃から健在らしい。今回出てきた画家は2人ともロイミュードだもんな。
・見覚えがあったのはBLACK SUNの堂波か。ルー大柴さんって人なのね。
仮面ライダーの夢女子としての霧子、どういう意図での配置なんだろう。女性ファンも増えてるからそこへの目配せ……なんだとしたら、安直すぎないか?
ロイミュードに更生の余地を与える死神が悪で、完膚なきまでにぶっ潰す仮面ライダーが正義って構図、相変わらず謎すぎる。


112日目

V3 第18話「悪魔の裏切り あやうしV3!」

デストロンの怪人なんて殺しちゃえよっていう2人も不愉快だし、怪人の言うことを鵜呑みにして解毒剤を使うつもりのV3も気がしれないし、なんか変な話だなぁ。
・良かった、風見はちゃんと自分の力で解毒剤を探すつもりだったみたい。
・400km/hも出すなんて道路交通法違反だとか、そういう野暮なツッコミはこの頃にはまだないんだろうな。

ギーツ 第49話「黎明 I: ここからがハイライトだ!」

フィギュア王を読んで、撮影班は「下半身に能力が付いたからってどう差別化すればいいのか」と悩んだ(結果として、下半身フォームはフィーバーで偶発的になる以外ではあまり使われなかったんだろう)という旨の発言があって、「それを何とかするのがお前らの仕事だろ!」とジャンよろしくムカついたのよね。せっかく2つセットできるのに本編でほとんど使わないんだもん。
全く別ジャンルの2つを組み合わせるのが難しいのは仕方ないとしても、モンスターブーストさえ出してないのはどういう了見なのよ、最悪ナッジスパロウが使うことだってできたろうに。
……と思ってたんだが、この最終回のキックは普通にいいよな。やればできるのに何故やらない。ゼンカイジャーくらいから毎年言ってるけど、販促物の数を絞ったからには個々の魅力を最大限活かしてくれよ。頼むから。
・これはオーズに対して言いたいことなんだけど、もしも神様になることにデメリットがそんなにないんだったら、別に無理して拒む必要はないんだよな。神様になろうとして味覚を失ったりするのがつらいって話なんだから、もし五感を失わずに神様になってみんなを助けられるならそれに越したことはない。

 

前回

 

スーパー戦隊ランダム視聴 16週目

 

106日目

ジュウレンジャー 第13話「射て! 黄金の矢」

・「しつこい人はモテないわよ」
こういうテンプレートすぎるセリフをなんの衒いもなくそのまま使う人の気がしれない。脚本家というセリフを考える職業としてのプライドとかないのかな。
それともこのキャラ自身が、そのくらいつまんないことを言うようなつまんないアイデンティティの持ち主なんだろか。

ゲキレンジャー 第29話「グダグダヘレヘレ! ショッピング」

・ゲキチョッパーってこんな海堂みたいなオモシロキャラだったんだ、知らなかった。
・なんでゲキトージャウルフに2人は乗らないんだ? と思ったら、ゲキファイヤーに乗るために待ってたのか。なんかよく分かんないけど。
・リーさん、そりゃ言わなきゃ分かんないよ。
・ゲキバットファイヤーになることとリーとのドラマが何も繋がってないの、それでいいのか?


107日目

ジャッカー電撃隊 第34話「潜入! クライム要塞島」

・社員の命令って言うからバイトとかパートの人なのかなとか一瞬思ったが、シャインって固有名詞なのね。様とか付けないんだな。
しかしへぇ〜、異星からの侵略者って設定もシリーズのこんな初期からある伝統なのね。
・しかもメンバー内での恋愛関係まで。すげー意外だ。
・足手まといだからって、またそんなタックルみたいなこと言ってさぁ……。

デカレンジャー 第2話「ロボ・インパクト」

・普通ブルーってクールなキャラだし、なんならホージーは設定上クールなやつのはずなのに、こんだけ感情的になったりナンパしたりするの本当にすごいよな。悪い意味で。
・宇宙人にとってはエスパーなんて珍しくもないって描写はかなり好き。
・まぁでもセンちゃんがモテるってオチは好き。センちゃん。

 

108日目

マスクマン 第43話「アキラ失明! 謎の呪文」

・結構終盤のはずなのに、こんな1話ネタみたいなのやってるんだな。一応前回以前から話題には出てきていた、何かしら因縁のある敵だったみたいだけど。
・まただ、ロボ戦がめっちゃアクティブでかっこいい。1号ロボとの差別化として、ギャラクシーロボの特徴なのかな?

トッキュウジャー 第6話「探し物はなんですか」

・OP最初の、左右にチラチラとカラフルな後続列車が見える演出好き。すごくオシャレ。
・この5人って子供の頃以降の記憶はないって状態なのかな。記憶喪失的な扱いをされてるような印象はあまりないんだけど、どういうカモフラージュをされてたんだろう。
・番号では黄色が3号なのに、ロボットの時は緑が長い3車両のひとつなのはなんでなんだろ。カラーリング的にたまたま黄色とピンクが腕の方が収まりが良かったってだけなのか、長いのは男性メンバーに当てがおうって話なのか。
・全員がリーダーってのはいい話だな。女性レッドがどうこうとかを超越してみんなそれぞれに特徴や個性があるのがいいんじゃんって原点に立ち返ってるのがとてもいい。


109日目

カーレンジャー 第26話「ノンストップ宅配武器」

会津若松市って何でこんな有名なのかな。僕個人的には、中学の頃に合唱部の『会津磐梯山』を聴いて合唱ってこんなに面白いんだって感動したから名前が頭に残ってるんだけど。
・コメディだからって安直にギャグやろうとするとハードルが高くなるからスベり芸にするしかないみたいなとこあるよね。

キラメイジャー 第42話「仁義なき戦い

・現実にないものを絵に描けるのがオラディン王だけって話、クリスタリアの住人は"石頭"なのでってシャレか! ようやっと分かった。
・ロードガルザ、元がかっこいいだけにあんまかっこよくないな……下品な金色。

 

110日目

ジェットマン 第32話「翼よ! 再び」

・わざわざ人間を洗脳して幹部にしてるバイラムってのどういう存在なんだ? ラディゲってやつも人の顔してるし、単なるバケモノってよりは亜人の集まりなのか?
・「竜を貶していいのは俺だけだ!」
有名なこのセリフ、敵じゃなくてメンバーに対して発されたものなんだ……。

タイムレンジャー 第27話「小さな故郷」

・英語で歌いにくい主題歌をつくるのは勝手だけども、最低限の気遣いとしてせめて歌詞を画面に表示するべきだと思ってるので、ちゃんとやってるのは好印象。
別に読めなくてもよくて、この文字がこう発音されるんだってなんとなくでも覚えるもんだと思うから。
・"今を生きる未来人"たちの話だからと言って、過去に固執することを悪く描く訳じゃないのはちょっと意外だ。電王にもなんかいたよな、公園でダンスするの禁止するおじいさん。
・オーズでもそうだったけど、美容を求めることを悪として描くのは男児向けだから敢えてなのかな? 共感できないもんな。


111日目

カクレンジャー 第35話「おしおき三姉妹(シスターズ)」

・シュシュトリアンのパロディらしいんだけど、別に荒川さんは参加してなかったみたい。ゴーカイに先駆けてこの頃から過去作ネタを任される人だったのね。
・悪の戦隊みたいなくノ一軍団がいるの面白。リーダーが女性なこととも絡めて興味深い。
・シュシュトリアンっつーか僕にはハリケンジャーにしか見えないぞ!? 「クレヨンしんちゃん曰く、「じゃ、そゆことで」」とか、もうワケわかんない……面白すぎだろ。テレ朝繋がりではあっても、別に東映アニメーションではないじゃんあれ。
でも仮面ライダーコラボとかやってるし、意外と距離は近いのかな。

ゴーオンジャー 第42話「学園ノヒミツ」

・分別を邪魔しただけの怪人を大人数で寄ってたかってリンチするの、うーん……。敵怪人が怖いとそれはそれでクレームが来るらしいけど、かと言って単純にコミカルだったり情けないやつにするとこういうもっとまずい問題が出てくるんだよなぁ。
一番いいのはゼンカイジャーみたいに、バカバカしくてコミカルだけどしっかり極悪ってタイプなんだけど。
スケバン刑事はともかく、特撮でハルヒネタ!? うーん、やっぱ見といた方がいいのかな。そこまで一般教養になってるものなのか。
・魔法瓶になるのは面白くて好きだけど、タイガーとかさ、やりたい放題だなホント……。


112日目

PRシンケンジャー 第20話「エピソード・ゼロ(後編)」(パワーレンジャー)

・パワレンってOP全部共通なのか? めっちゃ聞き覚えがあるメロディだぞ。一応サムライ・フォーエバーとかキーワードは変わってるみたいだけど。
・意外とキャラ設定もかなり流用してるんだな。イエローのお姉ちゃんの話とか。
・ショドウフォンはサムライザーって名前になってんだ。"ライザー"ってネーミングセンスは向こうでも自然に通じるのね。
・中間変身形態として忍者になるの、日本の捉え方が雑すぎだろ(笑)

ルパパト 第50話「永遠にアデュー」

・QuizKnockの法律クイズで「AさんがBさんに貸している漫画をBさんのカバンから勝手に盗んで取り返した場合にも、窃盗罪は成立するか」というくだりがあったけど、自力救済の禁止という原則に従うなら、ルパンレンジャーは少なくとも現代日本には絶対に存在してはならない組織なんだよな。
現実に照らし合わせて考えるのであればルパンレンジャーというのはかなり罪深いけど、フィクションの中でなら存在を許される。
現代日本を舞台にしてるルパパトですらそうなんだから、況やファンタジー世界のキングオージャーにおいてをやだよね。
「ルパンレンジャーはきちんと作中で犯罪者扱いされてるじゃん」というのは尤もだが、今僕がランダム視聴で見てる50話では事情を聞いてパトレン側がルパンレンジャーにVSチェンジャー渡しちゃってるので、国際警察の人間が(というかルパパトという作品は)ルパンレンジャーはいてもいいと判断している。
(参考:https://youtu.be/MWvF19MN5Y8?si=Fjp0F16htqBvNh6j)
・初美花、失ったのは友達じゃなくて親のほうが良かったんじゃないかと思うんだけど、両親の描写ってどんな感じだったっけと気になっている。
・ルパパトって人間ドラマとしてはちゃんと面白いのに、その土台をつくる初期設定というか構図の部分がイマイチ詰めきれてない(少なくともそう見える)からなんかあんまり乗り切れないんだよなぁ。

 

前回

 

仮面ライダーランダム視聴 15週目

 


99日目

宇宙刑事シャリバン 第9話「ビックリハウスは 幻夢町0番地」(メタルヒーロー)

・予告でイガデンって聞いたときはうっかり八兵衛みたいなポジションのキャラかと思ったが、まさか主人公だとは。変わった名前だな、彼も宇宙人なのかな。
髪型もハリケンイエローみたいで、あまり主役然としてない。
・変身の際に「赤射!」と言ったらしいが、普通に聞いてたら「チクショウ!」だとしか認識できないでしょこれ。
・こんなにフラッシュ焚いてサイケデリックな映像、今じゃもう流せなさそう。
メタルヒーローのスーツは光沢によって映り込みが発生するから、まともに撮影するためには暗くしなきゃいけないという要請から生み出された異空間設定らしいけど、アイデンティティを完全に殺してしまってるも同然だけどいいのか……? 響鬼みたいに白飛びをむしろ演出として使うとか、ガッチャードの撮影法とか、ちょっとしたアイディアと工夫で解決できたんでないのか?

W 第38話「来訪者X/ミュージアムの名のもとに」

・フィリップは翔太郎さえいればテレパシーができるんだから、体は駅にいたまま山城の方は電話でもベルト越しでもいくらでも聞きようはあるだろ。ドーパントを倒さなきゃってんならともかくさ。
そりゃ実の名前を聞くなんて現場に立ち会わせない訳にはいかないけど、そのメタ的な都合の結果として若菜とすれ違ってしまうって展開はとてもいただけないね。お粗末だ。

 

100日目

巨獣特捜ジャスピオン 第45話「おれはサタンゴースの息子だ」(メタルヒーロー)

マッドギャラン? っていうダークヒーローっぽい戦士がいるのいいね、やっぱ結局、見た目はかっこいいのが一番だよ。
・ミニチュアで表現される空飛ぶバイクの疾走、結構かっこいいんだよな。特撮といえばCGの時代だけど、ミニチュアもいいもんだなぁ。

オーズ 第29話「姉と博士とアンクの真実」

・あくまで大事なのは自分の欲望であって、それを邪魔するなら他の欲望は排除すると言い切る鴻上、結構意外だよな。セルメダルのためにグリードは必要だが……という表現からして、あくまで鴻上の目的、つまり真のオーズの誕生に必要なのは大量のセルメダルであってコアメダルは必要ないのか……? 僕はてっきり、古代王がやろうとしたすべてのコアメダルの力を手に入れた状態が"真のオーズ"なんだと思い込んでたけど。
・ジオウでは偶然うまいことハマってたけど、"赤い羽根"については当時のスタッフはどういう認識でいたんだろ。「ヨーロッパやアメリカで「勇気や正義のしるし」として用いられた」……という説明とタカヘッド・ブレイブというネーミングからして、全く意識してなくてたまたま一致しただけという訳ではなさそうだけども。
・カザリはメズールの水を日上がらせるから、更に強いタジャドルの火力で勝負ってことなのかな? でも素朴に考えたら、火は水で消えるからカザリより下だよな。
・後藤のプライドの問題が解決してケーキ食うまでって、こんなにタイムラグあったのか。全然覚えてないもんだな……。
・伊達さんと真木のドクター繋がりコンビは本編でも扱われてたけど、伊達さんが信吾さんの体を診察するようなことはそういえばなかったな?

 

101日目

魔法少女ちゅうかないぱねま! 第15話「タナボタ人生」(不思議コメディー)

・貴族だから働きませんなんて言うくせに宝くじ買うなんて心が貧乏だな……(笑) とか思ってたらちゃんとしてた。
・テーマがテーマなだけに、何気に面白かったぞ? チグリスさんの言うこともすごく考えさせられるし、怠け者過ぎて宝くじにも執着しないというのは斬新すぎる。

カブト 第34話「砕け超進化」

・天道がぜクター集めをしてるのは、万が一にもひよりをワームとして倒すライダーが現れないように力を独占したいってことなのか? なんか、世論のせいもあって筋が通ってるものという前提でカブトを見ることに慣れない自分がいるので、ランダム視聴というのは貴重な機会な気がする。それまでの文脈(信用,落胆)とかを一旦抜きにして、まっさらな気持ちで見られるから。
・と思ったら今度は交換条件としてゼクターを渡すって話になっちゃった。あえなく沈没。口だけで手放すつもりはないのか、それともゼクターは最終的に自分を選んで戻ってくると思っているのか。ハイパーゼクターではなく蓮華の手を取ったみたいに。


102日目

おもいっきり探偵団覇悪怒組 第9話「宿敵!辛切警部現わる」(不思議コメディー)

・食用チューリップというのは確かにあるらしいが、普通のやつは食べられないらしい。こういう表現は真似する子供が出てくるからダメですとか、今なら言われそう。
いや、真似したくないようきちんとキモく演出されてるからいいのか?
・魔天郎の設定はなんとなくグリッドマンに似てる気がした。
・「笑ったときに銀歯が覗くとなんか怖い」というのは割とよく見る表現な気がするけど、実写でやってるのは初めて見たかも。

フォーゼ 第40話「理・念・情・念」

・40周年記念であるフォーゼの記念すべき第40話ということでどんな話だったかとワクワクしてたのだが、まさかあの有名なゴルフ回だったとは……。
・ゼロワンの終盤(43話)で見たようなトイレットペーパーだ。見返したらその時の滅もタウラスと似たようなこと言ってるな。
・頑張ってそう見ようとすれば、確かに人々の自由を奪うゾディアーツというのは仮面ライダーの骨子ではあるけども、そこまで真面目な意図でやってるとはあまり思えないんだよな(笑)

 

103日目

ビーロボカブタック 第10話「夕陽に消える怪獣」(メタルヒーロー)

・色々東映特撮を見るようになったけども、なんかその中でもめちゃくちゃ異質なノリだな!? どっちかと言うとすげぇホビーアニメっぽさを感じるOPだ。スーパーチェンジのギミックも、完全にデジモンのそれだもんな。
タイムボカンシリーズにも近い雰囲気を感じる。
・キャラの濃い着ぐるみがたくさんいてワチャワチャしてる絵面、完全に電王のそれだな。"アニメっぽい"という印象も同じだし。白倉さんは番組の枠の話をよくするし、意識の根底にあったのかもしれない。

龍騎 第22話「ライアの復讐」

・この長い歴史の中でも、ウルトラマンよろしく戦闘にタイムリミットがある仮面ライダー龍騎くらいなのか。めちゃくちゃ便利に使ってるからもっとあってもよさそうなもんだけど、他にないよね?
・戦いを拒んでる人間でも、もし他を圧倒する力を得て本当に何でも叶えられるかもしれないとなったら戦い始めるに違いない……と神崎は考えたのか。そうだよな、手に入れられるとなったら欲しくなるのが人の性だもんな。
・真司の戦いの重さを受け止めるために戦う……というのは、ある意味でゼロワンにおける"戦い"とも近いのかもな。
・「私、知りたいの」を「死にたいの」に空耳した。映画のあれが……。
・可能性がゼロじゃないだけじゃ云々、こないだした言い合いを思い出すな……。
・別に生身で吾郎ちゃんと殴り合ったってイライラは晴らせそうなもんだけど、それを我慢してでも北岡を呼び出そうとする辺りがすごく浅倉って感じだよな。変なところで冷静っていうか。
もし北岡が来なければ、改めて吾郎ちゃんとやりあえばいい訳だしね。ちゃっかりしてるわ。
・ミラーモンスターがライダーを殺した場合どうなるんだろうね。普通に考えて、最後に残った一人を生贄にすればいいだけなら最初から一人適当に選べばいいだけのはずなので、願いのために戦わせ合うっていう"儀式"が必要なんだろうけどさ。

 

104日目

魔法少女ちゅうかなぱいぱい! 第7話「七色の恐竜」(不思議コメディー)

・ぱいぱいは母親代わりなのね、それだけですごく興味深いかもしれない。魔法少女ものは数あれど、"少女"なんだからどちらかと言えばまだ子供側の立場にいるはずなのに。
しかもこれまた原作が石ノ森章太郎とな。彼の母性に対する捉え方にはやや興味がある。
・ただ意地悪なだけの一般人を痛い目に遭わせる……という話は、ちょっと苦手なんだよな。

剣(ブレイド) 第17話「邪悪なベルト」

レンゲルはアーマーが金色だから最初からジャックフォーム相当の強さを持ってる説、僕は割と好きなんだけど、カリスも一応差し色は金色か。
仮面ライダーになったことでバスケでいいプレーしまくって……って流れ、すごくスパイダーマンっぽい。というか洋画っぽい。スポーツができる≒自己実現なあたりが。
井上さんはアギトで海外ドラマのテイストを取り入れた……みたいな語られ方をすることをよく見るし、そういうのよく見るのかな。
・「給料は安いし残業手当は出ないし」これ、てっきり本編以前の話だと理解してたけど、そういえば後に給料払われてたって判明した訳だから現在の話なのか。
・桐生さんを出すことで橘と睦月の話を一挙に進める手付き、響鬼での活躍に似たものを感じる。鮮やかすぎる。まさに「アイデアというのは複数の問題を一気に解決するものである」って感じ。
・万引きの商品がオロナミンCってのも笑えるよな。盗みたくなるほど魅力的な商品ですってか。

 

105日目

スカイライダー 第12話「暗闇のサンタクロース あぁ変身不可能」

・潜入がバレたら元も子もない? とはいえ、ライダーの目の前であっさり人が殺されてそれをただ見てるだけとは思わなかった。果たしていいのか、これは。
・結局ひとつの牢屋にいた少人数だけ助けて満足してるのなんなんだ。

エグゼイド 第20話「逆風からの take off!」

・大我がオバケ苦手なの、意外とお医者さんあるあるだったりするのかな。放射線科医がそうかはともかくとして、普通の人よりも人間の死に立ち会う機会は相当多いはずだし、ドラマ的には仮面ライダーとして小姫を助けられなかった後悔とかもあるだろうし。
・エグゼイドの2クール目って、永夢はマイティブラザーズの販促が一段落してからはゲーム病関連で一旦最前線からは外れて、レベル50になる2人の方に焦点が当たるようになるって意味でビルド(スクラッシュ組),ゼロワン(サウザー)とも似てるかもしれない。1クール目は販促補正でずっと強いぶん、2クール目では他に強いやつが出てきて一度パワーインフレに置いていかれて、そこからまた再起する……っていうのが大森さん的には使いやすいパターンなのかも。
・「半分は俺のガシャットでもあるってことだ」
ウルフといえば俺のだろとか言ってた不破と同じこと言ってる……。

 

前回

 

罪人は生きる『ゴジラ-1.0』 感想

youtube.com

先日、このようなことがあった。僕は歴史に疎い。ので、中途半端なことを語るべきではないのかもしれない。
有益な情報が得たい方は、貼り付けた再生リストのみを見て欲しい。


ここからは僕というまだ24歳のガキが、この映画を見て素直に思ったことを書く。
まだパンフレットを見てないから作者の意図とは違うかもしれないけど、僕は『ゴジラ-1.0』のゴジラは「戦争を仕掛けた日本の罪を裁く存在」として……いや、というよりはむしろ「その日本人の罪悪感の象徴」として見た。
冒頭のシーンにおいて、敷島は特攻しなかったことを暗に責められたり、それもいいんじゃないかと言われたりしていた。
その上で、突然現れ今にも自分たちを脅かそうとしている強大な存在(ゴジラアメリカ)を前にして、橘は戦闘機による先制攻撃を敷島に託した。……だが敷島は勇気が出ずに攻撃をしなかったことで幸いゴジラの攻撃対象にはならず、逆に先制攻撃を始めてしまった塹壕(?)の中の整備士たちは橘を除いて全滅した。
このシーンをいきなり見せることは観客にゴジラをお披露目するという意味を超えて、今回のゴジラは日本が戦争を始めたことを憎む者だと説明する意味があったんだと理解した。

 

日本人を核爆弾の、或いは震災の「被害者」としてではなく、あくまで「戦争(攻撃)を始めた罪人」という視点からゴジラを描く……ゴジラシリーズにおいてそれがどのような意味を持つのかは僕には知り得ないが、初代『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』くらいしかまともに見たことのなかった自分にはこれがひとつ衝撃的なことだった。
しかもその上で、政治劇だったシンゴジとは対象的に、とにかく敷島というひとりの男の個人的な物語にフォーカスするという手法が取られる。これもまた驚きだった。
そしてそれの恩恵というべきか、戦争という国家レベルの問題を個人の葛藤の問題に落とし込むために、この戦争の罪悪感というファクターは一見「仲間を救えず自分だけ生き残ってしまった罪」にすり替えた形で提示される。

 

僕は最近、フィクションで戦争というものを扱うとどうしても話がややこしくなってしまうらしい……ということを無知なりに実感してきていて、『キングオージャー』で国家の重大な危機を乗り越えるために国民全員に対して協力を要請し、その結果大団円となった描写に対して「これではまるであの戦争を美化しているのではないか」という批判を見て、それを経たことで自分の中でも『ハリケンジャー』の「戦争で死ぬのはおじいちゃんだけで十分、だからお前は戦うな」と言う祖母が出てくる回において「絶対なんとかなる、なんとかしなくちゃいけないんだ! 俺たちの親や、そのまた親や、ずっとずっと昔の人たちが守ってきた、この星を守るために!」と叫ぶ描写を見て、対象は"星"にすり替わってるとはいえ、戦争という文脈を提示した上で「守ってきた」と表現するのは、先制攻撃した事実をなかったことにしてるようで、そういう詳しい人たちからすれば良くない話の運び方なのではと思ったりもした。
最近アニメが終わったことで話題の『進撃の巨人』なんかとんでもなくて、最近はともかく序盤の方などは決死の特攻を美談として描く傾向がかなり強いし、何より調査兵団は「自分たちの領土を拡大し進撃すること」を目的として存在している。しかも舞台はドイツをイメージしているということもあり、実際の戦争と照らし合わせるとかなりセンシティブな問題に首を突っ込んでいて、僕みたいな門外漢はそれでも好きだがそういった"問題作"がここまで人口に膾炙しているという事実を結構不思議に思っていたりもする。
またシンゴジにおいても「一方的な注文ばかりだな、かの国は」とアメリカを揶揄するような描写があり、現実における国同士の関係に何らかの悪影響を及ぼさないのかとやや心配になった。

 

その点において本作はかなりクレバーというか、アメリカの存在感をほとんど感じさせず、徹底して「日本人の日本人による内省と葛藤」にだけ焦点を当てていて、しかも必要以上にジメジメ悩んだりとかもそれはそれでないので、見ていてノイズを感じることもなく、エンタメとしてとても気持ちよく見られた。
さっき罪悪感というテーマは敷島においては一見「仲間を助けられなかった(攻撃できなかった)罪」にすり替えられているといったけど、敷島だって「こんなことになるなら先制攻撃なんてしなければ」と思っていただろうし、実際そういう気後れする気持ちがあったからこそ特攻を放棄していたんだろう。
だからどちらかと言えば、彼を縛っているものの重心は「生き残ってしまった罪」の方にある。

僕は本当に歴史には詳しくないのだけれど、それでもなお知ってはいる満州事変のこととか、真珠湾攻撃とか、なんか昔の日本はどうやらすごくズルい戦い方をしてたらしいというぐらいのイメージはあって、そういう罪深い"日本人"として、のうのうと幸せに生きててもいいんだろうかという葛藤。
最初に貼った再生リストの中で、自爆覚悟で挑んでくる日本軍の狂気を見たアメリカ軍兵士が「日本人はここで殲滅しなければならない(I believe that the japanese, as a race, must be crushed so utterly)」「やつらが我々の子供たちに二度と立ち向かえないように(that they will not be able to rise again to make war against our sons.)」と述懐しているのがとても強烈に印象に残っている。まさに『進撃の巨人』でエルディア人が受けていたような視線を"ジャップ"は向けられていたのだという事実を知って、よくできてるとは言っても所詮はフィクションとして消費してきた『進撃の巨人』に初めて生々しい実感というか実在感みたいなものを感じた。
(参考:

youtu.be)

実際の歴史では戦後に高度経済成長とやらがあってバブルがあって、まぁそれなりに豊かで幸せな国になってしまった訳だけど、本当にそれで良かったのか。
少なくとも敷島は自分を許すことができずに、色んな手を使って橘を呼び付けてまで、彼に自分が死ぬ様を見てもらうことで許して……というよりは裁いて欲しかった。彼はずっと罰を欲していた。そもそもの発端として命の保証がない危険な仕事を選んだのもその表れだろう。

 

ゴジラは日本人の罪悪感の化身なので、彼(と敢えて個人的な人間であるかのような表現をする)は日本人の死滅を望む。

それに唯一対抗できるのは、決死の突撃などでは絶対に絶対になく、ただ素朴に一個の生命として"生きるために"戦う者だけ……。

この結論がもう本当に、たまらなく感動した。我々日本人の罪は、むしろ"死を受け入れたこと"にこそあるのだという発想の大転換。
そしてその先に、典子が実は生きていたという"ご褒美"がある。もう、本当、ここのシーンは人生で見た映画の中で一番泣いた。しばらく画面が見えなくなるくらいボロボロに。
放射線の影響で幸せ100%とはいかないかもしれなくても、生きてさえいれば――。

 

リーガル・ハイ 第5話「期限は7日! 金か命か!? 悪徳政治家を守れ」/『シン・ゴジラ』 感想 - やんまの目安箱

スーパー戦隊ランダム視聴 15週目

 


99日目

ターボレンジャー 第32話「悪魔の大怪鳥!」

・めちゃくちゃシリアスな話をしてるはずなのに、儀式の踊りがなんであんなダンスフロアみたいな楽しそうなやつなんだ……あまりにもシュールすぎる。
・この頃から女幹部は女メンバーが倒すみたいな慣習はあったんだな。そう思うとシェリンダとハヤテの因縁は、しょーもないけどそれだけで意味のあるものなのかも。
・大怪鳥の話は!? 流れの2人が乗ってただけのやつ!?

マジレンジャー 第13話「お母さんなら ~ジンガ・マジュナ~」

マジレンジャーって、最初から金色のラインが入ってて強そうだよね。元からメンバーのスーツにある差し色が追加戦士のメインカラーになることはよくあることだけど。
・腹が減っては戦はできぬ、だもんな。蒔人のうっかりミスは、そもそも日頃彼がひとりで生計を賄ってるらしいことを思えば他4人が依存しすぎって話だからそこまで責めるものではないし、今回基本的に誰も悪くないのでガチギレする魁が怖いだけになってしまうのがあまりよくない。
・一応強敵っぽいのに、それを全く無視して麗の話でいい感じにまとめてるの面白。

 

100日目

ダイレンジャー 第5話「あっタマきたッ」

・巨大戦が番組後半になきゃいけない理由はないよねみたいなお約束崩し、白倉さんだからとかじゃなく以前からもやられていたのかな。
・自然物に八つ当たりするのすげぇな。「最近のヒーローはいい子ちゃんすぎる」とか言うだけのことはあるわ。
・「頭にくる」と「あっ、玉が来る」がかけられてるのね! 好きだよこういうの。

リュウソウジャー 第19話「進撃のティラミーゴ」

・ティラミーゴがメルトのこと嫌いな理由、なんか昔に納得した気がするんだが思い出せない。
・マイナソーって、人間の負の感情から生まれるバケモノでありながら当の本人は被害者っぽく衰弱するのが便利というか面白いよな。あくまで悪いのは人の弱さにつけ込んだドルイドンであると。
・せっかく学校が舞台だけど、アスナは特に話に関わらないのね。


101日目

ゴーグルファイブ 第22話「呪い人形の攻撃!」

・人形たちが抱く呪いの気持ちを発露させてるデスダークが一見人間の傲慢さを指摘してる正義かのようだけど、ただ都合の良いように、文字通り人形として利用するだけってところに話をスライドさせて「許すまじ!」にもってくの、うまいな。
・なるほど、これが定番の七変化回か。女性メンバーが2人のときはどうすんだろ。

ゴセイジャー 第49話「未来への戦い」

・ブレドラン、色んな悪意をラーニングしたアークにちょっと似てるかも。なんかもうちょっと似てる何かがある気がするんだけど出てこない。……と思ったら名前の由来はブレードランナーというファンによる説が。そうなの!?
・しかも元護星天使という設定とな。すげー大森さんが好きそうなやつじゃん。僕はEDの歌詞から護星天使って未来人なんだと勝手に思ってるけど、その辺とも合致するかもしれない。


102日目

ライブマン 第44話「ブッチー涙の大暴走!!」

・ショックの表現としてブッチーの目がわなわなと震えてるのすごいな。昔の着ぐるみはこういうとこが凝ってて面白いよね。
・コミカルキャラとはいえ、きっちり悪役としてやることはやってきたヤバツエみたいなキャラなんだろうと多分思うんだけど、それでもなお、況してやロボットだったとしても、傷心していたら音楽を奏でて癒やそうとしてあげるの素晴らしすぎないか?
スーパーライブロボじゃなくてライブボクサーに5人で乗るのね。なんでだろ。

アバレンジャー 第16話「乗ってけ! アバレサーフィン」

・僕、トクサツガガガでこのシーン見たときは結構な衝撃を受けたんだけども、こんなそのまんまな元ネタがあると知ってがっかりしたなぁ。
・お金で縁を切ろうとするなんて父親とそっくり、という皮肉は成立するんだろうか。相手の流儀に合わせてやってると捉えることもできるけど、整体師としてめちゃくちゃな額を請求してるという普段の行いを思うとやっぱり似てるという見方でいいのかも。自覚もなかったみたいだし。
・この回のテーマが親子の確執だったことからも、ステゴスライドン捨て子説は割と疑いようがないよな。

 

103日目

フラッシュマン 第50話「さらば!故郷の星」

・超電子と超新星だけが、しかも間に電撃戦隊を挟んで変わったタイトルをつけてるのがなぜなのか気になる。
・トッキュウジャーみたいなトリッキーなことはしてなくても「親を探す」というのがメンバーの動機づけになってるのは子供も共感しやすいのかな。『みなしごハッチ』とか、子供の頃はみんなで見てたもんな。
・やっぱ最終回って、どちらかというと敵の散り際を描くものなんだな?
・このタイムリミット設定は、ウルトラマンとかもイメージソースにあるのかな。

ドンブラザーズ 第43話「トキかけナゾかけ」

井上敏樹は設定を考えてない訳じゃなくて、単なる設定の説明はつまらないから明かさなくても別に気にしないだけ……なのかなと思うんだが、ドンブラ終盤に関して言えば僕はあんまり面白いと思えてないんだよな。
ただワケが分からないだけのものを面白いとは思わない。
・なるほど、未来のはるかにはもう猿原がいるから、タロウのことはまさに"初恋の思い出"としてきちんと成立していて、その哀愁がある分だけそっちが評価されちゃったのかな。初恋って、過去のことになってから思い返す方がなんかロマンチックに思える気がするので。
パラレルワールドではきちんとロボタロウをパワーアップ形態として扱ってるの羨ましすぎる。


104日目

ダイナマン 第13話「さらわれた花嫁」

・花嫁に紛争するエピソードは本当に定番なんだな。シンケンのと違って花嫁である物語的な必要性が全くなくて、明らかに「ヒロインに花嫁衣裳を着せたい」ってところから発想してるもんな。
ダイナマンのおでこって、富士山がモチーフなのかな?

ガオレンジャー 第26話「狼鬼、ふたたび」

・ガオズロックって、語感的にはエアーズロックだけど、あのカメのことだよね? じゃあ関係ないのかな。エアーズロックで検索するとオルガ山ってワードが出てきたから、なんか由来があるのかと思ったが。
・一人で戦うことにこだわる理由が今回だけじゃよく分かんなかったんだけど、見返せば分かるもんなのかな。ドゴルドとは事情がやや異なるじゃんね。

 

105日目

チェンジマン 第36話「見たか! 俺たちの力」

・体育会系だとかパワハラだとか、そんな言葉では言い表せないほどの気持ち悪さがあるな。"軍隊"ってつまり、こういうキショキショ集団な訳でしょ。とても見るに耐えない。

ジュウオウジャー 第3話「帰りたいけど帰れない」

・大和、演技うまいんだか下手なんだかよく分かんないんだよな。強いて言うなら、歌のおにいさんっぽい。自然さとはかけ離れてるけど、"そういうもの"としてはうまい感じ。
・ジュウオウチェンジャー、意外と面白くて好きなんだよね。最後にパカッと開く必要は別にないんだろうけど、せっかく内側で画面がメンバーカラーに光ってるのが見えるようにっていうのもあってそういうポーズになってるんだろうね。
・キューブタイガーの爪、本編ではこんないい感じに使われてるんだな。

 

前回